イタリア映画のマエストロ(6)
ヴィットリオ・デ・シーカ Vittorio De Sica

 

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 ロッセリーニ、ヴィスコンティと並んで、最も重要なネオレアリスタと呼ばれる巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ。世界中の観客に深い感動を与えた『靴みがき』(46)や『自転車泥棒』(48)は、戦後のネオレアリスモ運動の中で生まれた金字塔的な傑作だ。
 それゆえに、その後の『昨日・今日・明日』(63)に始まる一連のセックス・コメディ、『終着駅』(53)や『ひまわり』(70)などのメロドラマには批判の声もあったという。しかし、芸術家が時代の流れの中でそのスタイルや手法を変えていくのは至極当然のことではないだろうか。
 ネオレアリスモというのは、第2次世界大戦末期から終戦直後にかけてのイタリアにおける社会的な大混乱の中で、そのありのままを映画作品として記録しておきたい、貧困にあえぐ国民の声を代弁しなくてはいけないという、映像作家たちの使命感から生まれた映画運動と言ってもいいだろう。つまり、あの時代に生きた映像作家であれば誰もが通る道だったわけであり、たまたまデ・シーカはその先駆者であり象徴であったというだけのことなのではなかろうか。
 個人的な意見を述べると、デ・シーカは常に弱者や庶民の目線から社会を描き続けた映画監督ではないかと思う。『終着駅』や『紳士泥棒/大ゴールデン作戦』(66)など一部の例外を除けば、デ・シーカ作品における根本的なスタンスには一貫したものがあると言えるだろう。
 ファシズム政権下における中流家庭の欺瞞を子供の視点から痛烈に批判した『子供たちは見ている』(43)、過酷な生活を送る戦争孤児たちの悲劇を通じて戦争の爪跡を描いた『靴みがき』、盗まれた自転車を探して路頭をさまよう父と子の姿を通じて戦後イタリアの貧困を描いた『自転車泥棒』といった一連のネオレアリスモ作品は一番分かりやすい例かもしれない。
 さらに、戦時下に生きる母と娘を主人公にした『ふたりの女』(60)では女性の目を通して戦争の理不尽を描き、様々な男女のセックス事情を大らかな笑いで綴ったオムニバス映画『昨日・今日・明日』ではイタリアの各地方における庶民のバイタリティを描いた。ブルジョワのユダヤ人一家を主人公にした青春メロドラマ『哀しみの青春』(70)にしても、一家の一人娘に恋する庶民の若者の視点から、ファシズムに傾倒していく時代とその犠牲となった人々を描いた作品と言えるだろう。
 その後も時代の証言者としてリアリズムにこだわり続けたロッセリーニは歴史を記録するために映画を作り、時代とはあまり関係のない独特の芸術世界を築き上げたヴィスコンティは自分自身を表現するために映画を作った。そんな風に考えてみると、デ・シーカはあくまでも一般大衆のために、彼らの代弁者として時代や社会を見つめながら映画を作り続けた作家だったと言えるのかもしれない。

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『靴みがき』より

 1901年7月7日、ラーツィノ州フロジノーネ県の町ソーラに生まれたデ・シーカ。幼い頃から演劇が大好きで、21歳の時にタチャーナ・パヴロワの劇団に入って舞台俳優の道を歩み始める。27年に女優ジュディッタ・リッソーネと組んだ舞台が大成功し、翌年には俳優として映画デビュー。さらに、33年にはジュディッタと結婚し、友人のセルジョ・トファーノを加えた3人で自らの劇団を創設した。
 そして、32年に主演したマリオ・カメリーニ監督の軽喜劇『殿方は嘘つき』の大ヒットで売れっ子となり、デ・シーカは粋で洒脱な2枚目スターとして活躍するようになる。
 映画監督としてのデビューは、39年の共同監督作“Rose scarlatte(真紅のバラ)”。当初は自ら主演を務めるコメディ映画を撮っていたデ・シーカだが、映画雑誌『チネマ』の同人として反ファシズム運動に深く関わっていた作家兼脚本家チェザーレ・ザヴァッティーニとの出会いが、その映画作家としての方向性を大きく変えることとなった。
 ザヴァッティーニと最初に組んだのが、ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、アレッサンドロ・ブラゼッティの『雲の中の散歩』と並んでネオレアリスモの先駆けと言われる名作『子供たちは見ている』(43)。さらに、『靴みがき』(46)と『自転車泥棒』(48)がアメリカのアカデミー賞で名誉賞を獲得し、一躍世界的にその名を知られるようになった。
 ミラノに暮らすホームレスの人々へ暖かい眼差しを向けた『ミラノの奇蹟』(51)ではネオレアリスモにファンタジー的なタッチを加え、アパートの立ち退きを迫られた一人暮らしの老人を描く『ウンベルトD』(52)では老人問題に真っ向から取り組んだデ・シーカ。『ミラノの奇蹟』ではカンヌ映画祭パルム・ドールに輝いた。
 さらに、『終着駅』(53)ではアメリカからジェニファー・ジョーンズとモンゴメリー・クリフトという大スターを迎え、裕福な人妻と若者の愛と葛藤をリアルタイムで描いてみせる。このハリウッド的メロドラマは当時賛否両論だったものの、どうしてもついて回るネオレアリスモというイメージから脱却し、コマーシャルな映画だって撮ることができるということを証明するには十分な佳作だったと言えよう。
 続くオムニバス映画“L'oro di Napoli(ナポリの黄金)”(54)ではナポリを舞台にした人間模様をユーモラスに描き、自分の家を持つために奔走する夫婦を主人公にした『屋根』(56)では貧しい庶民の知恵とバイタリティをほのぼのとしたタッチで浮き彫りに。
 その傍ら、俳優としてもジーナ・ロロブリジーダと共演した『パンと恋と夢』(53)やマックス・オフュールス監督のフランス映画『たそがれの女心』(53)などで、ダンディかつ洒落っ気のある中年紳士を演じて人気を集めた。

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デ・シーカとチェザーレ・ザヴァッティーニ

 そして、イタリアが高度経済成長を果たし、もはや戦後が過去のものとなった1960年。デ・シーカはネオレアリスモ・タッチの反戦映画『ふたりの女』(60)で原点に立ち戻る。この世界的なヒットで再び映画監督としての株を上げたデ・シーカだが、続くコメディ“Il Giudizio universale(最後の審判)”は興行的にも批評的にも大惨敗。しばらくは失敗作が続いたが、そのスランプをはねのけるくらいに大胆かつ豪快なセックス・コメディ『昨日・今日・明日』(63)で世間の度肝を抜き、見事にアカデミー外国語映画賞を獲得する。
 この作品で共演したソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニはイタリア映画黄金期を象徴する名コンビとなり、続くセックス・コメディ『あゝ結婚』(64)でも再び共演。勢いに乗ったデ・シーカはハリウッドからピーター・セラーズを招いたコメディ『泥棒紳士/大ゴールデン作戦』(66)、シャーリー・マクレーンを主演にハリウッドとの合作で撮ったセックス・コメディ『女と女と女たち』(67)、フェイ・ダナウェイとマストロヤンニを共演させたメロドラマ『恋人たちの場所』(68)と、立て続けにインターナショナルな作品を手掛けていく。
 しかし、不治の病に侵されたアメリカ女性と彼女を愛するイタリア男の悲恋を描いた『恋人たちの場所』は大変な不評で、以降しばらくの間は俳優業に専念することとなった。
 そんなデ・シーカが改めて戦争に翻弄される男女の悲劇を叙情的なタッチで描いたのが、ローレン&マストロヤンニの黄金コンビを復活させたメロドラマ『ひまわり』(70)。ヘンリー・マンシーニによる切ないテーマ曲と相まって、デ・シーカにとっては久々の大ヒットとなった。
 続く『悲しみの青春』(70)ではベルリン国際映画祭のグランプリ(金熊賞)とアカデミー外国語映画賞を受賞。“Una Breve vacanza(短い休暇)”(72)では依然として根強く残る貧困問題や女性差別をネオレアリスモのスタイルで描いてみせた。
 かくして山あり谷あり、紆余曲折を経ながらも戦後イタリア映画の黄金期を牽引してきたデ・シーカだが、1974年11月13日、滞在先のパリ近郊にて死去。享年73歳だった。その遺作となった『旅路』(74)は、愛し合いながらも結ばれなかった中年男女(リチャード・バートンとソフィア・ローレン)のささやかなロマンスを通して、因習や世間体に縛られたイタリア社会の理不尽を描いたメロドラマ。老境にさしかかったデ・シーカの、まるで悟りを開いたかのごとき穏やかな語り口が印象的だった。
 なお、最初の妻ジュディッタ・リッソーネとは結婚後数年でほぼ別居状態となり、42年に知り合ったスペイン女優マリア・メルカデルと同棲生活を始めた。しかし、当時イタリアのカトリック教会が離婚を認めていなかったため、結局デ・シーカが68年にフランスの市民権を得たことで、ようやく離婚が成立。すぐさま、デ・シーカはマリアと正式に結婚した。
 ちなみに、作曲家のマヌエル・デ・シーカと、喜劇俳優兼監督として人気者となったクリスチャン・デ・シーカは、2番目の妻マリアとの間に生まれた子供である。

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『自転車泥棒』を演出中のデ・シーカ

 

 

自転車泥棒
Ladri di biciclette (1948)

日本では1950年劇場公開
VHS・DVD共に日本発売済

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(P)2007 The Criterion Collection (USA)
画質★★★★☆ 音質★★★☆☆
DVD仕様(北米盤2枚組)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:イタリア語/字幕:英語/地域コード:1/89分/製作:イタリア

