人種差別を考える隠れた名作たち

 

 昨年のアカデミー賞で作品賞以下3部門を受賞して話題になった「クラッシュ」(2004)は、裕福な黒人夫婦と貧しい白人警官の対比を軸に、華やかな生活を送る白人の地方検事夫婦、閑静な住宅街に我が家を手に入れたヒスパニックの鍵職人、アラブ人と間違われて敵意に晒されるペルシャ人の雑貨店主、ストリートで犯罪に手を染める黒人青年など、様々な社会的地位の様々な人種が入り乱れるアメリカ社会の“今”を象徴する作品だった。ポール・ハギス監督の演出はどことなく寓話的なムードを醸しだしており、それがご都合主義的に感じられなくもなかったものの、常に人種問題を意識せざるを得ないような状況で生きているアメリカ人の日常が上手く切り取られていたように思う。
 そもそも、ハリウッド映画はその草創期から人種問題・差別問題と無縁ではなかった。それは、大量のネイティブ・アメリカンの犠牲のもとに建国され、アフリカから大量に連れて来られた黒人の奴隷や、“自由の国”の名のもとにアジアや南米から迎え入れた少数民族の労働力によって支えられてきたアメリカという国の宿命だろう。「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2001)を見ても分かるように、白人の間でさえ移民同士の血で血を洗うような激しい対立が繰り広げられてきた。
 ハリウッドにおいて人種差別問題を浮き彫りにした最初期の作品と言えば、巨匠デヴィッド・ワーク・グリフィスの「國民の創生」('14)が挙げられるだろう。南北戦争前後の時代を背景に、南部と北部の敵対する二つの家族の物語を歴史的事実を交えながら描く壮大な映像叙事詩であり、様々な演出テクニックも含めて映画が芸術であることを立証した最初の作品として映画史に燦然と輝く傑作だ。しかし、その一方で黒人を愚かで野蛮な人々として描いており、南部におけるK・K・K(
クー・クーラックス・クラン)の活動を肯定しているのが今見ると衝撃的でもある。グリフィスの作品では善良な黒人が登場する場合もあり、必ずしも彼自身が人種差別主義者であったわけではない。それが当時としては一般的な価値観だった、と考えるべきであろう。
 映画草創期のサイレント時代には、実は白人が黒塗りして黒人役を演じるという事も一般的だった。黒人を主人公とした小説として有名な「アンクル・トムの小屋」もサイレント時代に幾度も映画化されているが、アンクル・トム役を演じていたのは全て白人俳優だった。その一方で、黒人による黒人コミュニティーのための映画も作られるようになり、1914年には“Darktown Jubilee”という初のオール黒人キャストによる映画が公開されている。その後も、こうした黒人映画は数多く作られているが、いずれも広く一般に公開されたわけではない。1929年にはMGMがメジャー・スタジオとしては初の黒人映画「ハレルヤ」を製作しており、その後も黒人マーケットでの需要を見込んだ黒人映画が何本も作られている。しかし、こうした作品が作られるという自体が、逆に言うと黒人と白人を対等に描くことがタブーである事の証でもあり、非常に不自然なことでもあった。
 1940年代頃までのハリウッド映画における黒人といえば、良くて温厚なメイドや賢い執事。大抵は、教養がなくて愚かな使用人やギャングのチンピラ、洗濯女辺りが関の山だった。「カサブランカ」('42)に登場するリック(ハンフリー・ボガート)の親友であるピアニスト、サム(ドゥーリー・ウィルソン)などは例外中の例外だったと言える。
