イタリア映画のマエストロ (1)
ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti

 

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 もしかすると、今の若い映画ファンにはちょっとピンと来ないかもしれないが、戦後のイタリアは世界に名だたる巨匠を輩出したヨーロッパ最大の映画大国だった。ロッセリーニ、ヴィスコンティ、デ・シーカ、フェリーニ、アントニオーニ、パゾリーニ、ゼッフィレッリ、ロージ、ベルトルッチ・・・イタリアの生み出した偉大なる巨匠(マエストロ)たちは、世界の映画史に多大なる影響を及ぼしてきたのだ。
 中でも、ボクが個人的に愛してやまないのがルキノ・ヴィスコンティである。イタリアでも屈指の名門貴族に生まれたことから、何かと“貴族的な映画作家”として語られることの多い人物だ。彼が生涯に渡って、その“貴族的”なるものに対して複雑な思いを抱えてきたことを考えると、それはそれで皮肉なことだと言えるかもしれない。血は争えない、とはよく言われる言葉だが、まさにそういうことなのだろうか。

 だが、そんな“貴族的な監督”ヴィスコンティの映画作家としての原点は、一見すると対極にあるとも思えるネオレアリスモ運動だった。といっても、今の映画ファンにはネオレアリスモという言葉そのものがピンと来ないだろう。
 第2次世界大戦末期のイタリアは、ファシスト政権の崩壊とナチス・ドイツの占領によって内乱状態にあった。ナチスに対抗するレジスタンスとナチスに協力するファシストの残党によって国内は分裂し、まさに血で血を洗う壮絶な闘いが繰り広げられていたのだ。そうした状況の中で、ゲリラ的な手法によって撮影され、戦火に揺れるイタリアの生々しい姿を描き出して世界中に衝撃を与えたのがロッセリーニの「無防備都市」だった。
 これをきっかけに、ロケーション撮影、素人俳優の起用、ドキュメンタリー的な演出などによって戦中・戦後のイタリア庶民の置かれた現実をリアルに描く作品が次々と生み出され、“ネオレアリスモ”と呼ばれる一つのムーブメントを生み出していった。
 そして、その“ネオレアリスモ”運動の原点と呼ばれているのが、アレッサンドロ・ブラゼッティの「雲の中の散歩」('42)であり、デ・シーカの「子供たちは見ている」('43)であり、ヴィスコンティの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」('42)だったのだ。

