差別と闘ったスターたち〜アンナ・メイ・ウォンとジョセフィン・ベイカー

 デンゼル・ワシントンやハル・ベリーといった黒人スターがオスカーを受賞し、ジェニファー・ロペスやサルマ・ハエックといったヒスパニック系のスターがメジャー大作で主役を張り、ルーシー・リューやデヴォン青木のようなアジア系スターが台頭する現在のハリウッドはまさに人種の坩堝であり、その内情は別として人種の垣根はすっかり取り払われたといっていいだろう。しかし、よく考えれば1980年代まで黒人でハリウッド大作の主演クラスを張れるスターはごく僅かで、ヒスパニック系の俳優といえばジゴロ役か売春婦役しかあてがわれず、アジア系のスターなど皆無に等しかった。ほんの20年くらい前までは、ハリウッドには明らかに人種の厚い壁が存在していたのだ。

 そんなショー・ビジネス界で、戦前のサイレントからトーキー初期にかけて活躍した二人の有色人種系女性スターがいた。一人はアンナ・メイ・ウォン。中国系アメリカ人である彼女は、白人である事がスターの絶対条件であった戦前のハリウッドで唯一の非白人スター女優だった(男優では日本人の早川雪洲がいたが)。そして、もう一人はジョセフィン・ベイカー。アフリカ系アメリカ人として生まれた彼女は、肌の色が黒いがために母国のショー・ビジネス界から拒絶されながら、歌手・ダンサー・映画女優としてヨーロッパで絶大な支持を得た。
 一見して全く異なるタイプのキャリアを歩んだように思える二人だが、共に生涯を通じて人種差別との闘いを余儀なくされたという点で非常に共通項の多いスターだ。中国人であることよりも一人の現代女性として生きようとしたために、白人社会からも中国人社会からも十分に理解される事のなかったアンナ・メイ・ウォンと、ヨーロッパで大成功しながら母国アメリカでは無視され続けたジョセフィン・ベイカーには共通の哀しみと苦しみがあったと言えるだろう。

 アンナ・メイ・ウォンは1905年1月3日、中国系アメリカ人の3世としてロサンゼルスのチャイナタウンに生まれた。父親はチャイナタウンで洗濯屋を経営していた。19世紀、大量にアメリカに流入した中国系移民たちは安い賃金でも勤勉に働くということで重宝されたものの、一方でそれが白人労働者の仕事を奪ったとして猛烈な差別を受けることとなった。そうした状況から、中国系移民たちは自分たちのコミュニティーを形成し、それが各地にチャイナタウンを生むことになった。そこはアメリカ合衆国の中に生まれた中国社会であり、人々は古くからの中国の伝統文化を守って生きていた。
 一家はアンナ・メイが5歳の時にチャイナタウンの外に移り、彼女は妹と共に普通の公立学校に入学する。しかし、白人のクラスメートから針で刺されるなどの虐めや嫌がらせを受けたため、チャイナタウンにある中国系のミッション・スクールに転入する。そこで中国語や中国の伝統文化を学んだものの、日進月歩の発展を遂げる近代アメリカに生まれ育った彼女は、一人の現代人としてアメリカ社会に羽ばたく事を強く意識するようになる。特に彼女に影響を与えたのが、当時草創期にあった映画だった。大好きな映画を通じて現代アメリカ文化を吸収していったアンナ・メイは、コスモポリタン的感性を備えていく。
 すっかり映画に夢中になったアンナ・メイは、ただ見るだけでは飽き足らず、チャイナタウン周辺でロケ撮影される映画の現場に出入りするようになり、次第に現場のスタッフの間で“好奇心の旺盛な中国人の少女”として有名になる。現場スタッフと親しくなった彼女は、エキストラとして映画に出演するようになり、プロデューサーや監督に頼んで小さな役も貰うようになった。当初は映画の仕事に反対していた父親も、必ず彼女の傍に大人が付いて守ってくれるということを条件に許してくれた。中国では伝統的に女優という職業は売春婦と同等と見られており、当時の中国人コミュニティーでもそうした価値観は根強かった。そうした中で、渋々ながらも娘の映画界への夢を認めた彼女の父親は、やはり当時の中国系アメリカ人としては進歩的な考えの持ち主だったと考えていいだろう。アンナ・メイのコスモポリタン的気質は、そうした父親の影響も少なからずあるのではないかと思う。