特典映像
メイキング・ドキュメンタリー(スーゾ・チェッキ・ダミーコ、エンツォ・スタヨーラのインタビュー含む)
ネオレアリスモ回顧ドキュメンタリー
チェザーレ・ザヴァッティーニの伝記ドキュメンタリー(カルロ・リッツァーニ監督)
※76ページの解説・研究ブックレットを同梱
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
原作:ルイジ・バルトリーニ
翻案:チェザーレ・ザヴァッティーニ
脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ
   スーゾ・チェッキ・ダミーコ
   ジェラルド・ゲリエーリ
   ヴィットリオ・デ・シーカ
撮影:カルロ・モントゥオーリ
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
出演:ランベルト・マッジョラーニ
   エンツォ・スタヨーラ
   リアネッラ・カレル
   ジーノ・サルタメレンダ
   ヴィットリオ・アントヌッチ
   ジュリオ・キアーリ

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ようやく仕事が見つかったアントニオ(L・マッジョラーニ)

しかし、仕事には自転車が必要だった

妻(L・カレル)の機転で質屋から自転車を請け出した

 いまさら説明する必要もないであろう、映画史に燦然と輝くネオレアリスモの傑作。貧困というものがいかに残酷で、いかに辛くて、いかに哀しいものなのかということを、これほど痛切に描いた作品は他にないだろう。そればかりか、貧しい庶民の生活模様の中に彼らの強さ、逞しさ、弱さ、優しさなどを丁寧に描き込み、一見すると救いのない物語を感動的な人間賛歌にまで高めているのが素晴らしい。
 主人公は失業中の貧しい労働者アントニオ。ようやく職にありついた彼だが、仕事に必要な自転車を盗まれてしまう。犯人グループと自転車の行方を捜しながら、あてどもなくローマの街をさまようアントニオと幼い息子ブルーノ。そんな彼らが目の当たりにしたのは、自分たちと同じくどん底の貧しい生活に苦しみあえぐ庶民の厳しい現実だった・・・。
 盗んだ方も盗まれた方も、その日の食事にすら事欠くありさま。どちらも生きるために必死だ。“窮すれば濫(らん)す”とはいうが、逃げ場のない貧しさは人間の心を荒廃させ、善悪の区別すら失わせてしまう。生きるということは、決して綺麗ごとだけで済まされないのだ。
 アントニオの一家は、恐らく戦前・戦中まではそれなりに恵まれた生活を送っていたのであろう。しかし、敗戦による未曾有の不景気で職を失い、ようやく一筋の希望の光が見えた矢先に、命綱である大切な自転車を奪われてしまう。この憎むべき犯人を捜して自転車を奪い返そうとするアントニオ。しかし、自転車を盗んだ犯人たちは、自分と同じように、もしくはそれ以上に貧しい生活を強いられている不幸な人々だった。
 デ・シーカはこうした残酷な現実を次々と観客の目の前に突きつけながら、その一方で市井の人々の知恵とバイタリティ、逆境の中でも助け合いの精神を忘れない庶民の暖かさや大らかさを随所に織り込み、最終的には未来へ向けて希望を託すような物語に仕上げている。
 全くの素人を起用した役者陣、ローマの街頭にカメラを持ち出したゲリラ的なロケ撮影などによるドキュメンタリー・タッチの生き生きとした映像は、まさしくネオレアリスモ映画の醍醐味と言えよう。中でも、やはり主演のランベルト・マッジョラーニとエンツォ・スタヨーラの素朴な演技は素晴らしい。
 頑固で無口で朴訥とした父親アントニオ。犯人たちを責めるに責められず、しかも大事な自転車はもう返ってこない。追いつめられた彼が葛藤に葛藤を重ね、ついには自らが自転車泥棒となってしまう瞬間の、あの苦渋に満ちた表情。デ・シーカは現場で相当厳しい演技指導を行ったと言われているが、演じるマッジョラーニ自身もギリギリまで追いつめられていたのだろう。プロの俳優の演技では決して出すことの出来ないリアリズムに心動かされる。
 しかし、それ以上に感動的なのが息子ブルーノを演じる子役スタヨーラだ。どんなに貧しくとも不平など言わず、大好きな父親に寄り添うけなげな少年ブルーノ。さんざん歩き回ってお腹をすかせた彼のために、父アントニオはなけなしのお金を使ってレストランで食事をする。となりのテーブルに座った金持ち一家の豪勢な食卓を横目で気にしながらも、目の前に並んだささやかな料理に満面の微笑を浮かべるブルーノがなんともいじらしい。
 また、キラキラと瞳を輝かせながら父親を見上げる彼の姿を見ていると、どんな家庭でも子供にとって父親は英雄なのだということを改めて思い起こさせてくれる。今や
日本では父親の権威が失墜したと言われて久しいが、イタリアでは果たしてどうなのだろう?などと感慨深く考えてしまうところだ。
 だからこそ、クライマックスで他人の自転車を盗んで人々に追いかけられる父親の姿を目撃してしまった瞬間の、あのブルーノの愕然とした表情には胸が痛んで仕方がない。そして、自らの罪を恥じてうなだれる父親にそっと寄り添い、その手をしっかりと握るブルーノの優しさに誰もが涙するだろう。スタヨーラ少年の純朴でナチュラルな演技は、やはりカメラ慣れした子役俳優には不可能であったはずだ。
 なお、世界各国で高い評価を得た本作だが、他のネオレアリスモ作品と共に本国での評価は賛否両論だったようだ。エットーレ・スコラ監督の名作『あんなに愛し合ったのに』の中でも描かれているように、当時のイタリアでは一連のネオレアリスモ作品を快く思わない向きもあったという。貧困や犯罪を描くような映画は、イタリアの恥を世界に晒すようなものだというわけだ。臭いものに蓋をしたがる保守的な人間というのは、いつの時代も、どこの国にもいるものなのだろう。

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息子ブルーノ(E・スタヨーラ)を連れて出勤するアントニオ

目を離した隙に自転車を盗まれてしまう

ガックリと肩を落として息子を迎えに行くアントニオ

 僅かな仕事を求めて職安の前に群がる大勢の人々。名前を呼ばれたアントニオ(ランベルト・マッジョラーニ)は、ようやく働き口が見つかって安堵と喜びの表情を浮かべる。仕事は市役所から依頼されたポスター貼り。しかし、働くためには自転車を持っていることが必須だと聞いて顔色が曇った。
 というのも、長いこと失業していたため、愛用していた自転車を質屋に入れていたのだ。だが、こんなチャンスは滅多にない。彼には食べさせなくてはいけない家族がいる。アントニオは自転車がないことを隠して、ポスター貼りの仕事を引き受けることにした。
 家に戻って妻マリア(リアネッラ・カレル)に相談したところ、彼女は一計を案じた。ベッドのシーツを片っ端から集めて質屋へ持ち込み、代わりに自転車を請け出したのだ。こうして、問題は一件落着したかのように思えた。
 翌朝、6歳になる息子ブルーノ(エンツォ・スタヨーラ)を自転車に乗せて出勤するアントニオ。清掃夫として働くブルーノを仕事場へ送り届け、自分も映画のポスター貼りに出かける。ところが、目を離した一瞬の隙を狙って、若者がアントニオの自転車を盗んでしまった。どうやら、見張り役など複数の人間が絡んでいるようだ。なんとか自転車を奪い返そうと必死になって後を追ったアントニオだが、人混みにもまれて犯人を見失ってしまう。
 犯罪の多発するローマでは、自転車泥棒ごときで警察も動いてはくれない。顔の広い友人バイオッコ(ジーノ・サルタメレンダ)に相談したアントニオは、翌朝ブルーノを連れて自転車市へ行く。そこには、明らかに盗品と思われるような自転車のパーツが並んでいたが、誰一人として知らぬ存ぜぬを通すので埒があかない。仕方なくバイオッコらと別れたアントニオとブルーノは、自転車を探してあてどもなく街をさまよった。
 突然どしゃぶりの雨が降り出したので雨宿りをしていると、昨日の若者が自転車に乗って通りかかった。必死になって後を追うアントニオ。しかし、またしても見失ってしまった。そこで彼は、直前に若者と話しをしていた老人の後を追いかける。老人は教会で施しを受けている乞食だった。アントニオは自転車の行方を問い詰めるが、老人は渋い顔をして一切の関わりを否定するのだった。
 ついつい苛立って、ささいなことからブルーノを引っ叩いてしまうアントニオ。一人でテーヴェレ川のほとりを歩いていると、子供が川で溺れているという叫び声が耳に入った。慌てて野次馬のところへ駆け寄ると、それはブルーノではなかった。
 階段で父を待つブルーノのもとへ歩み寄ったアントニオは、再び自転車を探すために歩き出す。朝から歩きづくめだったため、ブルーノはすっかり腹が減ってしまった。さきほどの一件で息子に悪いことをしたと思っていたアントニオは、懐のわずかなお金でレストランへ入って食事をすることにした。
 とはいえ、食前酒を注文するお金すらない。水を飲みながら食事を待つ親子。ふとみると、隣のテーブルでは裕福そうな一家が豪勢な昼食を食べている。とろけたチーズを自慢げに食べてみせる金持ちの少年を、うらやましそうに横目でチラチラと見るブルーノ。ようやく出てきた料理は質素なものだったが、ブルーノもお返しとばかりに自慢げな様子で食べてみせる。
 藁にもすがりたい思いのアントニオは、当たると評判の女占い師のもとを訪れる。だが、彼女の占いは明らかに嘘っぱちだった。“自転車はすぐに見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない”そんな適当な占いに、アントニオは残りの全財産を持っていかれてしまう。
 ところが、表へ出たところで例の若者とばったり出くわす。今度こそは逃すまいと若者を追いつめるアントニオ。若者は売春宿へと逃げ込んだ。娼婦たちは若者をかくまおうとするが、アントニオは一歩も引かない。
 若者を連れ出して彼の自宅へ向かうアントニオ。彼は一家の大黒柱として母親を食べさせるために働く貧しい若者だった。騒ぎを聞きつけて集まった近隣の住民は、みんな若者の味方をして逆にアントニオを責める。そこへ、ブルーノが警官を連れてやって来た。
 ところが、興奮した若者は発作を起こして倒れる。彼は癲癇持ちだった。アントニオは無実の若者を追いつめた悪者として口々に非難される。しかも近隣の住民は若者を庇うため警官にウソのアリバイを証言し、アントニオとブルーノはつまみ出されてしまう。
 すっかり打ちひしがれて途方に暮れるアントニオ。目の前を無数の自転車が通り過ぎていく。ふと見ると、路地の角に一台の自転車が止めてある。それを何度も何度も見ているうち、アントニオはある決心をする。
 父親から一人で家に帰るようにと言われ、渋々と歩き出したブルーノ。それでも父親が心配で引き返そうとした彼の目に、信じられないような光景が飛び込んできた・・・。

