トレイシー・ウルマン Tracey Ullman

 

TRACEY.JPG

 

 母国イギリスはもとよりアメリカやヨーロッパ各国でもトップ10入りを記録した、1983年の大ヒット曲“They Don't Know(夢見るトレイシー)”で有名なトレイシー・ウルマン。この'60年代アメリカン・ポップス風のキュートでレトロなナンバーは、ここ日本でも当時かなりの話題となった。今でもテレビのBGMなどによく使われているので、メロディに聞き覚えのある人も多いに違いない。当時は日本を含めた世界各国でオールディーズのリバイバル人気が高まりはじめた時期だったということもあり、まさしくタイムリーなヒット・ナンバーだったように思う。
 そんな時代の寵児とも言うべきトレイシーだが、ここ日本ではいきなり華々しく登場したかと思ったらあっという間に消えてしまった歌手、という印象が強いかもしれない。もちろん、熱心な映画ファンであれば、その後のウッディ・アレン作品などにおける彼女の女優としての活躍ぶりも十分ご承知のことだろうとは思う。しかしながら、その映画出演作だって決して多いわけではない。にも関わらず、ほとんどの作品で主演クラスの扱いを受けている。なぜ彼女が大物スターとしてここまで長いキャリアを誇っているのか、という点になると、いまひとつ理由がよく分からないという人も多いのではないだろうか。
 というのも、彼女の代表作であるテレビのコメディ・シリーズ“Three of a Kind”('81〜83)、“The Tracey Ullman Show”('87〜90)、“Tracey Takes On...”('96〜99)、“Tracey Ullman's State of the Union”('08〜10)のいずれもが、日本ではいまだに未公開のままになっているからだ。そう、実はトレイシー・ウルマンの本業は歌手でも映画女優でもなく、英米のテレビで絶大な人気を誇る女性エンターテイナー。その鋭い人間観察と巧みな形態模写によって様々なキャラクターを演じ分ける天才コメディエンヌなのである。