 そうしたハリウッドにおける黒人のイメージを一新したのが、「手錠のままの脱獄」('58)で注目されたシドニー・ポワチエだった。黒人として史上初のアカデミー主演男優賞を受賞した「野のユリ」('63)では尼僧たちと心を通わせる黒人青年を、「夜の大捜査線」('67)では白人警察官と対立する切れ者の刑事を、「いつも心に太陽を」('67)では不良少年たちの心を掴む教師を演じてハリウッドのトップ・スターとなったポワチエだったが、あくまでも彼が演じたのは品行方正な優等生的黒人像。明らかに白人に受け入れられるように創り上げられた、理想的な黒人像であったと言える。
 公民権運動が盛り上がりを見せた60年代後半という時代を背景に登場した「招かれざる客」''67)は、結婚を誓い合った黒人青年(シドニー・ポワチエ)と白人女性(キャサリーン・ホートン)と、その事実にショックを受け戸惑う白人女性の両親(スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘプバーン)を描く作品で、公開当時はセンセーショナルな題材だったようだが、全てが理想的に収まってしまうクライマックスはご都合主義的でもあった。それだけ、差別問題は触れてはならないタブーだったのだろう。
 そういった意味では、その差別の根源である奴隷問題にまで遡り、アフリカ系アメリカ人の歴史を正面切って描いたテレビのミニ・シリーズ「ルーツ」('77)は画期的な出来事だったと言えるだろう。また、70年代には「黒いジャガー」('72)や「コフィー」('73)といった黒人アクション映画、通称ブラクスプロイテーションと呼ばれる映画がブームとなり、フレッド・ウィリアムソンやジム・ケリー、パム・グリアー、タマラ・ドブソンといったスターが生まれたが、当時としてはキワモノ的な扱いであったこともまた否定できない事実だった。
 「ビバリーヒルズ・コップ」('84)でエディー・マーフィが大ブレイクを果たした辺りを境に、黒人が白人と同等に活躍するエンターテインメント映画が次々と登場し、シドニー・ポワチエ以来二人目のオスカー受賞者となったデンゼル・ワシントンやウィル・スミス、フォレスト・ウィッテカー、ジェイミー・フォックス、ドン・チードルといった男優や黒人として史上初のアカデミー主演女優賞受賞者となったハル・ベリー、クィーン・ラティーファといった女優がメジャー・スターとして活躍するようになった。
 また、映画作家でもブラック・ムービーの先駆者であるメルヴィン・ヴァン・ピープルズが再評価されるようになったり、その息子であるメルヴィン・ヴァン・ピープルズやスパイク・リー、ジョン・シングルトンといった監督が、人種差別も含んだアメリカにおける黒人の直面する問題を様々な角度から描くようになった。
 今や、黒人はすっかりハリウッドでもその地位を確固たるものにしているように見えるが、その一方で人権団体のクレームを避けるために白人の主人公の親友や相棒役で意図的に黒人を起用するという不自然なキャスティングが行われているのもまた事実。それは映画だけにとどまらず、テレビのコマーシャルや街中の広告でも同じだ。そうした配慮が必要とされている限りは、まだまだ差別問題が根本的に解決されたとは言えないだろう。