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自転車市へ探しに行くアントニオたち

雨宿りをするアントニオたちの目の前に・・・

犯人の若者を必死になっておいかけるアントニオ

 原作は画家や詩人としても知られるルイジ・バルトリーニの小説。チェザーレ・ザヴァッティーニが翻案を作り、ザヴァッティーニ自身とスーゾ・チェッキ・ダミーコ、ジェラルド・ゲリエーリ、そしてデ・シーカ自身が脚本を書いている。そのほか、クレジットにはないものの、オレステ・ビアンコーリとアドルフォ・フランキも部分的にかかっていたようだ。
 イタリア映画はとかくクレジットされている脚本家の数が多い。しかも、必ずと言っていいほど脚本の前に原案を担当する人間がいる。これはどういうことかというと、原案でストーリーの骨組みを決めた上で、その作品に関わる様々な要素のエキスパートである脚本家に分担でシナリオを書かせるのだ。
 例えば、ヴィスコンティとのコラボレーションでも知られるスーゾ・チェッキ・ダミーコは、主に女性のキャラクターに関わる部分を専門に書き続けた女流脚本家だった。他にも、政治に精通した人、歴史に精通した人、軍隊に精通した人など、それぞれに得意分野を持った脚本家がアイディアを持ち寄って、より完成度の高い脚本を目指したのである。
 こうしたシステムはハリウッドでも昔から一般的だったが、アメリカの場合は主導権を握る一人ないし二人の脚本家しか名前がクレジットされない。その点、イタリア映画界はチームワークを重要視するのだろう。関わったのかどうか分からない程度の人物をのぞいて全員がクレジットされるため、脚本家のリストがえらく長くなってしまうこともしばしば。しかし、この共同作業こそが質の高い作品を生み出し、イタリア映画界をヨーロッパ有数の巨大産業へと発展させた秘訣なのだ。
 撮影を担当したカルロ・モントゥオーリはイタリア映画草創期のサイレント時代から活躍したカメラマンで、デ・シーカとは『屋根』でも組んでいる人物。音楽のアレッサンドロ・チコニーニも『靴みがき』や『ミラノの奇蹟』など当時のデ・シーカ作品には欠かせない作曲家で、それ以外にもネオレアリスモの名作を数多く手掛けた人物だった。
 そのほか、デ・シーカ作品以外にもロッセリーニやアントニオーニの代表作を数多く手掛けたエラルド・ダ・ローマが編集、マカロニ・ウェスタンの巨匠となるセルジョ・レオーネが助監督、後にウディ・アレン作品のカメラマンとして有名になるカルロ・ディ・パルマが撮影技師として参加している。

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レストランでささやかな食事をとる親子

道ばたで途方に暮れる二人

幼いブルーノの目に映った衝撃的な光景とは・・・

 もともと主人公のアントニオ役として、デ・シーカはヘンリー・フォンダを起用するつもりだったという。また、製作費の一部を提供したハリウッドの大物製作者デヴィッド・O・セルズニクは、ケイリー・グラントの起用を望んでいたと言われる。しかし、熟慮に熟慮を重ねた結果、デ・シーカは主要キャストを素人俳優で固めることに決めた。これは大正解だったと言って間違いないだろう。仮にアメリカ人の大物スターがイタリアの労働者を演じてしまったら、それは明らかに絵空事のウソにしかならない。市井の人々のありのままの姿をカメラに捉えるのであれば、やはり被写体も市井の人々自身である必要があるのだ。
 ただ、出演者たちにとってこの作品の世界的な成功は、必ずしも良い結果を残したわけではなかったようだ。アントニオ役のマッジョラーニはすぐさまプロの俳優へ転向したものの、もともと演技の訓練を受けていたわけではないので長続きしなかった。どうやら周囲から持ち上げられて勘違いをしてしまったらしい。その後は定職を探すのに苦労し、アントニオと同じように失業者となってしまったという。
 ブルーノ役のエンツォ・スタヨーラも同じく子役俳優の道を歩んだが、才能の限界を感じて映画界を引退し、その後は数学教師となった。彼の場合はまだ若かったのが救いであったと言えよう。
 母親役のリアネッラ・カレルもプロの女優となり、デ・シーカの“L'oro di Napoli”にも出演するなどそれなりに活躍したようだが、やはり短期間で映画界から足を洗っている。

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DVDの特典映像でインタビューに応えるエンツォ・スタヨーラ

 

ひまわり
I girasoli (1970)

日本では1970年劇場公開
VHS・DVD共に日本発売済

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(P)1999  東北新社 (Japan)
画質★★★☆☆ 音質★★★☆☆
DVD仕様(日本盤)
カラー/ワイドスクリーン(スクィーズ収録)/モノラル/音声:イタリア語/字幕:日本語/地域コード:2/107分/製作:イタリア・フランス・ソ連

特典映像
プロダクション・ノート
キャスト・スタッフ紹介
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
製作:カルロ・ポンティ
   アーサー・コーン
脚本:トニーノ・グェッラ
   チェザーレ・ザヴァッティーニ
   ゲオルギー・ムディヴァニ
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ヘンリー・マンシーニ
出演:ソフィア・ローレン
   マルチェロ・マストロヤンニ
   リュドミラ・サベリーエワ
   ガリーナ・アンドレーワ
   アンナ・カレナ
   シルヴァーノ・トランキーリ

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ジョヴァンナ(S・ローレン)とアントニオ(M・マストロヤンニ)

貧しくも幸せな新婚生活を送る二人だったが・・・

 晩年のデ・シーカを代表する作品であり、第2次世界大戦によって引き裂かれた男女の悲恋ドラマを通じて、今も昔も変わらぬ戦争の理不尽を浮き彫りにした名作。単なる男女の恋愛の悲劇に終始することなく、時代に翻弄される人間の無力、大義名分のもとに国と国が、人と人が戦わねばならない戦争の哀しみなど、普遍的なテーマを繊細なタッチで、しかし鋭く抉り出していくデ・シーカの力量に感服せざるを得ない。凡百のメロドラマとは一線を画する傑作だ。
 主人公は貧しくとも幸福な新婚生活を送るアントニオとジョヴァンナ。しかし、折からの第2次世界大戦でアントニオはロシア戦線に送られ、そのまま消息不明となった。アントニオが生きていることを信じ、自らの手で探すためにソ連へと向かうジョヴァンナ。しかし、そこで彼女が見つけたのは、現地の女性と新たな家庭を築いたアントニオの姿だった・・・。
 ウクライナの大地一面に咲き誇るひまわり畑、ヘンリー・マンシーニによる哀しくも美しいテーマ曲。女性の強さと弱さを全身で表現したソフィア・ローレンの見事な演技を含め、まさにメロドラマの王道を行くような作品に仕上がっている。
 そのせいか、興行的な成功とは裏腹に、当時の批評家の間では単なるメロドラマとして片付ける向きも多かったようだ。事実、マンシーニの音楽とローレンの演技以外は、主だった映画賞からはほぼ無視されてしまった。
 しかし、ひまわり畑の下には無数のロシア兵、イタリア兵の死体が眠っているという事実が象徴するように、デ・シーカは作品の根底にある反戦のメッセージを片時も忘れてはいない。特に、真冬のソ連で飢えと寒さに苦しむ脱走兵たちの姿をリアルに描いた下りには、デ・シーカの並々ならぬ情熱と意気込みを感じることが出来るだろう。声高に反戦を訴えることは誰にでだって出来る。優れた娯楽映画とはかくあるべし、ということを、この映画は改めて痛感させてくれるはずだ。
 世の中にはメロドラマというだけで拒絶反応を起こす頭でっかちな評論家も少なくないが、勉強のしすぎは感性を鈍らせるだけだという事を肝に銘じておいてもらいたいもんである。