 そして、遂にアンナ・メイに大きなチャンスが廻ってくる。オペラ“蝶々夫人”の舞台を中国に置き換えて映画化した「恋の唾蓮」(22)への出演だ。当時17歳だった彼女は、白人の男性と恋に落ちるヒロイン役を演じた。しかし、当時アメリカでは異人種間の“不道徳な関係”は法律で禁じられており、キスを連想させるようなシーンすら無かった。主人公たちの関係は、文字通り“禁断の愛”だったのである。そうした理由から、彼女は後に幾度となく悔しい思いをすることになる。例えば、中国の農民を描いた大作「大地」('37)では主人公の妻役のオーディションを受けたものの、“中国人である”という理由から役を白人女優ルイーズ・ライナーに奪われる。何故なら、主演が当時のトップ・スターで白人のポール・ムニだったから。白人と中国人が夫婦の役を演じると言うのは、当時はあってはならない事だったのだ。そして、白人の男優と女優が特殊メイクで中国人の農民夫婦を演じるという、今から見れば何とも奇妙な文芸大作が出来上がってしまう。しかも、ルイーズ・ライナーはこの作品でアカデミー賞の主演女優賞まで受賞してしまった。
 また、アンナ・メイの美貌も諸刃の剣だった。大きな瞳の聡明そうで華やかな美人だったアンナ・メイの容姿は、当時の白人の考える中国人女性像とかけ離れていた。中国人にしては美しすぎる、という偏見に満ちたおかしな理由で、多くの大役をつり目で無表情のステレオタイプな中国人メイクを施した白人女優に奪われてしまった。彼女の女優としてのキャリアは、こうした偏見との闘いに明け暮れていたのだ。

 さて、「恋の唾蓮」でヒロインを演じたアンナ・メイは、この作品を見た当時のハリウッドの帝王ダグラス・フェアバンクスによって、彼の主演する超大作「バクダッドの盗賊」(’24)に起用される。モンゴル人の奴隷女という比較的小さな役とはいえ、フェアバクス主演作である。当時のフェアバンクス人気は、今のトム・クルーズやブラッド・ピットのそれとは比べものにならない程のものだった。そもそも、映画スターというものが神にも等しい存在だった時代。その頂点に立つ大スター、ダグラス・フェアバンクスとの共演で、彼女は一気にハリウッド中が注目する存在となる。
 しかし、先述したような中国人、アジア人に対する偏見の根強い時代、アンナ・メイに回ってくる役と言えばエキゾチックな色添えか憎まれ役の悪女といった2番手ばかり。映画ファンの間での高い人気とは裏腹に、満足するような役柄には恵まれなかった。また、彼女を悲しませたのは同胞であるはずの中国人コミュニティーからの冷たい目だった。女優と言う職業そのものが卑しいものと考えられていた上に、中国人のイメージを傷つけるような役を演じたり、中国人女性にはあるまじき現代的な(つまり堕落した)ライフスタイルを送るアンナ・メイを、彼らは“恥知らずな女”としか見なさなかった。人種の垣根を越えて一人の現代人女性として生きたい、という彼女の気持ちはなかなか理解されなかった。