 アジア系アメリカ人に目を向けてみると、さらにその差別・偏見は著しい。サイレント映画の時代から、ハリウッド映画に登場するアジア人といえば怪しげな中国人や気味の悪い日本人というのが関の山で、もっぱら悪役ばかりあてがわれていた。唯一の例外と言えるのが早川雪洲で、出世作「チート」('15)こそサディスティックな日本人の夫という役柄だったが、アメリカではロマンティックな2枚目俳優として白人のスターと肩を並べる程の人気を得ていた。目鼻立ちの整った品のある顔立ちと美しい白い肌は、白人の女性ファンにも大いにアピールするものがあったのだろう。また、ロン・チェイニーが船で遭難して小さな港町に流れ着く中国人役を演じた「影に怯へて」('22)が、偽善的な町の人々の差別に晒される中国人を同情的に描いているという点で異色だったものの、それにしても珍獣のような中国人の描き方は白人の思い描く奇妙なアジア人というイメージの延長線上にあるものだった。
 また、30年代に入るとワーナー・オーランドが変な英語を喋る中国人探偵を演じた“チャーリー・チャン”シリーズ、ボリス・カーロフがやはり謎めいた中国人探偵を演じた“ミスター・ウォン”シリーズ、さらにはピーター・ローレがチビでメガネをかけた日本人探偵を演じた“ミスター・モト”シリーズといったアジア人探偵ものが人気を集めるが、これにしたって要は“頭脳明晰な珍獣”扱い。よっぽど、当時の一般的アメリカ人にとってアジア人というのは摩訶不思議な存在だったのかもしれない。ベティ・デイヴィス主演の「月光の女」('40)でゲイル・ソンダーガードが演じたハモンド夫人役などはその典型的な例だろう。デイヴィス扮するヒロインが横恋慕した挙句に殺してしまった白人男性の中国人妻なのだが、特殊メイクで創り上げられたツリ目の無表情な顔といい、楊貴妃か西大后かと言わんばかりの豪奢ないでたちといい、その存在感はほとんど妖怪。ここまで来ると、とんでもない妄想としか言いようがない。
 戦後は日本との関係の変化から「サヨナラ」('57)や「戦場にかける橋」('57)といった作品で比較的等身大の日本人像が描かれるようになり、60年代に入ると世界的な黒澤映画人気に伴って三船敏郎が国際スターとして活躍するなど、異国としての日本は概ね好意的に描かれるようになった(正しく理解されているとは言い難いものの)。また、日系人俳優のマコ岩松が「砲艦サンパブロ」('66)でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、ジェームズ・ホンやヴィクター・ウォン、ジェームズ繁田、フランス・ニュイエン、ナンシー・クワンといったアジア系俳優が重要な脇役として活躍するようになった。さらに、「燃えよドラゴン」('74)でブルース・リーが世界的な大ブームを巻き起こしたものの、その矢先に不慮の死を遂げてしまった。
 90年代以降はジョン・ウー監督やジャッキー・チェンの全米進出を機に、チョウ・ユンファやジェット・リー、チャン・ツィイー、コン・リー、バイ・リンといった香港・中国のスターや渡辺謙、役所広司といった日本人俳優、中田秀夫や清水崇、リンゴ・ラムのような監督が第一線で活躍するようになり、ハリウッド映画におけるアジア人スターや監督の活躍も珍しくはなくなってきた。しかし重要な点は、彼らがあくまでも国外から輸入された才能であるということだ。それぞれ母国で築き上げた地位があってのハリウッド進出であるということを忘れてはならない。
 そう考えると、依然としてアジア系アメリカ人の活躍する場は非常に限られている。俳優にしたってケリー・ヒロユキ・タガワやミンナ・ウェン、ロザリンド・チャオ、バイロン・マン、マイケル・ウォン、ラッセル・ウォンなど低予算映画で活躍しているアジア系スターはいるものの、メジャーで名が通るのはルーシー・リューくらいのものだろう。まだまだハリウッドにおけるアジア人の地位というのは低いと言わざるを得ない。
 また、80年代以降アメリカで台頭しているラテン・ヒスパニック系にしても、ベニシオ・デル・トロやジェニファー・ロペス、サルマ・ハエックなどの活躍が目立つものの、依然としてチンピラや娼婦役をあてがわれる俳優が多い事も事実。サイレント期に活躍した伝説的な2枚目スター、ルドルフ・ヴァレンチノを筆頭に、ラモン・ノヴァロ、リカルド・モンタルバン、フェルナンド・ラマスなど、ハリウッド映画に登場するラテン系男優は女たらしのプレイボーイというのがお決まりだった。同じように、女優にしてもルーペ・ヴェレスやドロレス・デル・リオのような妖艶なヴァンプというのが定番で、リタ・ヘイワースなどはそのような偏ったイメージを避けるためにリタ・キャンシーノという本名をWASP的なヘイワースという名前に変えてしまったほどだった。ジョン・フォード映画の常連だった名優ペドロ・アルメンダリスや「真昼の決闘」で有名な女優カティ・フラドなどは、そうした誤ったイメージや先入観を正すことに大いに貢献したし、アンソニー・クインという稀代の大スターも登場したものの、根本的な部分でラテン・ヒスパニック系のセクシャルでダーティなイメージは払拭されきってはいない。

