マイク・ブラント Mike Brant
イスラエルから来た悲劇のフレンチ・ポップ・スター

 

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 1970年代初頭のフランス音楽界に彗星のごとく現れ、たった5年間の活動期間を経て、突如としてファンの前から永遠に姿を消してしまった伝説のスター。ラテン風の彫深い端正な顔立ちで女性ファンに圧倒的な人気を誇ったが、その最大の魅力は圧巻とも言うべき歌唱力だった。類い稀な声量の持ち主で、その力強いソウルフルな低音ボーカルは、当時のフランス音楽界でも異色の存在だったと言えよう。トム・ジョーンズに憧れていたというが、なるほど確かによく似ている。その歌声は堂々とした自信に満ち溢れており、とてもスケールの大きな歌い手だった。
 特に、ライブで聴かせたガーシュウィンの“サマータイム”のカバーなどは、ファルセットとシャウトを使い分けた怒涛のファンク・ナンバーに仕上がっている。そのジェームズ・ブラウン顔負けの歌いっぷりは、今の日本のひ弱で生半可なソウルもどきシンガーなんかとは比べ物にならないくらいに“ソウルフル”だ。
 当時は若いアーティストが政治的・社会的なメッセージを込めた歌を歌うというのが世界的な流行だった。甘いラブ・ソングばかりを歌うことをマスコミに揶揄された彼は、“そういう歌は歌唱力のない人間が歌うものだ”と一蹴しているが、この言葉からも自分の実力に対する並々ならぬ自信が感じられる。
 その一方、繊細で傷つきやすい芸術家肌の一面も持ち合わせており、その精神的な脆さが悲劇的な最期へと彼を導いていったのかもしれない。

 マイク・ブラントはイスラエルの出身で、両親はポーランド系ユダヤ人だった。父親のフィシェル・ブラントはレジスタンスの闘士で、母親ブロニアはアウシュビッツの生存者。二人は難民収容所で知り合って結婚した。戦時中の悪夢を忘れるために約束の地パレスチナで新しい人生を始めようと考えた二人だったが、彼らの乗った船は英国軍によって沈没させられてしまう。二人は一時的にキプロス島に避難したが、そこで当時妊娠中だった妻ブロニアが産気づいてしまった。その時に生まれたのが長男モシェ、つまり後のマイク・ブラントだったのである。1947年2月1日のことだった。
 その後、イスラエルが建国されたことから、一家は翌年の5月にハイファへと向う。しかし、両親はその途中で息子の健康診断をした医師から、衝撃的な宣告を受けた
。モシェが聾唖だというのだ。大勢の移住者がひしめきあう船内で息子とはぐれてしまう事を怖れた母ブロニアは、息子の首に名前と住所を書いたプラカードを下げさせていた。しかしその後、5歳になった頃から次第に言葉を話すようになったというから、もしかしたら軽度の学習障害だったのかもしれない。いずれにせよ、両親の心配は杞憂に終わり、モシェは健康な子供としてすくすくと育っていった。
 やがて小学校に入学したモシェは音楽に情熱を傾けるようになり、学校の合唱団で唯一の男子メンバーとなった。しかし、家が貧しかったために13歳で仕事に就くことを余儀なくされてしまう。冷蔵庫の修理工から海洋博物館のツアー・ガイドまで、様々な職を転々とした彼は、15歳の時に2歳下の弟の誘いでロック・バンド、チョコレーツのリード・ボーカリストとなった。
 地元のライブハウスで評判となったチョコレーツは、ほどなくして高級ホテル、ダン・カ−メルと15ヵ月の長期契約を結ぶ。ホテル内のナイトクラブ、ザ・ロンドのステージに立つようになった彼らは、瞬く間に注目を集めた。中でもリード・ボーカルのモシェが女性客の間で人気が高い事に目を付けたクラブのマネージャーは、彼にミカエル・セラというステージ・ネームを与え、グループ名もミカエル・セラ・アンド・ザ・チョコレーツに変えさせた。すっかりクラブの看板スターとなった彼らは、一晩に150曲も演奏するほど多忙を極めたという。