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第2次世界大戦が勃発してナポリも空爆に見舞われる

夫の気が狂ったと茶番劇を繰り広げるジョヴァンナ

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まんまと精神病院に入ったアントニオだったが・・・

ウソがばれてロシア戦線へと送られてしまう


 戦争で消息不明になった夫アントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の捜索を懸命になって訴える女性ジョヴァンナ(ソフィア・ローレン)と義母(アンア・カレナ)。しかし、彼女たちと同じように夫や息子の消息を探す家族は数え切れないほどいる。当局からの冷たい返答に、今日も二人は肩を落として家路につくのだった。
 ジョヴァンナとアントニオが出会ったのは第二次大戦前夜のナポリ。貧しいお針子だったジョヴァンナは、プレイボーイの電気技師アントニオと熱烈な恋に落ち、ほどなくして教会で結婚式を挙げた。
 貧しくとも幸せに満ちた新婚生活を送るアントニオとジョヴァンナ。しかし、そんな二人の幸福にも戦争が暗い影を落とす。ナポリも空爆を受けるようになり、アントニオのもとには召集令状が届いた。今の幸せを奪われたくない。そう考えた二人は一計を案じる。
 悲鳴をあげながらナポリの街角を逃げ回るジョヴァンナ。夫のアントニオが狂ってしまったという。警察に取り押えられたアントニオは、精神病院へと送られた。だが、これは兵役を免れるために二人が仕組んだ茶番劇。まんまと当局に見破られてしまい、アントニオは過酷なロシア戦線へと送られることになってしまった。
 駅で涙ながらに夫を送り出すジョヴァンナ。極寒のロシア戦線でイタリア軍は敗退し、脱走兵となって仲間と共に真冬の荒野をさまよったアントニオだが、ついに力尽きて倒れてしまう。
 それから数年後、ジョヴァンナのもとにアントニオが行方不明であるとの通知が届いた。来る日も来る日も、夫の消息を訊ねるために役所へと足を運ぶジョヴァンナと義母。そんなある日、彼女はアントニオと一緒に逃亡していたという帰還兵(グラウコ・オノラート)と出会い、その最期の様子を聞く。しかし、それでも彼女はアントニオが生きているという希望を捨てなかった。
 きっと彼は生きてロシアにいる。なんらかの事情があって帰れないに違いない。そう考えたジョヴァンナは、義母の反対を押し切って単身ソ連へと向かった。現地の役人に協力してもらい、イタリア兵の足跡を辿るジョヴァンナ。しかし、なかなかアントニオの消息につながる情報は得られない。
 ある日、彼女は町中でイタリア人らしき男性(シルヴァーノ・トランキーリ)の姿を見かけ、その後を追いかけた。最初は頑なに否定していた男性だったが、ジョヴァンナの熱意にほだされて自らをイタリア人であると認める。彼は脱走兵であるということを負い目と感じ、祖国に帰ることができなかった。
 このことが、ジョヴァンナに確信を抱かせる。夫も同じような心境でイタリアに戻ることができないに違いない。そんな折、郊外の住宅地でアントニオらしき男性がいるとの情報が入った。現地の人に写真を見せると、本人に間違いないという。
 ついにアントニオの居所を見つけた。高鳴る胸を抑えながら、教えてもらった家へと向かったジョヴァンナ。そんな彼女の目に飛び込んできたのは、一人の美しいロシア女性の姿だった。
 彼女の名前はマーシャ(リュドミラ・サベリーエワ)。雪原の中で瀕死のアントニオを救い出したのは彼女だった。やがて二人は愛し合うようになり、結婚して幼い娘をもうけていた。ベッドに二つ並んだ枕を見て瞬時に全てを悟り、洗面所で涙に暮れるジョヴァンナ。いつかこの日がやってくると感じていたマーシャも、胸を痛めてそっと涙を拭うのだった。お互い気丈に振舞ってみせる二人の妻たち。
 マーシャに連れられて駅でアントニオの帰りを待つジョヴァンナだったが、彼の姿を見て感情を抑えることが出来なくなり、逃げるようにして列車へ飛び乗った。それから数ヵ月後、ミラノで働くジョヴァンナのもとへアントニオが訪ねて来る・・・。

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帰還兵から夫の最期を聞くジョヴァンナ

極寒のロシアでアントニオは力尽き果てたのだという

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それでもジョヴァンナは夫の生存を信じ続けた

自ら夫を探すためにソビエトへやって来たジョヴァンナ

 当時、西側の映画としては初めてソ連での撮影に成功したという本作。ロシアでの撮影が行われた69年当時モスクワに住んでいた筆者にとっては、違った意味で感慨深い作品でもある。幼い頃に見慣れた懐かしい街角の風景、道を行き交う垢抜けない人々の姿。アントニオがジョヴァンナへのお土産を買うのは、当時モスクワで唯一の総合デパートだったグム。実際はあんなに店員の接客態度は良くなかったはずだ。
 西側への渡航許可だって、たとえ本来は外国人だとしても、あれほど簡単に下りるはずがない。当然、ソビエトのプロパガンダというか、見得のような思惑が反映されているのだろう。それでも、今は失われてしまった古き良きソビエト時代の光景に、深い郷愁を感じずにはいられない。
 脚本はデ・シーカの盟友ザヴァッティーニに加え、アントニオーニやフランチェスコ・ロージ、フェリーニなど数々の巨匠作品を手掛けた大御所脚本家トニーノ・グェッラ、グルジア出身の脚本家ゲオルギー・ムディヴァニが担当している。
 さらに、撮影にはフェリーニやヴィスコンティとのコラボレーションで知られ、『オール・ザット・ジャズ』(79)や『バロン』(88)などのハリウッド映画も手掛けた名カメラマン、ジュゼッペ・ロトゥンノが参加。
 『ティファニーで朝食を』(61)をはじめとするブレイク・エドワーズ作品や『シャレード』(63)や『アラベスク』(66)などでお馴染みの作曲家ヘンリー・マンシーニは、いつもの洒落たジャズ・タッチのスコアとは大きく異なるヨーロッパ的な哀愁メロディで観客の涙を誘う。
 そのほか、『二人の女』以降たびたびデ・シーカ作品を手掛けたアドリアーナ・ノヴェッリが編集を、アントニオーニ作品やマルコ・ヴィカリオ作品の常連ピエロ・ポレットが美術監督を、フェリーニの『魂のジュリエッタ』(65)や『カサノバ』(76)から『ヒッチハイク』(77)や『エトワール』(89)などの娯楽映画まで幅広く手掛けたジャンティト・ブルキエラーロがセット装飾を、『ミッション』(86)でオスカー候補になったエンリコ・サバッティーニが衣装デザインを担当している。
 また、セルジョ・マルティーノ監督とのコンビで『ドクター・モリスの島/フィッシュマン』(79)など数多くの娯楽映画を手掛けたジャンカルロ・フェランドと、『ドレスの下はからっぽ』(83)や『ドラキュラ・ウィドー』(90)などのホラー映画で知られるジュゼッペ・マッカリがカメラ・オペレーターを務めているのも興味深い。

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一面に広がるひまわり畑の下には無数の兵士が眠っていた

イタリア人男性(S・トランキーリ)を偶然見かけたジョヴァンナ

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夫らしき男性の住む家へと向かう

そこには美しいロシア女性マーシャ(L・サベリーエワ)の姿が・・・

 主演は『昨日・今日・明日』、『あゝ結婚』に続いてデ・シーカと組んだイタリア映画界最強の名コンビ、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ。ロバート・アルトマン監督の『プレタポルテ』(94)で二人が演じた役柄は、ほとんど本作のパロディであった。
 また、ソビエト映画『戦争と平和』(65〜67)のナターシャ役で脚光を浴びたロシア女優リュドミラ・サベリーエワの起用も当時話題になった。いかにもパスタを食いまくった感じのバイタリティ溢れるソフィア・ローレンに対し、可憐ではかなげなリュドミラの美しさは際立って見える。
 そのほか、ブラゼッティの『雲の中の散歩』(42)やラットゥアーダの『ポー河の水車小屋』(48)、デ・シーカの『ミラノの奇蹟』などに出演した老女優アンナ・カレーナ、マフィア映画やマカロニ・ウェスタン、ホラー映画などでお馴染みの名脇役シルヴァーノ・トランキーリなどが脇を固めている。

 

 

悲しみの青春
Il giardino dei Finzi Contini (1970)

日本では1971年劇場公開
VHS・DVD共に日本未発売

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(P)2001 Sony Pictures Classics (USA)
画質★★★☆☆ 音質★★★★☆
DVD仕様(北米盤)
カラー/ワイドスクリーン(スクィーズ収録)/ステレオ/音声:イタリア語/字幕:英語/地域コード:1/94分/製作
:イタリア・西ドイツ

映像特典
オリジナル劇場予告編
フィルモグラフィー集
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
製作:ジャンニ・ヘクト・ルカーリ
   アーサー・コーン
原作:ジョルジョ・バッサーニ
脚本:ウーゴ・ピッロ
   ヴィットリオ・ボニチェッリ
撮影:エンニオ・グァルニエーリ
音楽:マヌエル・デ・シーカ
出演:ドミニク・サンダ
   リーノ・カポリッキオ
   ファビオ・テスティ
   ヘルムート・バーガー
   ロモロ・ヴァッリ
   カミーロ・チェザーリ
   バーバラ・ピラヴィン

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幼馴染みのミコル(D・サンダ)とジョルジョ(L・カポリッキオ)

病弱なミコルの弟アルベルト(H・バーガー)