 そうした、映画界での偏見に対する怒りと不満、そして同胞からの無理解への悲しみから逃れるように、1928年アンナ・メイはヨーロッパに活動の拠点を移す。ロンドンの舞台で絶賛された後、ドイツで映画に出演。ヨーロッパの映画ファンは彼女を熱狂的に受け入れた。社交界でも引っ張りだこで、貴族や政治家、財界の大物たちも彼女の美しさと知性を崇拝した。ようやく、そして生まれて初めて、自分自身でいることを受け入れられたアンナ・メイは、クイーンズ・イングリッシュだけでなくドイツ語、フランス語も完璧にマスターし、本格的に世界的な映画スターとして花開くこととなる。
 このヨーロッパ時代に出演したのが、女優アンナ・メイ・ウォンの代表作と言われるイギリス映画「ピカデリィ」(’29)。ドイツで知遇を得た名匠E・A・デュポンの招きで出演したこの作品で、彼女は貧しさから抜け出すために苦闘し、ダンサーとしてスターダムに昇るチャンスを掴んだものの、肥大しすぎた野心のために破滅する中国人女性を演じた。キャスト・クレジットこそ3番目だったが、明らかに彼女のための映画であり、実質的には主演の扱い。これこそ、彼女が演じることを望んでいた等身大の現代女性像であり、女優として演じ甲斐のある人間臭い深みのある役柄だった。
 翌年にはヨーロッパでの大成功を引っさげて凱旋帰国し、今度はブロードウェイの舞台に初主演を果たす。これが批評的にも興行的にも成功を収め、いよいよ満を持してのハリウッド復帰。しかし、ヨーロッパやブロードウェイでの成功もハリウッドでは通用せず、相変わらず紋切り型のエキゾチックな悪女役しか与えられない現実に失望し、再びヨーロッパに。以降、ヨーロッパとブロードウェイを行き来する生活を送り、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督・マレーネ・ディートリヒ主演の黄金コンビによる名作「上海特急」(’32)などの例外を除いて、ハリウッドとは距離を置くようになる。
 その後、ヨーロッパに戦争の影が忍び寄るようになると再びハリウッドに拠点を移すものの、既に彼女の居場所はなく、やむなく独立系の低予算映画に出演するようになる。50年代にはアジア系女優として初めてテレビ・シリーズに主演するものの、やはり時代が早すぎたため短命に終わってしまう。
 また、プライベートも不遇だった。何度か結婚を試みたが、いずれも成就することはなかった。同胞の中国人男性からは“結婚するには向かない女”のレッテルを貼られ、白人男性との恋愛・結婚は時代的に許されなかった。既に女としての盛りも過ぎ、女優生命も絶たれたアンナ・メイは酒とタバコに溺れるようになり、私生活は荒れ果てていった。
 そうした中、かつての映画スターとしての地位をかなぐり捨てて、ラナ・ターナー主演の「黒い肖像」(’60)の中国人メイド役で映画界に復帰。ブロードウェイの話題作ミュージカル“フラワー・ドラム・ソング”への出演も決まった矢先の1961年2月3日、56歳の若さで肝硬変のため死去した。
 アンナ・メイ・ウォンという女優の不幸は、生まれた時代が早すぎた事だった。もし、彼女がもう50年後に生まれていれば、その女優人生も全く違ったものになっていたかもしれない。それでも、ほんのつい最近までアンナ・メイ・ウォンはハリウッド史上最初で唯一のアジア系スター女優だった。確かに、50年代以降ナンシー梅木やナンシー・クワン、フランス・ニュイエン、谷洋子といったアジア人女優が注目を集めたが、いずれもその人気は短命であり、何よりもまず彼女たちは本当の意味での“スター”ではなかった。
 21世紀に入ってようやく、ルーシー・リューやチャン・ツィイー、コン・リーがハリウッドでもトップ・スターとして認知されるようになったが、その100年近くも前に孤高奮闘の果てにハリウッド・スターとしての地位を手に入れた偉大なアジア人女優がいた事を、我々は忘れてはならない。