 1959年12月30日、イギリスはバークシャー州スラウに生まれたトレイシー。父親はダンケルクの戦いで救出されてイギリスに定住した元ポーランド兵、母親はジプシーの血を引くイギリス人だった。本名はトレイス・ウルマン(Trace Ullman)。彼女の母親の説明によると、なんとなくアメリカ人ぽい響きがするからという理由で最後の“y”を省略したのだという。少々変わり者の一家だったのかもしれない(笑)。
 そんなトレイシーが6歳の時に父親が他界。子供たちを寝かせるために本を読んであげている最中、心臓発作で亡くなってしまったのだ。そして、そのショックでふさぎ込んでしまった母親のため、トレイシーは姉のパティと一緒になって歌や寸劇を披露するようになったという。中でも当時の人気歌手や映画スター、近所の知り合いなどの物まねは彼女の十八番で、これが後のコメディエンヌとしての下地になったのだそうだ。
 その後、母親は再婚。しかし、この新しい父親は飲んだくれの乱暴者で、トレイシーと姉は惨めな少女時代を過ごさねばならなくなってしまう。母親まで酒びたりになってしまい、両親はしょっちゅう喧嘩ばかりしていた。そんな折、たまたま家を訪問してきた占い師から“あなたは将来スターになってアメリカで成功することになる”と預言されたトレイシーは、その言葉に生きる希望を託すようになったのだそうだ。
 そして、12歳の時に最初の転機が訪れる。彼女の才能を見抜いた学校の校長先生が、ロンドンの有名な演劇学校イタリア・コンティ学院を推薦してくれたのだ。ここで4年間に渡って本格的な演技や歌、ダンスの訓練を積んだトレイシーだったが、その一方で社会の厳しい現実とも向き合わねばならなくなる。いい役を貰えるのはブロンドのグラマーな美人ばかり。チビでブスでオッパイの小さいトレイシーは、誰からも見向きされなかったのだ。すっかりふてくされてしまった彼女は、この頃に酒やたばこの味を覚え、未成年にも関わらずしょっちゅうパブに入り浸っていたという。
 それでも、スターを目指して数多くのオーディションを受けまくったトレイシーは、16歳の時に初めて舞台の仕事を貰った。ただし、行き先は西ドイツのベルリン。ミュージカル“ジジ”のドイツ語版公演だった。正直なところ気乗りはしなかったが、とはいえ仕事を選べるような立場ではない。舞台を終えた後に仲間とディスコへ繰り出すのが唯一の楽しみだったが、“ベルリンの男はゲイばかり”だったそうで、思春期の乙女には刺激が足りなかったようだ。
 西ドイツでの契約を終えてロンドンへと戻った彼女は、次に国内のリゾート・ホテルで興行される有名なテレビ・スター、レイ・ドーソンのディナー・ショーのバック・ダンサーの仕事を得る。ところが、ここでは前代未聞のノーパン事件を巻き起こしてしまった。というのも、ショーの始まる直前まで仲間とビーチで日焼けを楽しんでいた彼女、大急ぎで着替えてステージに立ったはいいのだが、うっかりスカートの下のパンティをはき忘れてしまったのだ。振り付けでは男性ダンサーに支えられて宙返りをしなけりゃならない。途中でスカートの中がスースーすることに気付いて慌てた彼女は、パートナーの男性ダンサーにノーパンだということを必至に伝えようとしたが叶わず、気が付いたら逆さまになって下半身を丸出しにしていたのだそうだ(笑)。
 これに懲りたからなのかどうかは定かでないが、その後は演劇畑へと方向転換したトレイシー。ロンドンのウェスト・エンドで「ロッキー・ホラー・ショー」などのミュージカルに出演する傍ら、ロイヤル・コート劇場の寸劇の舞台に立つようになった。ここで演じたシャーリー・バッシー風の大袈裟なナイトクラブ歌手ビヴァリーというキャラクターが大受けしてしまい、彼女は'81年度ロンドン演劇批評家賞の最優秀新人賞を獲得。その才能に注目した国営放送局BBCに起用され、テレビのコメディ番組“Three of a Kind”へ出演することとなる。これはトレイシーとレニー・ヘンリー、デヴィッド・カッパーフィールドのコメディアン3人組が様々なキャラクターに扮した寸劇を披露する30分番組で、『宇宙船レッド・ドワーフ号』で知られる脚本家コンビ、ロブ・グラントとダグ・テイラーの出世作ともなった作品。この番組で大ブレイクした彼女は、ロビー・コルトレーンと組んだバラエティ番組“A Kick Up the Eighties”や、ジェニファー・サウンダウース&ドーン・フレンチの女性コメディアン・コンビと組んだシットコム“Girls on Top”などに次々と出演して大活躍するようになる。