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ファシスト政権に不満を抱いているジョルジョ

ジョルジョの父親(R・ヴァッリ)は息子の言動を案じる

 ユダヤ系の文豪ジョルジュ・バッサーニの半自伝的な小説『フィンツィ・コンティーニ家の庭』を映画化した、ノスタルジックで叙情的な文芸映画の名作。舞台は第2次世界大戦前夜のフェラーラ。ユダヤ系の大富豪フィンツィ・コンティーニ家の長女ミコルと彼女の幼馴染みである学生ジョルジョを主人公に、青春の幸福な日々をファシズムによって奪い去られていく若者たちの悲劇を、当時のデ・シーカらしい繊細で美しい映像の中に描いた作品だ。
 物語はジョルジョの視点から描かれていく。広大なフィンツィ・コンティーニ家の庭でテニスやサイクリングに興じる若者たち。だが、イタリア国内ではファシズムが急速に台頭し、ユダヤ人である彼らの置かれた境遇は次第に複雑なものとなっていく。そうした中で、幼馴染みのミコルに好意を寄せるジョルジョ。しかし、ミコルはそんな彼に甘えるかと思えば突き放し、真剣な彼の心を翻弄する。
 やがて第2次世界大戦が始まり、時代の波に呑まれて行く若者たち。遂にはイタリアでもユダヤ人狩りが始まり、ジョルジョの愛する人々は次々に強制収容所へと送られていく・・・。
 前作『ひまわり』で打ち出した反戦のテーマを、今度はメロドラマではなく格調高い文芸作品として描いた映画と言ってもいいだろう。ただ、本作の場合は主人公ミコルの不可解で謎めいたキャラクターがあまりにも突出しており、物語の根底にある反戦のテーマがいまひとつ伝わってこないような印象を受ける。
 恐らく、それはバッサーニの原作が私小説的な観点で描かれていたからなのではないだろうか。いたちごっこのようなミコルとジョルジョの複雑な恋愛関係に重点が置かれているため、それ以外の要素がどうも希薄になってしまっているように思う。
 そもそも、このミコルという女性はなかなか感情移入しづらいキャラクターだ。彼女と病弱な弟アルベルトとの親密な関係は近親相姦をも匂わせるのだが、これまた複雑怪奇で常人には理解しづらい。
 さらに、ドミニク・サンダにヘルムート・バーガーというキャスティング、ファシズムを題材にしたストーリー、そこはかとなく漂う退廃感などは、どうしてもヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』(69)やベルトルッチの『暗殺の森』(70)を彷彿とさせる。
 だが、ヴィスコンティやベルトルッチの非情とも言えるリアリズムに比べると、デ・シーカの演出は柔らかすぎてしまい、残念ながら圧倒的にインパクト負けしてしまっているという印象は拭えまい。
 とはいうものの、ベルリン国際映画界グランプリとアカデミー外国語映画賞を受賞し、批評家から絶大な支持を受けた本作。確かに巨匠らしい風格のある大作だが、映画としての面白さは『ひまわり』の方に軍配が上がるだろう。果たして、これは頭の堅い映画評論家たちの偏見によるものなのか、それとも『ひまわり』を過小評価したことへの罪滅ぼしなのか。
 いずれにせよ、『ひまわり』がいまだに多くの映画ファンから熱烈に愛され続け、『悲しみの青春』が半ば忘れられてしまっているという現状が、両者の真価というものを如実に物語っているのかもしれない。

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ユダヤ人という理由でジョルジョは図書館を締め出された

ジョルジョの弟エルネスト(R・クーリ)はパリの大学へ

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ジョルジョはミコルに愛を告白する

ジョルジョの愛を冷たく拒絶するミコル

 時は1938年の晩夏。フェラーラでも随一の富豪フィンツィ・コンティーニ家の豪邸へ、自転車に乗った若者たちがやって来る。同家の長女ミコル(ドミニク・サンダ)の招待した友人たちだ。その中の一人、ジョルジョ(リーノ・カポリッキオ)は、幼い頃からミコルに憧れ続けていた。
 かたや富豪の令嬢、かたや中流家庭の次男坊。身分違いの二人だったが、子供の頃から親に隠れて遊ぶほど仲が良かった。しかし、ジョルジョは自分の想いをいまだに打ち明けられないまま。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ミコルは時おり甘えるような仕草でジョルジョを翻弄してみせる。
 連日のようにフィンツィ・コンティーニ家の庭のテニス・コートに集まり、終わり行く夏のひと時を楽しむ若者たち。足繁く通うようになったジョルジョは、ミコルの病弱で繊細な弟アルベルト(ヘルムート・バーガー)や、その大学の先輩でプレイボーイとして知られるブルーノ(ファビオ・テスティ)らとも親交を深める。
 一方、イタリア国内はファシズムに侵されていた。人種法が制定され、ユダヤ人に対する差別も強まっていく。ミコルやジョルジョら仲間たちはみんなユダヤ人だった。大学の卒業を控えて論文を準備していたジョルジョだったが、ユダヤ人だという理由だけで図書館の利用を禁じられてしまい、仕方なくフィンツィ・コンティーニ家の図書室を使わせてもらう。ユダヤ人同士の連帯感は強かった。
 ファシズムに対する怒りと憎しみを強め、体制批判の言葉を口にするジョルジョを、父親(ロモロ・ヴァッリ)はきつく戒める。そのような態度は、ユダヤ人に対する風当たりを強くするだけだからだ。そればかりか、家族を危険な目にさらすこととなる。それでも、父親は息子の心情を胸のうちでは理解していた。
 ジョルジョの弟エルネスト(ラファエレ・クーリ)がパリの大学へ進学した。弟に会って家族の近況を知らせようとパリへ行ったジョルジョは、そこで反ナチズム・反ファシズムを掲げる学生たちと出会って強い影響を受ける。
 一方、フェラーラの裕福な友人たちは気ままなものだった。しばらくヴェネチアへ行っていたミコルが戻ったと聞き、フィンツィ・コンティーニ家を訪れたジョルジョは、思い切って彼女に愛を告白する。しかし、彼女の返事はつれないものだった。兄妹のように似た者同士では恋愛は出来ないのだと。
 やがて第2次世界大戦が勃発した。ジョルジョはますます反ファシズムの信念を強くする。その頃、ブルーノに召集令状が届いた。そのことを知ったジョルジョは胸騒ぎを感じ、真夜中のフィンツィ・コンティーニ邸へ忍び込む。ミコルがいつも使っている庭の小屋へ近づくと、ベッドに裸で眠るミコルとブルーノの姿があった。ジョルジョの気配を察知して、まるで見せ付けるかのように灯りを点けてみせるミコル。ジョルジョの心は引き裂かれた。
 病弱だったアルベルトが死亡する。しかし、あの晩以来ミコルと距離を置いていたジョルジョは、葬儀に参列しなかった。そして、ついにファシストによるユダヤ人狩りが始まった・・・。

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ジョルジョは弟エルネストとパリで再会する

世界情勢に危機感を抱く学生たちに感化されるジョルジョ

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イタリアも第2次世界大戦へ突入した

戦線へ送られることとなったブルーノ(F・テスティ)

 全体的に細かいエピソードを積み重ねただけという脚本も、どこか見る者をあえて突っぱねるような感じで、なかなか物語の中に入っていきづらい雰囲気を作り出している。少なくとも、他のデ・シーカ作品の脚本とはちょっと違った、異質な印象を受けることは間違いないだろう。
 今回は『わが青春のフロレンス』(70)や『沈黙の官能』(76)といったマウロ・ボロニーニ監督の文芸映画で知られるウーゴ・ピッロと、『バーバレラ』(66)や『ワーテルロー』(69)などの娯楽大作を手掛けたヴィットリオ・ボニチェッリが担当している。
 部分的にザヴァッティーニやヴァレリオ・ズルリーニなどが脚本に関わったとされているものの、彼らがどれほど貢献したのかはよく分からない。ピッロといえばエリオ・ペトリ監督の『悪い奴ほど手が白い』(67)や『殺人捜査』(70)といった左翼系の優れた社会告発映画も手掛けている人だけに、本作におけるテーマ的な迷走ぶりはちょっと意外だった。
 撮影を手掛けたエンニオ・グァルニエーリは、『ブラザー・サン・シスター・ムーン』(72)から『永遠のマリア・カラス』(02)に至るまで、巨匠フランコ・ゼフィレッリとのコラボレーションで知られる大御所カメラマン。他にも、パゾリーニやボロニーニ、フェリーニなど巨匠・名匠たちの作品を数多く手掛けた人だ。
 なお、プロデューサーのジャンニ・ヘクト・ルカーリは、『わが青春のフロレンス』や『沈黙の官能』といった一連のボロニーニ作品を世に送り出した製作者。スタッフの人選は彼の権限で行われたのでは・・・?などというのは考えすぎか(笑)
 そして、音楽を担当したのはデ・シーカの息子であるマヌエル。イタリアの作曲家にしては個性が薄いというか、比較的アンダースコア的な傾向の強い楽曲を書く人で、長いキャリアのわりには印象に残るメロディが少ない。ここでも、前作『ひまわり』におけるマンシーニのスコアがあまりにインパクト強すぎたせいもあってか、どうしても地味に聞こえてしまうのは致し方ないところだろう。
 そのほか、『ハンニバル』(59)や『ソドムとゴモラ』(62)などのコスチューム・プレイを得意としたジャンカルロ・バルトーニ・サリンベーニが衣装デザインと美術デザインを、『ひまわり』引き続いてアドリアーナ・ノヴェッリが編集を、ルチオ・フルチの『幻想殺人』(71)やウェルトミューラーの『セブン・ビューティーズ』(75)を手掛けたロベルト・グラニエリがセット装飾を担当している。