 そうした、ハリウッドにおけるマイノリティーの歴史を踏まえた上で、日本ではあまり知られていない隠れた名作を4本紹介してみたいと思う。

 

「ハレルヤ」(1929)

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南部のコットン畑の情景

貧しくも幸福な黒人大家族

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誘惑される純朴な青年ジーク(右)

大迫力で演奏されるゴスペル

 「群集」('28)や「チャンプ」('31)、「ステラ・ダラス」('37)、オードリーの「戦争と平和」('56)といった名作を数多く手掛けた巨匠キング・ヴィダーによるオール黒人キャスト作品。メジャー映画として史上初の黒人映画であり、トーキー初期の20年代という時代にこのような作品が生まれたこと自体が奇跡だったと言えるだろう。
 主人公はコットン畑で働く素朴な青年ジーク(ダニエル・L・ヘイズ)。一家総出で苦労して収穫したコットンを金に替えるために弟スパンクと共に町を訪れた彼は、セクシーで自由奔放なダンサー、チック(ニーナ・メイ・マッキニー)とヒモのホット・ショット(ウィリアム・ファウンテン)の仕組んだ罠にハマって、せっかく稼いだ100ドル全てをギャンブルでスッてしまう。ホット・ショットの仲間たちに暴行を加えられ、命からがら逃げ出したジークとスパンクだったが、その怪我がもとでスパンクは死んでしまう。
 己の愚かさと弟の死に打ちのめされたジークは、神に救いを求めて牧師となる。家族や村の人々と共に神の教えを説きに町を訪れるジークだったが、そんな彼らをチックや町の連中はあざ笑うばかりだった。しかし、彼の情熱は次々と人々の心を動かし、チックさえも魂の救済を求めて彼のもとを訪れる。だが、その一方で性的にだらしないチックは、親身になるジークを肉体で誘惑しようとする・・・。
 南部の片田舎を舞台に、無学で世事に疎い一人の黒人青年と、信仰心だけを支えにして貧困に耐え忍ぶ村人たちの試練が描かれていく。貧しいのは町の人々も同じであり、彼らが夜な夜な放蕩三昧に耽る酒場とて、さながら掃き溜めのような光景だ。人種差別を糾弾するような描写は一切ないにせよ、彼らの置かれた状況やジークが直面する悲劇の根源にあるのは、やはり社会的な差別に他ならない。教養がないがために汗水たらして働いても貧しさから抜け出せない現実に不平不満を言わず、真面目に生きていれば天国へ行けるという事だけを励みに日々を乗り越えていく村の人々。そして、やはり教養がないために手っ取り早く金を稼ごうとして犯罪に手を染める町のチンピラたち。牧歌的な古きよき時代の南部の風景とは裏腹に、当時の黒人社会の厳しい現実が赤裸々に描かれていく。キング・ヴィダー監督のフィルモグラフィーの中でも異色中の異色作と言えるだろう。
 出演の黒人俳優は殆どが無名だが、一人だけ注目すべきスターがいる。魔性の女チックを演じるニーナ・メイ・マッキニーだ。“黒いガルボ”と呼ばれた彼女は、生まれる時代が早すぎた逸材だった。端正な顔立ちと浅黒い肌を持った彼女は、当時のハリウッド女優にも引けをとらない美貌と歌唱力、演技力、ダンスの才能に恵まれていたにもかかわらず、“黒人”というだけでハリウッドでは大きなチャンスに恵まれなかったエンターテイナーだった。当時のハリウッドでは黒人の女優に与えられるのはメイド役くらいのもの。黒人のセックス・シンボルなどあり得ない存在だった。それゆえに、彼女の活躍の場所は独立系の黒人映画や、ハーレムのアポロ劇場といったブラック・コミュニティーに限定されてしまい、広く一般に知られることはなかったのだ。彼女のようなスターが白人社会にも受け入れられるようになるのは40年代以降、リナ・ホーンやアーサ・キット、ドロシー・ダンドリッジの時代まで待たねばならなかった。
 また、本作を支える大きな魅力の一つが、神に救いを求める村人たちによって奏でられるゴスペルの数々だろう。この世の生き地獄からの救済を願う彼らの歌声は異常なほどの凄まじいパワーと悲壮感に満ちており、恐ろしいくらいに生々しい。昨今の黒人音楽ブームで日本でもゴスペルを歌う人が増えたが、これを見ると豊かな社会でぬくぬくと生きてきた我々現代の日本人が軽々しくゴスペルを演奏する事に大きな疑問すら感じさせられる。そういった意味で、音楽ファンにも是非見てもらいたい隠れた傑作である。

 

「キャビン・イン・ザ・スカイ」(1943)