 そんな人気コメディエンヌ、トレイシー・ウルマンをポップ・シンガーに…というアイディアを思いついたのは、エルヴィス・コステロやディーヴォ、マッドネスなどを世に送り出した気鋭のレコード会社スティッフ・レコードの社長デイヴ・ロビンソンの奥方ローズマリーだった。ある日、美容室でパーマをかけていたトレイシーは、いきなり目の前に現れた初対面のローズマリーから、“あなたレコードを出す気はない?”と言われてビックリしたという。
 もともとバラエティー・ショーやミュージカルの舞台で歌もダンスも鍛えてきたトレイシーだけに、ポップ・シンガーとしての素養も下地もバッチリ。レコード会社はすぐに契約をまとめ、当時ベル・スターズやアルヴィン・スターダストなどのヒット曲を手掛けていたピーター・コリンズと、後にPWLレーベルを設立してカイリー・ミノーグやリック・アストリーを世に送り出すことになるピート・ウォーターマンの2人を、トレイシーのプロデューサーとして起用した。
 初めから好きなように料理して構わないとレコード会社から言われたコリンズは、サンディー・ショーやシラ・ブラック、ダスティー・スプリングフィールドをイメージして彼女の楽曲を選んだのだそうだ。さらに、サウンド作りではフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドを意識。トレイシー自身もコメディエンヌとして培った形態模写のテクニックを駆使し、60'sの能天気でラブリーな女性ポップ・シンガーのイメージをカリカチュアしてみせた。
 かくして完成したデビュー曲“Breakaway”は、'60年代アメリカの黒人歌手アーマ・トーマスのヒット曲のカバー。スティッフの社長デイヴ・ロビンソンの指示で再生スピードを思いっきり速くしたことから、トレイシーの歌声は子供のようなベビー・ボイスとなり、“まるでミニー・マウスがヘリウムを吸ったみたい”などと評された。この屈託がないくらいにキャッチーなポップ・ナンバーは全英チャートで4位をマークし、たちまちトレイシーは人気アーティストの仲間入りを果たす。なお、おニャン子クラブのヒット曲『セーラー服を脱がさないで』は、このトレイシー版“Breakaway”のあからさま過ぎるくらいのパクリだ。
 そして、次にリリースされたのが“They Don't Know”。これは同じスティッフ・レコードの所属アーティストである女性シンガーソングライター、カースティ・マッコールのカバー作品なのだが、トレイシーのバージョンにはそのカースティ自身もバックボーカルで参加。乙女チックでノスタルジックなラブソングに仕上がっており、全英チャートで2位を獲得したばかりか、ビルボードの全米チャートでも最高8位をマーク。西ドイツやオランダ、フランス、イタリアなどヨーロッパ各国でもトップ10入りを果たし、彼女にとって最大のヒット曲となったのである。また、当時彼女がポール・マッカートニー主演の映画『ヤァ!ブロード・ストリート』に出ていた関係で、本作のプロモ・ビデオにポールがゲストとして顔を出していたことも話題となった。
 さらに、ドリス・デイの名曲をカバーした“Move Over Darling”も全英8位となり、ファースト・アルバム“You Broke My Heart in 17 Places”も大ヒット。レーベル仲間であるマッドネスのヒット曲“My Girl”の歌詞を女性用にアレンジしてカバーした“My Guy”も23位の中ヒットとなった。
 しかし、セカンド・アルバム“You Caught Me Out”からのファースト・シングル“Sunglasses”が最高18位止まりとなり、続いてリリースされた“Helpless”と“Terry”はトップ40にすら入らない低調ぶり。アルバム自体も最高92位と全くの不発だった。さらに、レコード会社とのロイヤリティを巡る不和なども発生し、すっかり音楽業界に嫌気のさしたトレイシーは、躊躇することなくレコード歌手としてのキャリアから足を洗ってしまう。