 一方、アンナ・メイの生まれた翌年、1906年6月3日ミズーリ州はセント・ルイスに一人の黒人の女の子が生まれた。フリーダ・ジョセフィン・マクドナルド、後のジョセフィン・ベイカーである。父親はミュージシャン、母親は洗濯婦だった。父親は彼女がもの心つく前に家を出てしまい、母の再婚相手である義父は無職で、家庭は非常に貧しかった。ジョセフィンは自分の食い扶ちを稼ぐために、幼い頃から裕福な白人家庭の小間使いやレストランのウェイトレスの仕事をこなした。10代半ばで一度結婚したが、すぐに離婚して旅回りの芸人一座に加わる。これが評判になり、ニューヨークのナイトクラブの舞台に立ち、さらにパリのレビュー・ショーに招かれて出演する。彼女のダイナミックでワイルドなダンスは大絶賛を浴び、一夜にしてパリ中が注目するスターとなった。遂には、パリで最高の舞台であるフォリー・ベルジェール劇場の看板スターとして迎えられ、ヨーロッパでもトップ・クラスのエンターテイナーとして社交界の花形となる。27年には映画デビューも果たし、ハリウッド・スターをも凌ぐ人気を得たのだった。ちなみに、21年にアメリカ人のウィリー・ベイカーと結婚したもののすぐに離婚、そのままベイカーの姓を名乗っていた。
 そして1936年、ジョセフィンは母国アメリカで凱旋公演を行う。ヨーロッパを席巻したスーパー・スター。しかも舞台は当時のアメリカのショー・ビジネス界でも最高の人気を誇ったジーグフェルド・フォリーズ。だが、この凱旋公演は全くの大失敗に終わってしまう。黒人が一流の舞台で看板を務めるという事実に対して、当時のアメリカ社会は嫌悪感を露わにした。ニューヨーク・タイムズなどは彼女を“ニグロの田舎女”と呼び、露骨に蔑んでいる。ジョセフィンは失意のうちに、ヨーロッパへと戻る。
 この過酷な経験から、彼女は第2の祖国であるフランスへの愛と忠誠心を強めるようになる。翌37年にはフランスの市民権を獲得。第2次大戦の勃発でも彼女はフランスを離れることなく、対独のレジスタンス活動に協力。戦後、その功績を称えてフランス最高の栄誉であるレジョン・ドヌール勲章も贈られた。
 もちろん、ヨーロッパでも全く人種差別がなかったわけではない。例えば、主演映画「南海の女王」(’27)でも「タムタム姫」(’35)でも、彼女の演じたヒロインは愛すべき野生児であるものの、白人女性と同等の扱いを受けているわけではない。当然、白人男性とのロマンスもどきはあっても、結局白人男性は白人女性のもとに戻っていく。超えてはいけない見えない境界線というのは確実に存在していたのだ。また、必ず彼女の存在を冷笑する傲慢な上流階級夫人などのキャラクターが登場するが、実際にそういう人々もいたであろうことは想像に難くない。しかし、それでもヨーロッパの人々は彼女の天性の才能を正当に評価するだけの公平さを持っていたし、熱烈な崇拝者も数多く存在した事は明らかな事実だ。社交界でも彼女を巡る恋愛沙汰は後を絶たず、あるときは彼女を巡って決闘事件まで起きている。

 そうしたヨーロッパでの活躍の傍らで、ジョセフィンは祖国アメリカにおける人種差別の撲滅にも心を砕いていた。50年代以降たびたび渡米するようになり、メディアを通じて黒人差別の現状を批判、アメリカ社会に対して問題提起を続けた。その活動は公民権運動家たちの心の支えとなり、アメリカの黒人社会でも彼女への尊敬の念は高まっていく。
 人種差別撲滅への彼女の強い情熱を象徴するのが12人の養子たちである。彼女自身が“レインボー家族”と呼んでいた養子たちは、フランス人、韓国人、アラブ人、日本人、フィンランド人、コロンビア人など、様々な人種で構成されていた。人種の垣根を越えて一つの家族として幸せな生活を送ることが出来るということを、彼女は身をもって証明しようとしたのだ。
 一方、プライベートでのジョセフィンは60年代に入ってから経済的なトラブルを抱えるようになり、1968年以降は半ば引退状態に陥ってしまう。そんな彼女の窮状を心配したモナコのグレース王妃は宮廷に彼女を住まわせ、1974年には彼女のために復帰公演を企画した。そして、同年ジョセフィンはニューヨークのカーネギー・ホールでの公演に招かれる。かつての苦い経験から、本人はかなり躊躇していたらしいが、結果は大成功だった。あの悲劇の凱旋公演から30年以上の時を経て、ようやくアメリカの観客も彼女を受け入れられるまでに成熟していた。
 そして、1975年4月。ヨーロッパ中のファンやセレブが見守る中、ジョセフィン・ベイカーの芸能生活50周年記念公演が華々しく行われた。その4日後の1972年4月12日、ジョセフィンは帰らぬ人となった。その葬儀は国葬として執り行われ、2万人もの人々が参列した。彼女はフランスで最も愛されたアメリカ人だったと言えるだろう。