 その後、1967年に最愛の父親を失い、意気消沈していたモシェだったが、そんな彼に大きな転機が訪れる。当時イスラエルのショー・ビジネス界で大御所的存在だったステージ・ディレクター、ジョナサン・カーモンが彼の実力を高く評価し、自らの巡業一座に招きいれたのだった。新たにマイク・ブラントという芸名を与えられた彼は、カーモン一座のスターとして世界中を巡業して回った。
 そして1968年の暮れ、マイクはテヘランの有名な高級ナイト・クラブ、バカラ・クラブと専属契約を結び、同クラブの看板スターとして絶大な人気を得るようになった。そして、このステージで、彼は人生最大のチャンスを掴むこととなる。特別ゲストとしてバカラ・クラブのステージに立ったフランスの大スター、シルヴィー・ヴァルタンとマネージャーのカルロスがマイクの歌声を大変気に入り、パリに来るよう誘ってくれたのだった。当時はまだフランス語を全く話せなかったマイクだったが、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。
 1969年の7月、スーツケースを一つだけ持ったマイクは独りでパリの空港に降り立ち、カルロスの紹介で次々とフランス音楽界の大物プロデューサーたちと面談した。しかし、英語は喋れてもフランス語が全くダメということが大きな障害となり、契約を取り付けるまでにはなかなか至らなかった。
 そこでカルロスは、親しい友人であるジャン・レノーに相談を持ちかけた。レノーはシルヴィー・ヴァルタンやジョニ・アリディの仕掛け人であり、フランス音楽界で影響力のある人物だった。そのレノーの取り計らいで、マイクは有名な作曲家兼アレンジャーであるジャン=クロード・ヴァニエとレノーの前でオーディションを受けることになる。その場でガーシュウィンの名曲「サマータイム」を歌ったマイクだったが、出だしの“サマータイム”というフレーズだけでオーディションに合格してしまったという。マイクのパワフルな歌声に魅了されたヴァニエとレノーは、ただちに彼と5年の長期契約を結ぶことにした。

 ジャン・レノーはマイクのためにフランス音楽界一流のスタッフをかき集め、さらに髪型やファッションまで事細かく指示を出し、その端正な容姿を生かしたラテン風のセックス・シンボル的イメージを作り上げていった。徹底的なレッスンでフランス語を習得させ、レコーディングのリハーサルは260回にも及んだという。
 そして、1970年2月、マイク・ブラントの記念すべきデビュー・シングル“Laisse-moir t'aimer”(作曲はジャン・レノー)がリリースされ、何と150万枚を売り上げる爆発的な大ヒットとなってしまう。さらに、ドイツ語バージョンとイタリア語バージョンも制作され、各国でヒット・チャートの上位に食い込むようになった。セカンド・シングルの“Un grand beonheur”とサード・シングルの“Mais dans la Lumiere”も順調にヒットを飛ばし、マイクはたちまちトップ・スターとして活躍するようになった。特にティーンの女の子たちの間での人気は凄まじく、マイクはアイドル雑誌の表紙やグラビアを飾るようになる。
 しかし、その一方でマイクとジャン・レノーとの間での軋轢も次第に表面化してきていた。レノーは当代きっての商売人としてフランスのショービズ界に名を知られた辣腕だったが、 同時に金儲けのためなら何でもするという一面を持った暴君でもあったようだ。マイクが交通事故で入院した時にも病室にマスコミを招き入れ、新曲のプロモーションに利用してしまった。そうしたレノーの姿勢に、マイクは次第に疑問を持ち始めたのだろう。
 さらに、その美貌に注目した映画界からも出演のオファーが次々と舞い込み、マイク自身も俳優業に前向きだったが、レノーは一方的にそのオファーを全て断ってしまった。中には、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティからの出演依頼も含まれていたという。時期的なことを考えると、恐らく「ルードウィヒ 神々の黄昏」だったのではないかと思う。
 しかし、二人の不仲を決定的なものにしたのは、やはりマイク自身のキャリアの方向性をめぐる意見の違いだった。大ホールでのコンサートを希望するマイクに対して、レノーはまだ時期尚早だと猛反対した。しかし、マイクはレノーの反対を押し切って、1971年10月にオランピア劇場で行われたダリダのコンサートに特別ゲストとして出演。これに憤慨したレノーはマイクのプロデューサーを降板し、遂に二人は袂を別つこととなったのだった。