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陽気で明るいエセル・ウォーターズ

愚かなダンナと悪魔軍団

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妖艶な悪女リナ・ホーン

特別出演のデューク・エリントン

 「巴里のアメリカ人」('51)や「バンド・ワゴン」('53)、「恋の手ほどき」('58)で有名なミュージカル映画の巨匠ヴィンセント・ミネリ監督がオール黒人キャストで描いたミュージカル作品。もともとブロードウェイのヒット・ミュージカルであり、ブロードウェイの舞台監督だったミネリにとって映画監督デビュー作に当たる。
 主人公のリトル・ジョー(エディ・ロチェスター・アンダーソン)は、まともな職にも就かずギャンブル三昧の日々を送るダメ亭主。純朴で信心深い妻のペトゥリア(エセル・ウォーターズ)の説得で一度は更生することを誓ったリトル・ジョーだったが、まんまと誘惑に負けてしまう。すっからかんになって金が払えなくなったリトル・ジョーは、酒場へと探しに来たペトゥリアの目の前で撃たれてしまう。生死の境をさまようリトル・ジョーの枕元に現れる悪魔(レックス・イングラム)は、彼を地獄へ連れ去ろうとする。しかし、ペトゥリアの熱心な祈りの声が神の耳に届き、リトル・ジョーは一命を取り留めた。腹の虫が収まらない悪魔は、妖艶で計算高い悪女ジョージア・ブラウン(リナ・ホーン)を使ってリトル・ジョーを堕落させようと画策するのだが・・・。
 基本的には愉快で楽しいミュージカル映画なのだが、それにしてもここに登場する黒人男性は揃いも揃って怠け者で愚鈍で誘惑に弱い。女性にしたって損得勘定でしか動かない悪女タイプか、陽気で信心深いのが取り得の肝っ玉母さんタイプのどちらかだ。確かに出演しているのは全て黒人の俳優なのかもしれないが、そこに描かれる世界は白人の先入観に影響されたステレオタイプに終始している。ミュージカル映画としての完成度は非常に高いものの、そうした違和感というのも否応なく感じざるを得ない。そうした部分も含めて、奇想天外で楽しいストーリーや素晴らしい音楽を楽しみながら、いろいろと考えさせられる作品だと言えるだろう。
 ペトゥリア役を演じるのは黒人女性ジャズ・シンガーの草分け的存在エセル・ウォーターズ。個人的にも大好きな歌手だが、彼女が歌う“Taking A Chance On Love”は本当に素晴らしい傑作。ソフトで温かみのある歌声と、ひまわりのように陽気で明るい笑顔はとても魅力的だ。生い立ちは非常に複雑で暗い人だったようだが、そうしたバックグランドを微塵も感じさせない明るさと人柄で、黒人として初めて白人社会にも受け入れられた歌手だった。
 そのライバルである悪女ジョージア・ブラウンを演じるのが日本でも人気の高い美貌のブルース歌手リナ・ホーン。彼女の場合も、悪女役とはいえどこかコケティッシュで可愛らしい魅力があり、決してヴァンプ的なタイプではない。歌手としてのイメージも、あくまでも品のある優等生タイプだった。そうでなければ、当時のアメリカでは受け入れられなかったであろう。ジーン・ハーロウやメエ・ウェストのような危険なセックス・シンボルは白人女優のみの専売特許であり、それ故に50年代に入って登場したアーサ・キットがセンセーショナルだったのである。
 その他、ルイ・アームストロングやキャブ・キャロウェイ、デューク・エリントンらがゲスト出演しており、音楽ファンも必見の作品である。

 

“Pinky”(1949)