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真夜中にフィンツィ・コンティーニ邸へ忍び込むジョルジョ

ベッドに横たわるミコルとブルーノの姿があった

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アルベルトが病死する

フィンツィ・コンティーニ家にもユダヤ人狩りの魔手が・・・

 ヒロインのミコルを演じるのは、当時まだデビューしたばかりだったドミニク・サンダ。これが初めてのイタリア映画出演だった。その後、ベルトルッチの『暗殺の森』やヴィスコンティ『家族の肖像』(74)、リリアーナ・カヴァーニの『善悪の彼岸』(77)などイタリア映画の名作に続々と主演し、退廃的なブルジョワの美を体現していくことになるわけだ。この頃はまだちょっと垢抜けない印象が残るものの、時おり見せる冷たくも神々しい表情に、後の大女優の片鱗を見せてくれる。最近はすっかり老けてしまったのが残念というか・・・。
 一方のジョルジョ役を演じるリーノ・カポリッキオは、本作でダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の特別賞を受賞した俳優。ロベルト・ファエンザ監督のサイケな青春映画『エスカレーション』(67)の主演で注目され、プピ・アヴァティ監督の傑作ホラー“La casa dalle finestre che ridono(笑う窓のある家)”(76)などにも主演していた。イタリアでは知名度の高い俳優だが、残念ながら日本では公開作が非常に少ないためにほとんど知られていない。
 そして、ミコルの弟アルベルト役にはヴィスコンティ映画の美青年としてお馴染みのヘルムート・バーガー。ミコルと関係を持つ軟派な若者ブルーノ役には、ポリス・アクションのヒーロー役として知られるファビオ・テスティが登場。テスティはこの作品に出ていたおかげか、その後たびたびイタリアで撮影されたハリウッド産映画やテレビ・ムービーに出演している。
 また、脇役の中では、ジョルジョの父親役を演じているロモロ・ヴァッリが人間味のある重厚な演技で存在感を発揮している。出演作は決して多くはないものの、ヴァレリオ・ズルリーニの『鞄を持った女』(61)やセルジョ・レオーネ監督の『夕陽のギャングたち』(71)、ベルトルッチの『1900年』(76)などの名作で強烈なインパクトを残した名優。巨匠ヴィスコンティのお気に入り俳優の一人だったことでも知られており、『山猫』(63)、『ベニスに死す』(71)、『家族の肖像』(74)の3本に出演。ヴィスコンティと同じく同性愛者で、偉大な舞台俳優でもあったことから、お互いに共鳴するところも多かったのかもしれない。

 

 

Una breve vacanza (1973)
日本では劇場未公開
VHS・DVD共に日本未発売

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(P)2003Home Vision Entertainment(USA)
画質★★★★☆ 音質★★★★☆
DVD仕様(北米盤)
カラー/ワイドスクリーン(スクィーズ収録)/モノラル/音声:イタリア語/字幕:英語/地域コード:1/112分/製作:イタリア・スペイン

映像特典
オリジナル劇場予告編
『女と女と女たち』ハイライト
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
製作:アーサー・コーン
   マリアン・チコーニャ
脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ
   ロドルフォ・ソネーゴ
撮影:エンニオ・グァルニエーリ
音楽:マヌエル・デ・シーカ
出演:フロリンダ・ボルカン
   レナート・サルヴァトーリ
   ダニエル・ケノー
   アドリアーナ・アスティ
   ホセ・マリア・プラーダ
   テレサ・ジンペラ
   モニカ・ゲリトーレ
   ヒューゴ・ブランコ
   フリア・ペーニャ
   アンナ・カレナ

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明け方から仕事へ向かうクララ(F・ボルカン)

クララは家事と仕事に追われる毎日に疲れ果てていた

 “病は貧しきものの休暇である”というアポリネールの言葉にヒントを得た作品。貧困と格差という現代社会の抱える深刻な問題をテーマに、『悲しみの青春』の大成功で巨匠としての地位を改めて世界に知らしめたデ・シーカが、自らの原点であるネオレアリスモの世界に立ち返った傑作である。
 主人公は工場で働く貧しい労働階級の主婦クララ。夫が工事現場の事故で脚を怪我したため、一家の生活は彼女の肩にかかっている。甘えたい盛りの子供たちの世話をし、亭主関白で威張りくさる夫や寄生虫のように居座ってただ飯を食う義弟のご機嫌を取り、あれこれと口やかましい義母に気を使う毎日。その上、朝から晩まで働き尽くめ。クララは心身ともに疲れ果てていた。そんなある日、彼女が深刻な病気であることが発覚する。
 医者の勧めでアルプスの療養施設へ行くこととなるクララ。そこで彼女は、これまでの人生で出会ったことのないような人々と知り合う。陽気で明るいオペラ歌手、夫の暴力から逃れてきた裕福なマダム、癇癪持ちの富豪令嬢、そして労働組合のリーダーを務めるインテリ青年。それまで貧しさや逆境にただ耐え忍ぶことしか知らなかった彼女は、彼らとの交流の中で新たな生き方に目覚めていく。
 自分とは生い立ちも境遇も全く違う人々と触れあい、様々な書物や芸術に親しみ、多種多様な思想や価値観を知ることで、改めていかに自分が無知であったのかを思い知らされるクララ。そして、自分にだって人並みの幸せを追い求める権利はある、そのためには闘わなくてはいけないのだということを悟るのである。
 そう、“知識”は人間にとって最大の武器となりうる。知ることこそ、貧困や逆境から抜け出すための第一歩なのだ。デ・シーカはまるで人生の牢屋に閉じ込められたかのようなクララの過酷な日常と楽園のような療養施設での日々を対比させることにより、貧しい人々がなぜその貧しさから抜け出すことができないのかということの核心に迫っていく。
 同時に、本作は社会のあらゆる場面で虐げられてきた女性の解放というものにも焦点を当てたフェミニズム映画でもある。成功と引き換えに女性としての幸せを諦めなくてはならなかったオペラ歌手、自立する術を知らないが為に結局は暴力亭主のもとへ戻らねばならないマダム。たとえ裕福であろうと貧しかろうと、女性が社会から不当に虐げられていることに変わりはない。そのことに生まれて初めて気付き、強い憤りを感じるクララ。もはや、彼女はもとの自分に戻ることはできない。
 これは、ある意味で女性版『自転車泥棒』とも言うべき作品であろう。時代背景もテーマもネオレアリスモの当時とはやや異なってはいるものの、その根底に流れている弱者への慈しみは同じだ。ストーリーの構成も多分に似通っていると言えよう。
 結局、奇蹟のようなシンデレラ物語が起るわけでもなく、治療を終えて厳しい現実の待つ日常へと戻っていかねばならないクララ。しかし、療養施設での経験を通して、彼女の内面には大きな変化が生まれた。恐らく、これからの彼女は今までと全く違う人生を歩むことになるに違いない。
 そんな強さと逞しさを全身から感じさせながら、家族のもとへと戻っていくクララの後姿に、誰もが思わず『自転車泥棒』のアントニオとブルーノの後姿を重ね合わせてしまうはずだ。
 テーマもキャストも地味であったためか、日本では未公開のままに終ってしまった本作。だが、巨匠デ・シーカのキャリアを振り返る上で決して外すことのできない重要な作品である。なぜなら、これは単なるネオレアリスモの焼き直しではないからだ。
 確かに題材は似ているかもしれない。しかし、作品全体を覆い包む優しさと大らかさには、老境へ達したデ・シーカと盟友ザヴァッティーニの悟りにも似た人生観が詰まっているように感じる。これは二人にとって、ある意味でキャリアの集大成的な作品であり、戦後の総決算であったとも言えるなのではないだろうか。