TRACEY-2.JPG

 さて、歌手として人気の爆発していた時期に、ハリウッドでも活躍するイギリスの大物テレビ・プロデューサー、アラン・マッケオウンと結婚していたトレイシー。アメリカの芸能エージェントとも契約し、友人の誘いでニューヨークをたびたび訪れるなど、すっかりアメリカの社会や文化に慣れ親しむようになっていた。そこで、メリル・ストリープがイギリスで主演した映画『プレンティ』('85)で本格的な女優活動を開始したばかりだった彼女は、思い切ってアメリカへ活動の拠点を移すことを決意し、夫と共にロサンゼルスへと渡ったのである。
 ところが、その直後に第一子を妊娠してしまい、本格的なアメリカ進出が遅れることに。友人のペニー・マーシャル監督に声をかけられて、ウーピー・ゴールドバーグ主演のコメディ映画『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』('86)にカメオ出演したのが、この時期の唯一の仕事だった。
 そして、'86年4月にめでたく長女メイベルを出産。そんな折に声をかけてきたのが、『愛と追憶の日々』('83)でアカデミー賞を受賞した大物監督ジェームズ・L・ブルックスだった。もともとテレビ界のヒット・メーカーだった彼は、トレイシーの得意なギャグや歌、ダンスを盛り込んだバラエティ番組をやってみないかと持ちかける。それが、'87年の春から4シーズンに渡って放送された“The Tracey Ullman Show”だった。
 もともと、トレイシー自身もアメリカのショービジネス界への進出はテレビで、と考えていた。やはり、彼女の強みは物まねや形態模写の才能を生かした寸劇であり、テレビは最も適したメディアだったのである。しかし、過激な風刺ギャグの好まれるイギリスとは違って、少なくとも当時のアメリカのテレビ業界では差別ネタや政治ネタなどのタブーを笑い飛ばすなどもってのほか。そのため、本人が納得できるような企画とはなかなか巡りあうことがなかった。
 しかし、この“The Tracey Ullman Show”ではトレイシー自身が番組の構成やギャグのアイディアを提案し、ブルックス監督もそれを全面的にバックアップ。しかも、放送されるチャンネルが当時まだ開局したばかりのフォックス・ネットワークだったということもあり、彼女の得意とする過激なキャラクターや下ネタを含むドギツいギャグなどにも寛容だった。
 番組の構成自体は、昔のルシール・ボールの『ルーシー・ショー』や『陽気なルーシー』などとよく似ている。トレイシー自身によるイントロダクションから始まり、彼女が様々な奇人変人に扮する寸劇コメディが2〜3本紹介されるといった按配だ。ライブ・オーディエンスを前にした公開録画形式というのも昔ならでは。だいたい最後のエピソードでは彼女の歌やダンスがフューチャーされ、大盛り上がりの中でショーの幕が閉じるというわけだ。中には、トレイシーが東京へ行ってコンサートをするなんてエピソードもあった。楽屋ではなぜか相撲レスラーがシコを踏んでいたり、どんなにギャグをかましても日本人の観客がクスリとも笑わなかったりと、日本のステレオタイプを茶化したギャグが盛り沢山。当時、初めてロサンゼルスを訪れていた筆者は、もともと歌手トレイシー・ウルマンの大ファンだったということもあるが、そのえげつなさ一歩手前のシュールで毒のあるユーモア・センスにすっかりハマってしまった。さすがイギリス人だ、と。
 2年連続でエミー賞のバラエティ番組部門最優秀作品賞を獲得し、トレイシー自身も最優秀パフォーマンス賞を受賞した本作。ミュージカル・シーンの振り付けをポーラ・アブダルが手掛けており、彼女も本作で最優秀振り付け賞を獲っている。また、この番組はあの人気アニメ『シンプソンズ』を生み出したことでも有名。もともと『シンプソンズ』は、この番組の幕間に放送されていた30秒アニメだったのである。
 かくして、米テレビ界におけるコメディの女王となったトレイシー。しかし、実はこの“The Tracey Ullman Show”という番組、これまでに一度もビデオソフト化されたことがない。というのも、先述した「シンプソンズ」の著作権料を巡ってトレイシーとフォックス・テレビジョンが対立してしまい、裁判沙汰にまで発展してしまったのだ。そのため、著作権を持っているフォックスは、本作のソフト化を未だに封印したままなのである。