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ピンキー役のジーン・クレイン

祖母を演じるエセル・ウォーターズ

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気難しい老女役のエセル・バリモア

心優しい恋人ウィリアム・ランディガン

 日本未公開作品ながら、「欲望という名の電車」('51)や「エデンの東」('54)で有名な巨匠エリア・カザン監督の出世作であり、恐らくハリウッド映画史上初めて人種差別問題に真っ向から取り組んだ傑作。今見ても十分過ぎるくらいに衝撃的かつ感動的だ。
 ヒロインの名前はピンキー(ジーン・クレイン)。北部の看護学校を卒業した彼女は、数年ぶりに生まれ故郷の南部の町に戻ってくる。そこは黒人ばかりの住む界隈。そう、彼女は一見すると白人にしか見えないが、実は黒人の娘だったのだ。故郷では彼女を送り出した祖母(エセル・ウォーターズ)が一人で暮らしている。北部ではその素性を隠していた彼女は、差別を受けることもなく自由を満喫して暮らしてきた。白人の医師であるフィアンセ(ウィリアム・ラディガン)も出来た。そんな彼女にとって、自分の故郷や祖母の暮らしぶりは恥ずべき汚点であり、久しぶりにそれを目の当たりにした彼女は戸惑いを覚える。孫娘のそうした心理的変化を感じ取った祖母は深く傷つくき、ピンキーも自分の将来を案じて北部に送り出してくれた祖母の深い愛を改めて感じて後悔する。
 祖母は大地主の未亡人であるエム夫人(エセル・バリモア)にメイドとして長年仕えており、ここ数年は病床に伏せている夫人の看護に当たってきた。しかし、自分自身も年老いてしまい、屋敷を行き来するのもままならなかった。そこでピンキーは看護婦としての資格を生かし、エム夫人の世話をするようになる。幼い頃からエム夫人の存在を恐ろしく感じていたピンキーは、気難しい夫人が彼女のことを黒人だからという理由で蔑んでいるのではと強く反発する。しかし、エム夫人は彼女の財産に群がって食いつぶしていった人々の偽善に嫌気がさして心を閉ざしている気丈な女性だった。ピンキーの強さと正直さの中に、若かりし頃の自分の姿を投影したエム夫人は、次第にピンキーと心を通わせていく。そして、夫人が遺産である屋敷をピンキーに残す事を決心したことから、財産を狙う親族だけではなく、白人社会全体の黒人に対する敵意がピンキーに向けられるのだった・・・。
 当初ジョン・フォードが監督する予定だったという本作だが、フォードの日誌を読んで彼には向かないと判断した伝説的プロデューサー、ダリル・F・ザナックはニューヨークの舞台演出家から映画監督に転身したばかりのエリア・カザンに白羽の矢を立てた。その判断は大正解だったと言えるだろう。その徹底したリアリズムと赤裸々なまでのヒューマニズムは、左翼系リベラリストであるカザンの面目躍如とも言うべきもの。中でもショッキングだったのは、オブラートに包み隠されることなく露骨に描写される白人の差別感情の凄まじさだろう。夜道を一人で歩いていたピンキーに、“こんな場所を一人で歩くなんて危険ですよ”と親切に声をかけた白人の若者たちが、彼女が黒人だと知った途端にレイプしようと集団で襲いかかる恐怖。彼女に嫉妬して襲い掛かってきた黒人女性を逮捕した警官でさえ、ピンキーが黒人だという事を知ると嫌悪感を丸出しにしてついでに逮捕してしまう。その一方で、虐げられている黒人社会の中でも肌の色の白い彼女には居場所がない。彼女と一緒に歩いているところを白人に見られるだけで、“白人の娘と並んで歩くなんて生意気なニグロめ”と睨まれてしまうからだ。彼女に課せられる理不尽なまでの苦悩が、当時の人種差別の深刻さを痛いほど感じさせる。
 ピンキー役を演じるのは白人女優ジーン・クレインだが、当初はリナ・ホーンも候補に挙がっていた。黒人としては肌の白いリナ・ホーンは適役だと思われるが、映画会社は白人女優が演じた方が白人の観客層の共感を得られるだろうと判断したという。しかも、これは白人男性とのキス・シーンもある役柄。白人と黒人の男女が手をつなぐ事すらご法度だった当時の社会状況を考えると、その判断は正しかったかもしれない。日本では知名度の低いクレインだが、「ステート・フェア」('45)や「三人の妻への手紙」('49)など品のあるスター女優として当時のアメリカでは人気が高く、本作でも圧倒的な熱演ぶりでアカデミー主演女優賞にノミネートされている。そもそも、これだけリスクの高い役柄を引き受けたという事実だけでも賞賛に値するだろう。
 また、彼女を慈しみ育てた祖母役を演じるエセル・ウォーターズの存在感も素晴らしい。己の分をわきまえた控えめな老女ながら、黒人としての誇りを決して失わない気高い女性像を力強く演じている。エム夫人役のエセル・バリモアも相変わらずの名演を披露。名優一族バリモア家の一員で、ドリュー・バリモアの大叔母に当たる名女優だが、この人が画面に登場するだけで映画全体がギュッと引き締まる。映画出演作は少ないものの、これだけの存在感と説得力を持ち合わせた女優は映画史を振り返ってもそうそうはいないだろう。特に、厳格で気難しいものの洞察力があって人間味に溢れるような役柄を演じさせたら、彼女の右に出る女優はいない。本作では、二人そろってアカデミー助演女優賞にノミネートされているが、当然の選択である。
 さらに、出番は少ないものの、ピンキーのフィアンセである医師トーマス役を演じるウィリアム・ラディガンの存在も忘れてはならない。ピンキーの秘密を知って衝撃を受けるものの、彼女への深い愛から事実を受け入れる正直で心優しい青年。本作では一服の清涼剤的な役柄だ。しかし、そんな当時としてはリベラルな白人である彼も、誰も知らない土地カナダへ行って人生をやり直そうと考える。差別・偏見という社会の大きな壁に立ち向かうだけの勇気はなく、結局は現実逃避の道を選ぼうとするのだ。それだけ、当時の人種差別の壁は厚かったと言えるだろう。

 

“Chasing Secrets”(1998)