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最近は工場での仕事にもミスが多い

生まれて初めて健康診断を受けるクララ

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夫フランコ(R・サルヴァトーリ)はクララの浮気を疑う

クララは肺の病を抱えていた

 舞台はミラノ。夜も白々と明け始めた早朝、主婦クララ(フロリンダ・ボルカン)は家族の誰よりも早く起きて一日の準備を始める。狭い安アパートに家族7人。彼女は一家を養う大黒柱でもあった。
 夫のフランコ(レナート・サルヴァトーリ)は工事現場の労働者だが、事故で脚を怪我して歩くことが出来ない。妻に養ってもらうことで男としての自尊心を傷つけられている彼は、なにかとクララに対してつっかかる。そんな彼を溺愛する義母(アンナ・カレナ)はいつも息子の味方で、仕事に家事にと休む暇もないクララに優しさが足りないと愚痴をこぼし、家事を手伝うどころか彼女のことを批判するばかりだ。
 甘えたい盛りの3人の子供たちもだだをこねて、彼女を困らせていた。しかも、居候している義弟(ヒューゴ・ブランコ)は定職に就く様子もなく、四六時中ブラブラしながらただ飯を食っている始末。
 そんな家族の世話を全て一人でこなすクララ。誰も自分の苦労を分かってくれない。たまりかねて洗面所で涙する彼女だが、家族の前では黙って気丈に振舞ってみせている。
 クララは工場で働いていた。朝早くに自転車で駅まで向い、満員電車をいくつも乗り継いで仕事場へ向かう。それだけでも重労働だ。しかも、日頃からろくに睡眠を取る暇もないことから、近頃では電車の中でも職場でも意識がもうろうとしがち。つい昼休みにうたた寝をしてしまい、作業時間に遅れてしまうこともあった。
 そんなある日、彼女は工場の規定で健康診断を受けることとなる。待合室でソワソワしている彼女に、ルイジ(ダニエル・ケノー)という青年が声をかけてきた。彼の親切な言葉のおかげで安心して検査を受けることが出来た彼女は、その帰りに二人で立ち寄った喫茶店でお茶をご馳走になる。ところが、その様子を偶然通りがかった義弟が見ていた。
 クララの浮気現場を発見したと自慢げに兄に告げ口する義弟。近頃セックスがご無沙汰なのはそのせいかと、怒りにまかせて暴れる夫フランコ。そんなわけがない。夜の夫婦生活がないのは、少しでも多く睡眠を取りたいだけだ。そんなこと分かりきっているはずなのに、なぜ気付いてくれないのか。クララは初めて家族の前で感情を露わにする。その激しい口調に驚いたフランコは、それっきり口をつぐんでしまった。
 健康診断の結果、クララの肺に異常があることが分かった。医者に言われて家族を連れてきたクララ。彼女の症状は命に関わる深刻なものだった。療養施設で数ヶ月間治療を受けるべきだという医者に対して、夫も義母も義弟も口々に猛反対する。クララがいなくなったら、自分たちはどうやって食っていくのかと。結局、みんな自分のことを食い扶ちとしか考えていないのか。家族の言葉を聞いたクララは、自ら療養施設へ行くことを決意した。
 施設は自然豊かなアルプスの山間にあった。これまで旅行すらしたことのないクララは、初めて見る北イタリアの風景に胸を躍らせる。施設へ向かうバスには、上流階級の女性たちも乗り合わせていた。彼女たちが降りていくのは金持ち向けの豪華な宿舎。クララのように治療費を保険でまかなわなくてはいけない女性たちは、一般向けの質素な宿舎へ案内される。それでも、個室には最低限のものが揃っているし、身の回りの世話は看護士たちがやってくれる。クララにとっては、それだけで天国だった。
 金持ちと庶民とでは宿舎こそ違えど、治療や食事は共同スペースで行われる。控えめなクララに好感を持った女性ジーナ(テレサ・ジンペラ)が、仲間たちのグループに加えてくれた。ジーナは裕福な実業家夫人だったが、夫の暴力から逃げるために仮病を使って施設へ来ていた。いつも陽気に振舞っている派手好きのオペラ歌手スカンジアーニ(アドリアーナ・アスティ)は、不治の病に侵されている。金持ちの令嬢マリア(モニカ・ゲリトーレ)は情緒不安定で、心の病を患っていた。一見すると幸せで何不自由ないように思える彼女たちも、それぞれに深刻な悩みを抱えているのだ。
 それでも強く逞しく楽しげに毎日を送る彼女たちと接しているうち、クララの表情にも微笑が浮かぶようになる。また、彼女は主治医チランニ(ホセ・マリア・プラダ)から勧められ、空いた時間に本を読むようになった。これまでは新聞や雑誌すら目を通す時間もなく、ろくに学校も出てないことから難しい本など読んだことのなかったクララだが、いつしか貪るように本を読むようになった。
 ある日、スカンジアーニらに誘われて生まれて初めてクラシック音楽の演奏会へ行ったクララは、そこでルイジと再会する。穏やかで教養のある彼は、夫フランコとは全く正反対の男性だった。ためらいながらも彼に惹かれていくクララ。労働組合のリーダーでもあるルイジは、労働者の人権や平等など、これまで彼女が考えたこともなかったことを教えてくれた。
 やがて、スカンジアーニの病状が悪化する。歌手としての成功と引き換えに、女性としての幸せを諦めざるを得なかった彼女は、孤独と死の恐怖に直面しながら必死になって闘っていた。一方、夫に居場所を見つけられたジーナは連れ戻されることに。仕事をしたことのない彼女にとって、選択肢は他になかった。明るく陽気に振舞うジーナだが、クララには彼女の心の内がよく分かっていた。
 そんな折、クララのもとへ家族が見舞いにやって来ることとなる。ジーナから貰った化粧品と毛皮のコートでおめかしをし、家族との待ち合わせ場所へ向かうクララ。変わった自分を見てもらいたい。そう思っていたクララだったが、久々の再会は大きな失望をもたらしただけだった・・・。

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アルプスの谷間にある療養施設へ向かうクララ

裕福な女性ジーナ(T・ジンペラ)と親しくなる

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陽気なオペラ歌手スカンジアーニ(A・アスティ)は人気者だ

ジーナの豊かな生活ぶりを知って境遇の違いを実感するクララ

 脚本を手掛けたのはザヴァッティーニと、アルベルト・ラットゥアーダの名作『アンナ』(51)を手掛けたロドルフォ・ソネーゴ。『子供たちは見ていた』以来30年以上に渡って続いたデ・シーカとザヴァッティーニのコラボレーションは、結果的にこれが最後となってしまった。また、マリオ・バーヴァの『バンパイアの惑星』を手掛けたスペインの脚本家兼監督ラファエル・J・サルヴィアが、ノー・クレジットで脚本に関わっていると言われる。
 撮影監督は、『悲しみの青春』に続いて大御所エンニオ・グァルニエーリが担当。前半のリアリズムを重視した陰鬱で暗い映像から一転、後半は真冬の北イタリアの大自然を叙情性豊かな美しさでカメラに捉えている。
 そして、音楽スコアも再び息子マヌエル・デ・シーカが担当。そのほか、『奇蹟の丘』(64)や『アポロンの地獄』(67)などパゾリーニとのコラボレーションで知られるルイジ・スカッチャノーチェが美術監督を、ベルトルッチやカヴァーニの作品を数多く手掛けたフランコ・アルカッリが編集を、『ひまわり』で衣装助手を務めていたナディア・ヴィターレが衣装デザインを手掛けている。

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クララはジーナたちに連れられて生まれてはじめての演奏会に

実直なインテリ青年ルイジ(D・ケノー)と再会する

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スカンジアーニは死期が迫っていた

精いっぱいのおめかしをして家族と面会するクララだったが・・・

 主人公クララ役を演じているのは、当HPのカルト女優コーナーでも紹介したブラジル出身の個性派フロリンダ・ボルカン。どちらかというと悪女役や浮世離れしたような役の多かった女優だが、本作では耐え忍ぶ女性の強さと弱さ、そして自立心に目覚めていくヒロインの心の旅路を見事に演じ、ソフィア・ローレンにも負けないくらいの存在感を示してくれる。彼女にとって、一世一代の名演技と言えよう。
 そのクララの粗野な夫フランコを演じているのは、ヴィスコンティの『若者のすべて』(60)の次男シモーネ役で脚光を浴びた名優レナート・サルヴァトーリ。クララと惹かれあう若者ルイジ役には、無名の新人ダニエル・ケノーが起用されている。
 さらに、ベルトルッチやフェリーニ、ヴィスコンティなどの巨匠に愛された名女優アドリアーナ・アスティが、オペラ歌手スカンジアーニ役として登場。エキセントリックな女性を演じることの多かった人だが、ここでは強くなければ生き残ることの出来なかった女性の悲劇を大熱演して哀れを誘う。
 そのほか、スペインの名脇役ホセ・マリア・プラダ、B級スパニッシュ・ホラーのセクシー女優テレサ・ジンペラ、『楡の木陰の愛』(74)や『薔薇の貴婦人』(84)などで知られる女優モニカ・ゲリトーレ、『ひまわり』でマストロヤンニの母親役を演じていたアンナ・カレナなどが脇を固めている。

 

 

旅路
Il viaggio (1974)

日本では1974年劇場公開
VHS・DVD共に日本未発売

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(P)2009 New Star Video (USA)
画質★★★☆☆ 音質★★★☆☆
DVD仕様(北米盤)
カラー/スタンダードサイズ/モノラル/音声:英語/字幕:なし/地域コード:
ALL/98分/製作:イタリア・フランス

特典映像
フォト・ギャラリー
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
製作:カルロ・ポンティ
原作:ルイジ・ピランデッロ
脚本:ディエゴ・ファブリ
   マッシモ・フランチョーザ
   ルイザ・モンタニャーナ
撮影:エンニオ・グァルニエーリ
音楽:マヌエル・デ・シーカ
出演:ソフィア・ローレン
   リチャード・バートン
   イアン・バネン
   アナベラ・インコントレッラ
   バーバラ・ピラヴィン
   レナート・ピンチローリ
   ダニエル・ヴァルガス

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遺言で家督を継ぐことになったチェザーレ(R・バートン)

アドリアーナ(S・ローレン)はチェザーレと愛し合っていた

遺言に従ってアントニオ(I・バネン)と結婚するアドリアーナ

 ノーベル賞を獲得したイタリアの文豪ルイジ・ピランデッロの小説を原作とした、華麗なる大人のためのメロドラマ。お互いに愛し合いながらも様々な事情から結ばれることのなかった男女の、奥ゆかしくも情熱的な“旅路”を描いた作品である。
 主人公はシチリアの大地主の長男チェザーレと、没落した家の娘アドリアーナ。人知れず愛し合っていた二人だったが、死んだチェザーレの父親の遺言でアドリアーナは弟アントニオと結婚しなくてはならなくなる。
 この土地では、父親の遺言の力というのは絶対だ。泣く泣くアントニオと結婚したアドリアーナ。そして、弟夫婦の面倒を見ながら独身を貫くチェザーレ。それから数年後、アントニオが不慮の事故で死亡してしまう。シチリアのしきたりで、未亡人は喪に服すために外を出歩いてはいけない。
 シチリアの外で様々な新しい文化に接していたチェザーレは、故郷のしきたりや因習にうんざりしていた。そんな折、アドリアーナが体調不良で倒れてしまう。優れた医者に診てもらおうとパレルモへと向かうチェザーレとアドリアーナ。彼女の余命がいくばくもないと知ったとき、チェザーレはこのまま二人で旅を続けようと決意する。ミラノ、ベネチアと旅を続けながら、二人きりの時間を過ごすアントニオとアドリアーナ。果たして、彼らは結ばれることが出来るのか・・・?
 とにかく、優しい映画である。誰もが善意の人々で、悪意を持った人間など一人も出てこない。では、主人公たちを不幸にさせるものとは何なのか?何の疑問も持たず、掟や因習に服従し続ける人々。名誉や世間体ばかりを重んじる共同体。全体主義的かつ封建的な社会こそが、彼らから幸福を奪い去った元凶なのだろう。
 これが遺作となったデ・シーカは、メロドラマの常套ともいうべき物語の背景に個人と社会の関わりを丁寧に織り交ぜながらも、愛すれど結ばれぬ中年男女の悲恋を限りなくロマンティックに描いていく。恐らく、社会的メッセージにはそれほどの重きを置かなかったのだろう。シチリアを舞台にした映画につきものの因習やしきたりといった要素も、ここではメロドラマを盛り上げるための小道具に終始しているような印象を受ける。
 前作“Una breve vacanza”でネオレアリスタとしての原点に回帰したデ・シーカだが、ここでは彼が若かりし頃の戦前・戦中にイタリア庶民から愛されたブルジョワ・ドラマを再現したのではないかと思う。“Una breve vacanza”が当時のイタリア国民に対してデ・シーカの残した遺言だとすれば、この『旅路』はさしずめ遺産とも言うべきものなのではないだろうか。それは奇しくも、ヴィスコンティの遺作『イノセント』(76)がピランデッロと同時代の文豪ダヌンツィオの小説を映画化したブルジョワ・ドラマであったことと重なって興味深い。