TRACEY-3.JPG TRACEY-4.JPG TRACEY-5.JPG
TRACEY-6.JPG TRACEY-7.JPG TRACEY-8.JPG

 '90年5月に“The Tracey Ullman Show”を終えたトレイシーは、『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』('90)で映画界へ復帰。メル・ブルックス監督の『ロビン・フッド/キング・オブ・タイツ』('94)やロバート・アルトマン監督の『プレタポルテ』('93)を経て、ウディ・アレン監督の『ブロードウェイと銃弾』('94)と『おいしい生活』('00)で見事なコンビぶりを発揮する。また、人気テレビ・ドラマ『アリーmyラブ』にもセミ・レギュラーとして顔を出した。
 そんな彼女が久々に得意の寸劇コメディに挑戦したのが、ケーブル局HBOが製作した番組“Tracey Takes On...”。これは毎回決められたテーマをもとに、トレイシー扮する様々なキャラクターたちの日常生活が入れ代わり立ち代わり綴られていくという作品だ。なにしろ、タブーのほとんど存在しないケーブル局製作の番組ゆえ、その内容は以前にも増して過激かつシュールなものになった。
 差別用語を連発するハリウッドのベテラン女性メーキャップ・アーティスト、ルビー、女と見れば巨大なイチモツを自慢せずにはいられない“チック・マグネット(女を引き寄せる磁石)”を自称するアラブ人のタクシー運転手チック(もちろん男性)、世話焼きで口うるさいユダヤ人の成金マダム、ファーン・ローゼンタール、ボトックス注射と唇整形で若さを保ちゲイのファン層だけに支えられている往年の人気テレビ女優リンダ・グレンジャー、小人のダンナとトレイラーハウス暮らしをしているオーストラリア人のマッチョなスタント・ウーマン、レイリーン・ギブソン、紳士的な物腰とは裏腹に乗客の噂話が大好きなゲイの客室乗務員トレヴァー、体も態度もデカい黒人の女性空港警備員シェニーシャ・ターナーなどなど、人種も年齢も性別も全く異なる強烈なキャラクターを演じ分けるトレイシーの芸達者ぶりは、まさしく見事の一言に尽きると言えよう。いずれも、トレイシー自身がアメリカでの日常生活の中で出会った実在の人々をモデルにしているのだそうだ。
 この“Tracey Takes On...”で再びエミー賞のバラエティ番組部門最優秀作品賞を獲得し、ゴールデン・グローブ賞でもコメディ/ミュージカル部門の最優秀主演女優賞にノミネートされたトレイシー。'08年からはHBOのライバル局Showtimeで“Tracey Ullman's State of the Union”に主演し、全米各地に暮らす愛すべき奇人変人たちを一人で演じ分けながら、様々な人種や価値観が混在するアメリカの面白さを皮肉たっぷりのギャグで笑い飛ばした。この番組では初めて有名人の物まねにも挑戦し、セリーヌ・ディオンからスーザン・ボイル、ローラ・ブッシュからミーガン・マッケイン(マッケイン上院議員の娘)、シャーリーズ・セロンからジュディ・デンチまで、様々な有名人を愛情と悪意の両方を込めた過激な物まねでネタにしている。
 イギリスで最も裕福な喜劇俳優と呼ばれ、アメリカで成功した最初の外国人コメディエンヌとも称されているトレイシーだが、4年ほど前にアメリカでの市民権を取得。自身のキャリアを振り返ってこう語っている。“昔のイギリスでは、テレビに出てくる女性に笑いなど求められていなかった。アメリカにはルシール・ボールやキャロル・バーネット、ギルダ・ラドナー、リリー・トムリンがいたけど、私の国ではお手本となるような存在がいなかったのよ”と。だからこそ、自己流の総合エンターテインメント的な芸風を確立することが出来たのだろう。
 そう考えると、'80年代に一世を風靡した歌手トレイシー・ウルマンというのも、彼女の数ある持ちネタの一つみたいなものだったのかもしれない。だからこそ、一時の打ち上げ花火みたいな存在で良かったのではないかと思うのだ。

 

 

YOU_BROKE.JPG YOU_CAUGHT_ME.JPG

COMPLETE_RECORDINGS.JPG

You Broke My Heart in 17 Places (1983)

You Caught Me Out (1984)

Move Over Darling
The Complete Stiff Recordings

(P)1991 Stiff/Repertoire (Germany) (P)1993 Stiff/Disky (Netherland) (P)2010 Union Square Music (UK)
1,Breakaway ビデオ
2,Long Live Love
3,Shattered
4,Oh, What A Night
5,(Life Is A Rock) But The Radio Rolled Me
6,Move Over Darling ビデオ
7,Bobby's Girl ビデオ
8,They Don't Know ビデオ
9,(I'm Always Touched By Your) Presence Dear
10,You Broke My Heart in 17 Placesビデオ
11,I Close My Eyes And Count To Ten
bonus tracks
12,Dancing in the Dark
13,Breakaway (Monitor Mix)
14,Bobby's Girl (Remix)
15,Move Over Darling (Extended)
16,The B. Side

produced by Peter Collins
#7 produced by Steve O'Donnell
#10 produced by K.MacColl & G.Povey
1,You Caughted Me Out ビデオ
2,Little By Little
3,Baby I Lied
4,Terry ビデオ
5,Bad Motorcycle ビデオ
6,Loving You Is Easy
7,My Guy ビデオ
8,Sunglasses ビデオ
9,If I Had You
10,Helpless ビデオ
11,Where The Boys Are
12,Give Him A Great Big Kiss ビデオ
13,I Know What Boys Like
14,I Don't Want Our Loving To Die
bonus tracks
15,Thinking Of Running Away
16,Sunglasses (Extended Version)ビデオ
17,Candy
18,Alone ビデオ
19,Falling In And Out Of Love
20,Helpless (Instrumental)