 冒頭でも述べたように、アンナ・メイやジョセフィンの時代から半世紀以上を経て、現在のアメリカのショー・ビジネス界は一見して人種の垣根が取り払われたように思われる。しかし、その表層の下で依然として見えざる差別が存在するのも動かしがたい事実だ。
 90年代後半のヒスパニック系スターの台頭の際、ジェニファー・ロペスが“遂に私たちの時代がやって来た”と豪語したのを知ったサルマ・ハエックが“彼女は多くの同胞が未だにポン引きや売春婦の役しか貰えないという事実を忘れている”と痛烈に批判したのも記憶に新しい。アジア系のスターにしても、ジャッキー・チェン、ジェット・リーのようなカンフ・スターや、ルーシー・リューやチャン・ツィイー、80年代から90年代に人気を集めたジョアン・チェンやジョン・ローンのような例外を除いては、決して活躍の場に恵まれているとは言えない。「ラスト・サムライ」であれだけ絶賛された渡辺謙が、鳴り物入りで「バットマン・ビギンズ」に起用されたものの、蓋を開けてみれば10分程度しか顔を出さない2番手以下の悪役扱いだったのは、ハリウッドにおけるアジア人の現実を突きつけられたようで複雑な心境だった。一時期ハリウッドで奮闘していた加藤雅也がかつてインタビューで、“ハリウッドではアジア人の2枚目という概念は存在しない”といったような事を言っていたが、彼ほどの美形でもアジア人というだけでハリウッドではギャング役ぐらいしかあてがわれないというのが現実なのだ。あのブルース・リーでさえ、ハリウッドで役を得るために香港へ渡って名声を確立する必要があったのだ。その努力の集大成が「燃えよドラゴン」であったことは言うまでもない。ハリウッドで一定の地位を確立したように見える黒人俳優にしても、未だに白人の主人公の相棒役のような、人種問題に配慮して作られたような役柄に甘んじる事が多い。
 ハリウッド以外に目を移してみても、多民俗化が進んでいるヨーロッパでも有色人種の俳優に重要な役柄が与えられる機会は極めて少ない。70年代にソヴィエトで絶大な人気を得て主演作が何本も作られた日本の女優栗原小巻の他、イギリス映画「サワー・スイート」のシルヴィア・チャン、フランス映画「イルマ・ヴェップ」のマギー・チャンなど、重要な役柄が有色人種である場合には国際的に評価の高い外国俳優が招かれるケースが殆どで、ドメスティックなマイノリティ俳優には滅多にチャンスが廻ってこないのが現実。
 そうした現状を考えるにつけ、半世紀以上も前に西欧社会の中でマイノリティに属しながらもスターとして名を成したアンナ・メイやジョセフィンの偉大さ、そして彼女たちが克服せねばならなかった苦難の過酷さが偲ばれるのである。

 

PICCADILLY.JPG CHIN_CHIN_CHOW.JPG TROPICS.JPG TAM_TAM.JPG

ピカデリィ
Piccadilly (1929)

朱金昭
Chu Chin Chow (1934)

南海の女王
Siren of the Tropics(1927)

タムタム姫
Princess Tam Tam (1935)

(P)2005 Image Entertainment (USA) (P)2005 VCI Entertainment (USA) (P)2005 Kino Video (USA) (P)2005 Kino Video (USA)
画質★★★★☆ 音質★★★☆☆ 画質★★★☆☆ 音質★★★☆☆ 画質★★★☆☆ 音質★★★☆☆ 画質★★★☆☆ 音質★★★☆☆
DVD仕様(北米盤)
モノクロ・着色/スタンダード・サイズ/ステレオ/音声:サイレント/英語字幕/地域コード1/109分/製作イギリス

映像特典
トーキー版イントロ(5分)
スコア製作秘話ドキュメンタリー
スチール・ギャラリー
アンナ・メイ・ウォンのドキュメンタリー
当時のプレス・キット採録(DVD-ROM)
アンナ・メイ・ウォン伝記(DVD-ROM)
DVD仕様(北米盤3枚組)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/英語音声/字幕なし/地域コード:ALL/102分/製作イギリス