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チェザーレはシチリアに寄り付かなくなった

弟アントニオに自動車をプレゼントするチェザーレ

恋人シモーナ(A・インコントレッラ)と過ごす

 20世紀初頭のシチリア。村の大地主ブラッジ家の当主が亡くなり、その遺言が読み上げられた。家督を相続するのは長男チェザーレ(リチャード・バートン)。次男アントニオ(イアン・バネン)には亡き母親の実家が相続された。だが、遺言にはさらに重要な事柄が書き記されていた。
 小さなアパートの一室に暮らすアドリアーナ(ソフィア・ローレン)と母親(バーバラ・ピラヴィン)。そこへチェザーレが馬車に乗ってやって来る。はやる気持ちを抑える母娘だったが、チェザーレの口から出た言葉は意外すぎるものだった。
 アンドリアーナはチェザーレの父親の亡き親友の娘だった。その面倒を見るという約束を果たすために父親が決断したのは、次男アントニオと彼女を結婚させること。それを知ったアドリアーナはショックで泣き崩れ、母親は狼狽する。なぜなら、アドリアーナはチェザーレの恋人だったからだ。
 だが、名門一族の当主の遺言は絶対である。チェザーレもその言葉には従わねばならない。最初は断固として結婚を拒絶するアドリアーナだったが、この縁談は彼女一人だけの問題ではなかった。父親が亡くなって以来、母娘の生活は困窮していた。裕福なブラッジ家に嫁ぐということは、母親の老後を保証するものでもある。それに、結婚を断れば名門一族の顔に泥を塗ることになり、地域社会で生きづらくなってしまうだろう。運命には逆らえなかったのだ。
 アントニオは正直者で心優しい夫だった。しかし、アドリアーナはなかなか彼を受け入れることが出来ない。複雑な心境のチェザーレも仕事を理由に留守がちとなり、遠いパレルモやミラノに長期出張することが多くなった。たまに会っても、どこか気まずい雰囲気の二人。知らぬはアントニオだけだった。
 それから数年が経ち、チェザーレはミラノにシモーナ(アナベラ・インコントレッラ)という恋人がいた。一方、ようやくアントニオを夫として受け入れることが出来るようになったアドリアーナは、ナンディーノ(パオロ・レナ)という一人息子にも恵まれた。
 そんなある日、ミラノのホテルにシモーナと滞在していたチェザーレは、シチリアで大地震が起きたことを知って急いで故郷へ戻る。ブラッジ家は無事だった。これをきっかけに、チェザーレは弟一家のもとを頻繁に訪れるようになった。甥っ子のナンディーノも、シチリアの外から様々な文明の利器を持ち込む叔父になつく。
 アントニオの誕生日に自動車をプレゼントするチェザーレ。村ではまだ自動車に乗っている人間など誰もいない。なんでも新しいものを積極的に取り入れ、各地を飛び回ってバリバリと仕事をこなす兄のことを、アントニオは心の底から尊敬していた。それに引き換え、自分は何をするにも自信がない。妻に愛されているかどうかすら確信が持てない。そう呟くアントニオを励ましながら、チェザーレは心の中で強い罪悪感を感じる。
 しばらくはシチリアに戻らないほうがいいかもしれない。そう考えたチェザーレは、ミラノでシモーナと過ごすことにした。ところが、それからしばらくして、信じられないニュースが飛び込む。自動車を運転していたアントニオがハンドル操作を誤り、崖から転落して死んでしまったのだ。
 急いでシチリアへ戻るチェザーレ。アドリアーナは憔悴しきっていた。この母子を守るのは自分しかいない。そう考えたチェザーレはシモーナに別れを告げ、シチリアに留まることにする。
 ある日、アドリアーナが食事中に突然体調不良を訴えた。おかしいと思ったチェザーレはファミリー・ドクターのマスチオーネ医師(レナート・ピンチローリ)に相談したところ、大都市の信頼出来る医者に診せたほうがいいという。未亡人がみだりに外を出歩くことは世間体が悪いと猛反発するアドリアーナだったが、チェサーレの説得でパレルモの医師を訪ねることにした。
 二人きりでパレルモに旅立つチェザーレとアドリアーナ。医師の診断によると、彼女はもう手遅れだという。その言葉を受け入れることの出来ないチェザーレは、彼女をもっと進歩したミラノの医者のもとへ連れて行くことにする。
 ミラノの医者は、人生を楽しむことが最大の薬だという。それは、もはやなす術はないということを暗に物語っていた。意気消沈するアドリアーナを夜の街へと連れ出し、一緒に芝居や食事を楽しむチェザーレ。久しぶりに満面の笑顔を見せるアドリアーナ。その帰りの馬車の中で、二人は衝動的に唇を重ねあう。いままでずっと心の中にしまいこんできた想いが、いっきにあふれ出したのだ。
 二人はシチリアへ戻ることをやめ、このまま二人きりの旅を続けることにした。行き先はベネチア。コンドラの上でチェザーレはアドリアーナに結婚を申し込む。世間がなんと言おうと構わない。重要なのは二人の幸せなのだ。しかし、アドリアーナに残された時間は想像以上に短かった・・・。

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アントニオの訃報を聞いて駆けつけたチェザーレ

パレルモでアドリアーナを医者に診せる

アドリアーナは深刻な病に侵されていた

 ピランデッロの原作を脚色したのは、『ロベレ将軍』(59)や『ローマで夜だった』(60)などのロッセリーニ作品で知られるディエゴ・ファブリ、ヴィスコンティの『若者のすべて』(60)や『山猫』(63)のような芸術作品からコメディやホラーまで幅広く手掛けたマッシモ・フランチョーザ、そしてフランチョーザのパートナーでもあったルイザ・モンタニャーナの3人。ファブリはコルシカ島の古い因習を題材にしたジュールズ・ダッシン監督の『掟』(58)にも関わっていた。
 撮影監督は『悲しみの青春』以来デ・シーカと組むようになったエンニオ・グァルニエーリが担当。音楽は息子のマヌエル・デシーカ。美術監督は前作に続いてルイジ・スカッチャノーチェ、編集も前作に引き続きフランコ・アルカッリといった具合に、お馴染みのスタッフが携わっている。
 また、時代物の豪華でエレガントな衣装デザインには、ヴィスコンティの『夏の嵐』(54)やクリスチャン=ジャックの『女優ナナ』(55)などを手掛けたフランスのベテラン、マルセル・エスコフィエが参加。壮麗なセット・デザインは、『ラスト・エンペラー』(87)でオスカーを受賞したブルーノ・チェザーリが担当した。
 そのほか、後にティント・ブラスやロベルト・ベニーニの作品でスタイリッシュなセットを手掛けることとなるパオロ・ビアゲッティがセット装飾助手として、80年代から90年代にかけて低予算のソフト・ポルノやホラー映画の監督となるベッペ・チノが助監督してクレジットされている。

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チェザーレはアドリアーナを夜の街へ連れ出した

ゴンドラの上で結婚を申し込むチェザーレ

残された僅かな時間で一生分の愛を交わす二人

 主人公のチェザーレとアドリアーナを演じているのは、この同じ年にイギリスのテレビ映画『逢びき』(74)でも共演したリチャード・バートンとソフィア・ローレン。この二人の顔合わせそのものは悪くないのだが、やはりどこからどう見ても英国紳士のリチャード・バートンがイタリアの、それもシチリアの地主を演じるというのはちょっと無理があるようにも感じる。しかもセリフは全編英語。イタリア映画ファンとしては、やはりマストロヤンニに登板してもらいたかったというのが正直なところだ。
 さらに、チェザーレの弟アントニオ役にも、これまたイギリス人らしいイギリス人とも言うべきイアン・バネンを起用。ただ、本来は一癖も二癖もある個性的な役柄や悪役を得意とするバネンが、正直者で心優しいアントニオという男を嫌味なく演じているのは意外な驚きだった。
 同じように意外なキャスティングだったのが、チェザーレの恋人シモーナ役を演じるアナベラ・インコントレッラ。主にマカロニ・ウェスタンやホラー映画などのヒロインとして知られるセクシー女優だが、ここでは酸いも甘いも噛み分けた大人の貴婦人を演じていて、これがなかなかいい味を出している。
 また、『悲しみの青春』で主人公ルカの母親役を演じていたバーバラ・ピラヴィンが、ここではアドリアーナの母親役として登場。彼女は当時イタリア在住だったアメリカ人女優で、実年齢はソフィアと5〜6歳しか変わらない。80年代に入って母国アメリカへ戻り、05年に81歳で亡くなるまで『マニアック・コップ3』(93)や『コンスタンティン』(05)などの映画やテレビ・ドラマでチョイ役を続けていたという。
 なお、ブラッジ家の弁護士役として、スペクタクル史劇やマカロニ・ウェスタンの悪役で鳴らしたB級俳優ダニエル・ヴァルガスが顔を出しているのも興味深い。

 

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