 その後、一時的にジェラール・トゥールニエがレノーの仕事を引き継いだが、最終的にシャルル・タラールがマイクの専属プロデューサーとなった。さらに、ヴァニエに代わってアラン・クリーフが音楽ディレクターとなり、クロード・フランソワやマリー・ラフォレなどを手掛けた作曲家ミシェル・ジュールダンが作曲を全面的に手掛けるようになった。
 この新体制の下で、マイクはさらにアーティスティックな成長を遂げていく。オランピア劇場で待望のソロ・コンサートを開いたマイクは、さらに72年4月にリリースしたシングル“Qui Saura”(ホセ・フェリシアーノのヒット曲“Que sera”のカバー)が200万枚を売り上げるという大ヒットを記録。さらに、自ら初めて作曲を手掛けたシングル“C'est ma priere”をヒット・チャートのナンバー・ワンに送り込み、ティーン・アイドルから本格的なアーティストへと躍進して行った。これ以降、作詞をミシェル・ジュールダン、作曲をマイク・ブラント自身が担当した楽曲が増えていく。
 73年には日本を含めたワールド・ツアーを敢行し、シングル“Rien qu'une larme”がカナダでもスマッシュ・ヒットを記録。その活躍範囲は次第に国際的なものとなっていった。

 74年にはポリドール・レコードと契約を交わし、新たにシモン・ワイントロブがプロデューサーとなった。相変わらず順調にヒット曲を放ち、ファン・クラブの会員が3万5千人を突破するなど、その人気は不動のものとなったかに見えたマイクだったが、この頃から次第に情緒が不安定となって行く。トップ・スターゆえに自由な時間もなく、行動範囲まで制限されてしまう生活の中で、マイクは人知れず孤独感に苛まれていたという。
 その年の5月に行われたコンサートで、4曲目を歌い終わった時点で行方をくらましてしまったのが最初だった。その数日後には楽屋の鏡を素手で割って怪我をするというトラブルを起こしている。さらに、自宅が空き巣の被害に遭い、貴重品だけでなく彼の思い出の詰まった写真アルバムなどまで盗まれてしまったことから、極度の鬱状態に陥ってしまった。
 周囲の勧めもあって、スイスのジュネーヴで休暇を取ることになったマイクだったが、宿泊したホテルの窓から投身自殺を図ってしまった。幸いに怪我は軽く、自殺は未遂に終わったわけだが、その後も極端な躁鬱状態を繰り返していたという。
 パリに戻ったマイクは新曲のレコーディングを行い、相変わらずシングルは好調に売れ続けていた。だが、自殺未遂事件から5ヵ月後の1975年4月25日、マイクは友人のアパートのバルコニーから身を投げ、今度は永遠に帰らぬ人となってしまった。かつて袂を分ったジャン・レノーと再びタッグを組み、彼自身も自分の最高傑作と自負していたアルバムが発売された直後のことだった。その死はフランス中の音楽ファンに大きな衝撃を与え、遺作となったシングル“Dis-lui”(モリス・アルバートの名曲“Feelings”のカバー)は100万枚を売り上げる大ヒットとなった。

 かつては日本でもシングルやアルバムがリリースされ、来日コンサートも行われているが、今ではその名もすっかり忘れ去られてしまっている。一方で、フランスでは今でもベスト盤がコンスタントに売れ続け、死後30年を経た2005年には生前のライブ映像などを収めたDVDも発売された。また、母国イスラエルでも国民的スターとして愛され続けており、その人生を追ったドキュメンタリー映画が製作されている。
 若くして死を選んでしまったのは悲しくも痛ましい事実ではあるが、その反面いつまでも若く美しいままの姿と、エネルギッシュで情熱的な歌声のままで、人々の記憶に刻まれることになったと言えよう。それは、ある意味で運命だったのかもしれない。プレスリーやジョン・レノンと同じように。そのヒット曲の数々は、いまだに瑞々しい輝きを失うことがない。70年代のフレンチ・ポップスを語る上で、絶対に欠かすことの出来ないスターと言えるだろう。だからこそ、一人でも多くの人に、その歌声に耳を傾けてみて欲しいと思う。