映像特典
短縮アメリカ公開版
ジェイ・フェントンのコメンタリー
映画"Abdul The Damned"
フォト・ギャラリー
ポスター&ロビー・カード・ギャラリー
プレスブック・ギャラリー
音楽トラック集
ポパイ・アニメ"Ali Baba and the 40 Thieves"
DVD仕様(北米盤)
モノクロ・着色/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:サイレント/英語字幕/地域コード:ALL/86分/製作フランス

映像特典
ドキュメンタリー"Josephine Baker:The Performer"
伴奏曲"Oh,Papitou"再演
短編映画"The Fireman of The Follies Bergere"(フォリー・ベルジェ時代のジョセフィンが出演)
フォリー・ベルジェ・スチル・ギャラリー
ジョセフィン・ベイカー・スチル・ギャラリー
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/フランス語音声/英語字幕/地域コード:ALL/77分/製作フランス

映像特典
ドキュメンタリー"Josephine Baker:The Films"
ソング・サレクション
スチル・ギャラリー
監督:E・A・デュポン
脚本:アーノルド・ベネット
撮影:ウェルナー・ブランデス
音楽:ニール・ブランド
出演:ギルダ・グレイ
    ジェームソン・トーマス
    アンナ・メイ・ウォン
    シリル・リチャード
    チャールズ・ロートン
    エレン・ポロック
   