produced by Peter Collins
#4 produced by K.MacColl & G.Povey
CD:01
1,Breakaway
2,Long Live Love
3,Shattered
4,Oh, What a Night
5,(Life Is A Rock) But The Radio Rolled Me
6,Move Over Darling
7,Bobby's Girl
8,They Don't Know
9,(I'm Always Touched By Your) Presence Dear
10,You Broke My Heart in 17 Places
11,I Close My Eyes And Count To Ten
12,Dancing In The Dark
13,The B-Side
14,Move Over Darling (Extended Version)
15,My Guy
16,Thinking Of Running Away
CD:02
1,You Caught Me Out
2,Little By Little
3,Baby I Lied
4,Terry
5,Bad Motorcycle
6,Loving You Is Easy
7,Sunglasses
8,If I Had You
9,Helpless
10,Where The Boys Are
11,Give Him A Great Big Kiss
12,I Know What Boys Like
13,Candy
14,Sunglasses (Extended Version)
15,Falling In And Out Of Love
16,Helpless (Extended Version)
17,Instrumentally Helpless
18,I Don't Want Our Loving To Die
19,Little Red Riding Hood
20,Alone
 僕にとっては60年代ポップスの入門書ともなった一枚。このアルバムのおかげで、サンディー・ショーやスーザン・モーガンなどの存在を初めて知り、オールディーズにも興味を持つようになったわけです。とはいえ、大ヒット曲#8はカースティ・マッコールのカバーだし、#9はブロンディですからね、実に上手いことまとめられてします。とにかく最初から最後までキャッチーで楽しい作品。諸事情でクレジットからは外されていますが、PWLのピート・ウォーターマンが絡んでいるというのも、ある意味では納得できるところです。80'sポップスの定番的1枚として外せない作品ですね。  当時セールス的には全く伸びませんでしたが、中身の完成度はファーストに勝るとも劣らないクオリティのセカンド・アルバム。コニー・フランシスやシャングリラス、キム・ウェストンなどの60'sカバー曲は勿論のこと、マッドネスのカバー#7やカースティ・マッコールが全面サポートしたオリジナル曲#4、#1などなど、全てがポップでキャッチーでキュート。また、ボーナス・トラックにはレーベルへの置き土産的な感じでリリースされたベスト盤“Forever”に収録されていたナンバーも付け加えられているんでけれど、そちらもなかなかの名曲揃い。今も変わらず大好きな1枚です。  コンプリート・レコーディングスというお題目には実際のところ偽りあるものの、とりあえずトレイシーの主だった楽曲は一通り揃っている2枚組コンピレーション。なおかつ過去にリリースされたオリジナル・アルバムCDよりも明らかに音質が良いので、既にどちらも持っているよ、という人でも買っておいて損はないと思います。このディスク1はファースト・アルバム全曲にボーナス・トラックを加えた構成。なぜに“Bobby's Girl”や“Breakaway
”の12インチ・リミックスが外されてしまったのか、なぜ“They Don
't Know”のエクステンデッドが入っていないのかは謎ですけれど。
 こちらはセカンド・アルバムにボーナス・トラックを加えたディスク2。なぜか“My Guy”だけがディスク1へ移動しているんですけれどね。ん〜、謎だ(笑)。“Helpless”の12インチ・バージョンの初CD化や、未発表のままお蔵入りしていた“Little Red Riding Hood”の収録はファンとして嬉しいものの、どうもやはりディスク1を含めて全体的に納得のいかない構成ではあります。“Sunglasses”にしたって、プロモ盤用のリミックスも入れて欲しかったと思うし。コンプリート・レコーディングスと呼ぶには不完全過ぎる内容ですよね。というのはマニアの贅沢ってもんでしょうか(笑)

 

LIVE&EXPOSED.JPG

Tracey Ullman Live & Exposed (2005)

(P)2005 HBO Video (USA)
画質★★★★★ 音質★★★★☆
DVD仕様(北米盤)
カラー/スタンダードサイズ/ステレオ/音声:英語/字幕:なし/地域コード:
ALL/75分/製作:アメリカ

特典映像
なし
 トレイシー本人が自らの半生をコントや歌、ダンスを交えながら演じていくという舞台のワン・ウーマン・ショーを記録したテレビ特番です。これが最高に面白い。彼女ならではの自虐ネタや差別ネタなどのギャグが満載。しかも、“They Don't Kn
ow”や“Breakaway”などのヒット曲も生で歌ってくれるし、いまだに全く衰えていない見事なダンスも披露してくれています。ファンならずとも必見だと思いますよ。

 

戻る