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ジョー・アン役のマデリーン・ジーマ

オシー・デイヴィスとデラ・リース

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貧しさから荒廃ていく祖父

傷つけられるのは常に弱者

 人種差別と共にアメリカ社会を蝕む格差差別の問題を取り上げた作品。テレビ・ムービーながら、じわじわと心に染み渡る叙情的で感動的な隠れた名作である。随所に説教じみた描写もあるものの、それをかき消してしまうような力強さがある。ヒロインの直面する残酷な現実のリアリズムと周囲を包み込む大自然の寓話的な美しさのバランスも見事。監督は「殺しのカーテン」('86)や「プロムナイトU」('87)など80年代から90年代にかけてB級映画を数多く手掛けたブルース・ピットマン。
 カリフォルニアの裕福な住宅街。苦労を知らず我がまま放題に育った娘を、母親は南部ミシシッピーへの旅に誘う。懐かしそうに朽ち果てたあばら家を案内する母親は、ここで生まれ育った自分の過去を語り始めた。ジョー・アン(マデリーン・ジーマ)は、母親(クリスタル・バーナード)の私生児として生まれた。一家は非常に貧しく、大黒柱である祖父(ロン・ホワイト)は職にあり付けず自堕落な日々を送っていた。家庭内では祖父の権力は絶大で、その言動はまさに暴君そのもの。特に、どこの馬の骨とも分からない男との間に生まれた孫娘ジョー・アンに対しては愛情のかけらも示さなかった。無気力で夢見がちな母は娘そっちのけで若い男に夢中。唯一の味方である祖母も祖父には逆らえず、幼い弟のボビーでさえ彼女の事を見下していた。そんな彼女はある日、学校の帰り道に年配の黒人男性トゥー・トール(オシー・デイヴィス)と知り合う。“このニガーめ!近づくな!”と罵倒するボビーの傍らで、トゥー・トールの優しい笑顔に惹かれるジョー・アン。トゥー・トールの家では妻のハニー(デラ・リース)が待っていた。
 この日を境に、ジョー・アンは周囲に秘密で黒人老夫婦の家をたびたび訪れるようになる。貧しいながらも、木々や花々に囲まれた家で堅実に幸福に暮らす老夫婦の家は、ジョー・アンにとって唯一の安らぎの場所だった。夫婦は挨拶の仕方さえ知らなかったジョー・アンに社会のルールを教え、その生い立ちから何事にも気後れしがちだった彼女に自信を与えた。かつて幼い子供を失っていた夫婦にとって、ジョー・アンはいつしか実の娘のような存在になっていく。しかし、この幸せな時間もいつまでも続くはずはなかった。
 14歳になったジョー・アンは学校での成績もトップで、さすがの母親も成績表を見て大喜びする。しかし、その様子を見ていた祖父は“頭が良くても金が稼げにゃ役に立たん”と吐き捨てるように言う。そしてある日、祖父はジョー・アンとボビーを初めて“仕事”に連れ出す。兵士たちが集う町はずれの酒場で、派手な服装に身を包んだ母親が男を誘惑し、外に連れ出したところを祖父とボビーの二人が殴る蹴るの暴行を加え、財布を奪って逃げるという“仕事”だ。祖父は、ジョー・アンにも母親と一緒になって男を誘わせようとする。断固拒絶するジョー・アンに殴りかかる祖父。顔がはれ上がるほど殴られたジョー・アンは、ハニーのもとへ命からがら逃げる。ジョー・アンを胸に抱きかかえながら怒りに震えるハニー。しかし、彼女には何をすることも出来ない。たとえ人でなしであろうと相手が白人である以上、黒人であるハニーやトゥー・トールにはジョー・アンを救う力はなかった。それどころか、下手をすれば平和に暮らしている黒人のコミュニティーを白人が襲いかねない危険すらある。感情を押し殺しながらも、ジョー・アンが受けた仕打ちを非難しつつ祖父らのもとに彼女を返すハニー。
 しかし、事態はある日急展開する。いつものように仕事に出た祖父と母親だったが、逆に祖父が兵士たちに取り囲まれてしまう。命からがら逃げ出した二人は警察に通報される前に高飛びをする。“ニューヨークで金持ちと結婚して幸せになるわ”と言い残して去ってしまう母親。残されたジョー・アン、ボビー、祖母は途方にくれる。優しかったはずの祖母も豹変し、“仕事をして来なさい!”とジョー・アンに強要する。泣いて拒絶する彼女だったが、祖母は“明日を夢見るのもいいけど、今日の食いっぷちがなけりゃ明日だってないのよ”と冷酷に言い放つ。ジョー・アンは彼女の人生を左右する大きな選択を迫られていた・・・。
 差別が差別を呼ぶ皮肉。無教養と貧しさが招く心の荒廃。学校で“ホワイト・トラッシュ”呼ばわりされて虐められるボビーがトゥー・トールを“ニガー”と蔑み、まともな教養のない祖父は“勉強なんて何の役にも立たない”と決め付けて犯罪に手を染める。そんな祖父も、かつては働き者だった。しかし、脚を怪我して以来人格が変ってしまったのだった。一方のトゥー・トールとハニーの夫婦は、長年差別され続けた黒人という立場から教育の重要性や己の立場を十分過ぎるほど理解している。それゆえに、ジョー・アンに自分たちが得ることの出来なかった教育を望み、彼女を励まし、陰ながら支え続けるのだ。
 ハニーを演じるのはゴスペル歌手としても有名な大御所デラ・リース。その夫であるトゥー・トールを演じるのが黒人映画監督の先駆け的存在でもあるオシー・デイヴィス。スパイク・リーなど数多くの黒人映画人に尊敬されている人物で、リー作品の常連俳優でもある。

 

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ハレルヤ
Hallelujah (1929)