 

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Les plus grandes chansons de Mike Brant

Un grand Bonheur

Qui Saura

(P)1994 EMI France (France) (P)2005 EMI Music (France) (P)2005 EMI Music (France)

1,She's My Life
2,C'est ma priere ビデオ
3,Viens ce soir ビデオ
4,Elle a garde ses yeux d'enfant
5,C'est comme ca que je t'aime
6,A corps perdu
7,Mais dans la lumiere ビデオ
8,Riens qu'une larme
9,C'est une belle fete ビデオ
10,L'amour c'est ca, l'amour c'est toi
11,Un grand bonheur ビデオ
12,Das ist mein lied
13,La musique au fond du coeur ビデオ
14,Toi mon enfant
15,Toi, moi nous

1,Qui saura ビデオ
2,Un grand bonheur
3,Laisse moi t'aimer ビデオ
4,C'est ma priere
5,Rien qu'une larme ビデオ
6,Tout donne tout repris
7,La fille a aimer ビデオ
8,Mais dans la lumiere
9,La musique au fond du coeur
10,C'est une belle fete
11,Parce que je t'aime plus que moi
12,et je suis heureux
1,Qui saura ビデオ
2,Laisse moi l'aimer
3,C'est ma priere
4,Parce que je t'aime plus que moi
5,Rien qu'un larme ビデオ
6,Tout donne tout repris
7,Viens ce soir
8,Serre les poings et bats toi ビデオ
9,Dis-lui (Feelings) ビデオ
10,Felicita
11,Mais dans la lumiere
12,L'amour c'est ca l'amour c'est toi
13,Un grand bonheur
14,C'est comme ca que je t'aime
15,Et je suis heureux
16,Nous irons a Sliga
17,Toi moi nous
18,A corps perdu ビデオ
19,La fille a aimer
20,Qui a tort
21,Sans amis
22,My Way (live) ビデオ
23,La musique au fond du coeur
24,Summertime (live) ビデオ
 数あるベスト盤の中でも、比較的マニアックな選曲が魅力の一枚。既に入門書的なベスト盤を手に入れた人が、2枚目として購入するには最適かと思います。中でもオススメはマイク自身が作詞・作曲を手掛けた#1。フレンチ流のスウィート・ソウルという感じで、ソウルフルでありながら爽やかでロマンティックな佳作。ファルセットを駆使したマイクの力強いボーカルもカッコいいです。全体的にR&Bやゴスペルを意識していますが、しっかりとフレンチ・ポップスとして成立しているのが彼の魅力です。  こちらはベーシックなヒット曲を網羅した定番的内容のベスト盤ですね。フランス国内だけで200万枚という驚異的なセールスを記録した#1で幕を開けます。ホセ・フェリシアーノのバージョンも好きですが、スケールの大きなマイクのボーカルも鳥肌もの。ゴージャスなストリングスとコーラスもロマンティックで、それはもう素晴らしい出来映えです。映画のワン・シーンを思わせるようにドラマチックなバラード#11も大好き。胸を締め付けられるくらいに美しい作品です。  5年間のキャリアでマイクが残した全てのシングル曲に、ライブ音源などのレア・トラックを加えた究極のベスト盤がコレです。このCDで嬉しいのは、ポリドール移籍後のシングルも収録されていることですかね。モリス・アルバートの「フィーリング」は数多くのアーティストがカバーしていますが、情熱たっぷりに歌い上げるマイクのバージョン#9は中でも秀逸です。クロード・フランソワの名曲を、あえてシナトラの英語バージョンでカバーした#22、ガーシュウィンの名曲をJB顔負けのパワフルなファンクとしてカバーした#24も圧巻。凄いです。

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