監督:ウォルター・フォード
製作:マイケル・バルコン
脚本:シドニー・ギリアット
    エドワード・ノブロック
撮影:マッツ・グリーンバウム
美術:エルノ・メッツナー
音楽:ルイス・レヴィ
出演:ジョージ・ロビー
    フリッツ・コートナー
    アンナ・メイ・ウォン
    パール・アーガイル
    ジョン・ギャリック
監督:マリオ・ナルパス
    アンリ・エティエヴァン
脚本:モーリス・デコブラ
助監督:ルイス・ブニュエル
音楽:ドナルド・ソシン
出演:ジョセフィン・ベイカー
    ピエール・バチェフ
    レジーナ・ダルティー
    ジョー・アレックス
    コレット・ボレーリ
監督:エドモン・グレヴィル
製作:アリス・ニソッティ
脚本:ペピート・アバティーノ
    イヴ・ミランデ
撮影:ジョルジュ・ブノワ
音楽:アクシリホ・グレネ
    ジャック・ダリン
出演:ジョセフィン・ベイカー
    アルベール・プレジャン
    ジェルマイン・オウッシー
    ロベール・アルヌー
    ヴィヴィアーヌ・ロマンス
 ハリウッドでは偏った中国人像をカリカチュアしたようなヴァンプ役を与えられる事が多かったアンナ・メイ・ウォンが、初めて等身大の現代女性を演じる事で女優としての真価を発揮した記念すべき作品。
 彼女が演じるのはロンドンの貧しい中国人街に住む若くて美しい娘ショウショウ。ロンドンでもトップ・クラスのナイト・クラブで皿洗いの仕事をしていた彼女は、ふとした事からオーナーのウィルモットに見初められる。丁度、クラブでは看板スターの一人が抜けてしまい、ウィルモットはその後釜にショウショウを起用する。彼女のエキゾチックなダンスは大絶賛され、一夜にしてロンドン中が注目するトップ・スターとなる。面白くないのはもう一人の看板スター、メイベル。彼女はウィルモットの愛人でもあった。この危険な三角関係は次第にもつれて行き、遂に最悪の事件が引き起こされることとなる・・・。
 貧しさの中にも誇りと慎ましさを持って生きていたショウショウが、突然もたらされた成功によってスポイルされ、その野心に歯止めがきかなくなっていく様を、アンナ・メイは実に生き生きと力強く演じている。特に、中盤までの少女のようなあどけなさを残した純朴な美しさと、後半のぎらぎらとした野心に燃える表情の凄まじさのコントラストが見事。決して中国人である必要がない、というところがこの役柄の持つ普遍性であり、それを見事に演じきったアンナ・メイの女優魂に感服する。
 アンナ・メイにとっては2度目のアラビアン・ナイトもの。1916年に初演されて以来、ロンドンでロングラン・ヒットを続けたミュージカルを大物プロデューサー、マイケル・バルコンがハリウッド並みの制作費を投じて映画化した大作だ。原作は「アリ・ババと40人の盗賊」。ストーリーはほぼ原作に忠実で、スケールの大きなセット、豪華な衣装、そして膨大な数のエキストラが圧巻。ただ、ハリウッドの「バグダッドの盗賊」(’24)やアレクサンダー・コルダ版の「バグダッドの盗賊」(’41)なんかと比べると、ファンタジー度の低い分地味な印象は拭えない。そういった意味では、非常にイギリス的な作品と言えるかもしれない(コルダ版もイギリス映画だが)。
 ここでアンナ・メイが演じるのは盗賊の頭アブ・ハッサンと通じている奴隷女という悪女役。ハリウッド的なステレオ・タイプに近い役柄ながら、最後にはアリ・ババに協力して盗賊一味を退治するという、実は非常においしい役だったりする。彼女の美しさを際立たせるような照明やカメラワークも随所に施されており、ディーヴァの如き輝きを見せてくれる。
 彼女以外では、ルイーズ・ブルックスの「パンドラの箱」でルルに人生を狂わされる中年医師を演じて知られるドイツの名優フリッツ・コートナーが、アブ・ハッサン役を演じて強烈なインパクトを残す。愚かだが気のいい親父アリ・ババ役の性格俳優ジョージ・ロビーのアクの強い演技も面白い。
 ジョセフィン・ベイカーの記念すべき映画デビュー作品。フォリー・ベルジェ時代にダンサーとして短編に出演している(本DVDの映像特典として収録)ものの、本格的に女優としての映画出演はこれが初めて。
 ジョセフィンが演じるのは南の島に住む野生的な娘パピトゥ。島の鉱山開発に派遣されてきたフランス青年アンドレと恋に落ちるものの、この人事異動が彼の恋人を横取りしようとする上司の陰謀である事を知り、彼女は彼の為に一肌脱ぐ事を決意する。
 まずは序盤のパピトゥの野生児ぶりが凄い。男勝りのやんちゃ娘で、自由奔放。タンスの上に飛び乗ったりなんてのも朝飯前の豪快ぶり。パリのミュージック・ホールで披露するプリミティブでワイルドなチャールストン・ダンスも圧倒的な迫力で、当時のフランス人がジョセフィンのそうしたエキゾチックで、ある種原始的な面に魅せられていた事がよく分る。
 相手役のピエール・バチェフは、アベル・ガンスの超大作「ナポレオン」(’27)にも出ていた中堅俳優。その他のキャストやスタッフの面々から見ても、この作品が当時のジョセフィン人気にあやかって即席で作られた低予算映画であった事が分る。映画作品としては平凡な異国情緒ロマンスながら、ジョセフィンのパフォーマンスだけでも見る価値のある一本。
 こちらも「南海の女王」の延長線上にあるような作品。異国版「マイ・フェア・レディー」といったところか。
 彼女が演じるのは植民地チュニジアに住む原住民の娘アルウィーナ。有名な作家で貴族のマックスは、新作のアイディアを捜しにチュニジアを訪れ、野性的で純朴で生き生きとしたアルウィーナに強く惹かれる。妻との関係もぎくしゃくしていた彼は、すっかり彼女に夢中になり、彼女をインドのお姫様と偽ってパリに連れて帰る。パリの上流社会で話題の的となり、好奇の目にさらされて居心地悪い思いをするアルウィーナ。ダンスが大好きな彼女は、ナイト・クラブでオーケストラの演奏するダンス音楽に心弾み、酔った勢いで遂にお姫様にはあるまじき激しいダンスを披露してしまうのだが・・・。
 ジョセフィンの実生活を随所に盛り込んだところが非常にユニークで、パリの上流社会の偽善性をユーモラスに暴く粋な演出も楽しい。特に、それまでの鬱憤を一気に晴らすようなダイナミックでパワフルなダンス・シーンは秀逸の一言に尽きる。ジョセフィン・ベイカーに興味のある人は必見の作品。

戻る