キャビン・イン・ザ・スカイ
Cabin In The Sky (1943)

Pinky (1949)

Chasing Secrets (1998)

(P)2006 Warner Bros. (USA) (P)2006 Warner Bors. (USA) (P)2005 20th Century Fox (USA) (P)2006 Direct Source (USA)
画質★★★☆☆ 音質★★☆☆☆ 画質★★★★☆ 音質★★★☆☆ 画質★★★★☆ 音質★★★☆☆ 画質★★★★☆ 音質★★★★☆
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:英語/字幕:英語・フランス語・スペイン語/地域コード:ALL/100分(本編)/製作:アメリカ

映像特典
専門家による音声解説
関連ミュージカル短編映画(2本)
劇場予告編
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:英語/字幕:英語・フランス語・スペイン語/地域コード:ALL/98分(本編)/製作:アメリカ

映像特典
専門家、リナ・ホーンによる音声解説
短編映画(1本)
劇場予告編
ルイ・アームストロング演奏別テイク
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:英語/字幕:英語・スペイン語/地域コード:1/101分(本編)/製作:アメリカ

映像特典
映画史研究家コメンタリー
劇場予告編
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:英語・スペイン語・フランス語/字幕:なし/地域コード:1/98分(本編)/製作:アメリカ

映像特典
監督:キング・ヴィダー
製作:キング・ヴィダー
原案:キング・ヴィダー
脚本:ワンダ・トゥチョック
撮影:ゴードン・アヴィル
出演:ダニエル・L・ヘイズ
    ニーナ・メイ・マッキニー
    ウィリアム・ファンテイン
    ハリー・グレイ
    ファニー・ベル・デナイト
監督:ヴィンセント・ミネリ
製作:アーサー・フリード
脚本:ジョセフ・シュランク
原作戯曲:リン・ルート
撮影:シドニー・ワグナー
音楽:ヴァーノン・デューク
出演:エセル・ウォーターズ
    エディ・ロチェスター・アンダーソン
    レナ・ホーン
    ルイ・アームストロング
    レックス・イングラム
    デューク・エリントン
    キャブ・キャロウェイ
監督:エリア・カザン
製作:ダリル・F・ザナック
原作:シド・リケッツ・サムナー
脚本:フィリップ・ダン
    ダドリー・ニコルス
撮影:ジョセフ・マクドナルド
音楽:アルフレッド・ニューマン
出演:ジーン・クレイン
    エセル・バリモア
    エセル・ウォーターズ
    ウィリアム・ランディガン
    ベイジル・リュイスデル
    ニーナ・メイ・マッキニー
監督:ブルース・ピットマン
製作:フィリップ・クレインバート
原作:ローズ・マリー・エヴァンス
脚本:ビル・C・デイヴィス
    クィントン・ピープルス
撮影:マンフレッド・ガテ
音楽:スティーヴ・エドワーズ
出演:デラ・リース
    クリスタル・バーナード
    マデリーン・ジーマ
    オシー・デイヴィス
    ロン・ホワイト
    ヨランダ・キング
 日本語字幕入りの日本盤も存在します。マスター・フィルムの保存状態が決して良くないため、随所に傷が目立つのが残念ですが、製作年代を考えると仕方がないかもしれません。ワーナーとしてもマイナー・タイトルだし。Kino VideoかCriterion辺りのメーカーだったら、もっとお金をかけて修復したかもしれませんね。いずれにせよ、映画ファンなら絶対に必見です。  こちらも日本盤が発売済みです。映像特典の短編“Studio Visit”は撮影スタジオの裏側を追ったセミ・ドキュメンタリー的な内容で、本編では削除されてしまったリナ・ホーンがバスタブで歌う貴重なシーンが収録されてします。まだテレビの存在しない時代、こうした短編が今でいうバラエティ番組と同じような感覚で、映画本編の始まる前の余興として上映されていたわけです。  日本盤未発売。是非とも日本でも発売してほしい、いや発売すべき傑作です。画質的には随所にフィルムの傷が散見されるものの、テレシネの状態は良好。白黒のコントラストが非常にはっきりとしているので、多少の傷やノイズは気になりません。ただ、フォックスのクラシック・コレクション・シリーズはワーナーやソニーなどと比べると特典が少ないのが残念。  かつては画質の悪い低予算映画のビデオ・DVDばかり出していた廉価版専門メーカーDirect Sourceですが、昨年くらいから80年代〜90年代の質の高いテレビ・ムービーを続々とDVD化しており、どれもそこそこの画質と音質。日本では未放送のものやビデオソフト化されていないものも多いので重宝しています。このDVDもまさにそんな1本。

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