 ただ、ヴィスコンティは他のネオレアリスモ作家とは確実に毛色が違う芸術家だったと個人的には思っている。ネオレアリスモには具体的な概念が存在したわけではないが、大前提として戦中・戦後にかけてのイタリア社会の混沌を反映したものであった。それを歴史の証言者としてドキュメンタリー・タッチに描いたのがロッセリーニであり、そこに生きる人々の人情ドラマとして内側から描き出していったのがデ・シーカだった。つまり、視点は違えど当時の社会や世相を生々しく切り取りながら、積極的に問題提起をしていくのがネオレアリスモと呼ばれる一連の映画群だったと言えるだろう。ゆえに、おのずとそのメッセージは広く社会へと向けられていく。しかし、ヴィスコンティのリアリズムは常に彼自身の内包する葛藤に根ざしており、非常にパーソナルな作家性を基盤にしていたと言えるのではないかと思うのだ。
 それは、処女作の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」がアメリカのハードボイルド作家、ジェームズ・ケインの犯罪小説の映画化であった事でもよく分かる。当時のイタリア社会の底辺で生きる人々の生活を赤裸々に描いたことからファシスト政権によって上映禁止の憂き目にあい、そのこともあって当時の労働者や左翼系知識人に熱烈に支持された作品だったが、そこには社会の矛盾に対する彼自身の憤りというのが破滅的なメロドラマとして描き出されていた。ゆえに、一般的な意味における社会派ドラマとはあまり言えないだろう。
 その6年後に作られた2作目「大地は揺れる」('48)では、権力者に搾取されるシチリア漁民の怒りと抵抗をドキュメンタリー・タッチで描いているわけだが、そこには自分が属する支配者階級に対する彼自身の矛盾とも言える強い怒りと反発を感じることが出来る。彼のフィルモグラフィーの中でも特にネオネアリスモ色の強い作品だったが、ここで彼が展開する社会への問いかけは、自分自身への問いかけでもあったのだと思う。
 続く「ベリッシマ」('51)は、まるでデ・シーカを思わせるような作品だったが、これはデ・シーカとのコンビで有名なチェザーレ・ザヴァッティーニが原案を書いており、アンナ・マニャーニと仕事がしたいがために引き受けた作品だったという事を考えれば、ヴィスコンティにとっては例外的な作品だったと言う事が出来るだろう。
 そのヴィスコンティの抱える矛盾と葛藤が、より鮮明に描かれていたのが「夏の嵐」('54)だ。ヒロインの伯爵夫人リヴィアは、支配者であるオーストリア軍青年士官への激しい情欲と愛国心との間で揺れ動く。さらに、「若者のすべて」('60)ではロッコとシモーネという2人の相対する兄弟の人生の明暗をドラマチックに描きながら、ヴィスコンティは堅実なロッコと自堕落なシモーネの両方に自身の二面性を投影して見せた。
 そして、「山猫」('63)で没落していく貴族社会の黄昏を描くことにより、ヴィスコンティは映画作家としての大きな転機を迎えることとなる。なぜならば、この「山猫」以降のヴィスコンティ作品は、相対する二つの視点や価値観を対比させるのではなく、堕ちて行く者たちの姿に主眼を置いていくことになるからだ。そして、彼の内包する矛盾は、自分の生まれた階級や世代への、より私的な反発へと変貌を遂げていく。言うなれば、愛情と憎悪の終わることなき葛藤だ。それは「地獄へ堕ちた勇者ども」('69)、「ベニスに死す」('71)、「ルードウィヒ/神々の黄昏」('72)へと受け継がれて行く事になる。

 こうしたヴィスコンティ作品特有の愛憎と葛藤というのは、多分に19世紀的な性格を帯びている。彼が感じていた階級意識にまつわる矛盾そのものが、19世紀の社会文化に根ざしていると言えるだろう。それゆえに、ヴィスコンティ作品(特に後期の作品)に対して違和感を覚える人が少なくないのも理解は出来る。日本におけるイタリア映画研究の第一人者である柳澤一博氏は、ヴィスコンティのことを“まぎれもなく19世紀的な教養の持ち主”と述べているが、まさにその通りなのだろうと思う。
 ゆえに、映画作家としてのヴィスコンティは、決して現代的な意味でのビジュアリストではなかった。その演劇的な様式美や絵画的な映像美も、ルネッサンスから印象派までの様々な西洋芸術の集大成的な性格が強く、同時代的なモダニズムが介在する余地は殆んどなかったと言っていいだろう。その辺りが、彼の作品に対する好き嫌いの分かれるポイントであり、映画作家として最大の弱点・限界であったのかもしれない。

ということで、個人的に特に好きなヴィスコンティ作品を4本紹介しておきたい。

 

夏の嵐
Senso (1954)

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(P)2006 紀伊国屋書店 (Japan)
画質★★★★☆ 音質★★★☆☆
DVD仕様(国内盤)
カラー/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:イタリア語/字幕:日本語/地域コード:2/118分/製作:イタリア

映像特典
予告編
フォトギャラリー
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
原作:カミッロ・ボーイト
脚本:ルキノ・ヴィスコンティ
    スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    カルロ・アリアネッロ
    ジョルジョ・プロスペリ
    ジョルジョ・バッサーニ
撮影:G・R・アルド
    ロバート・クラスカー
音楽:アントン・ブルックナー
出演:アリダ・ヴァリ
    ファーリー・グレンジャー
    マッシモ・ジロッティ
    リーナ・モレッリ
    ハインツ・モーグ
    マルチェッラ・マリアーニ

 ヴィスコンティにとって初のテクニカラー作品であり、実に15億リラという当時としては破格の大金を投じて作られた豪華絢爛たる歴史絵巻が、この「夏の嵐」である。年下の青年将校への愛と祖国への愛の間で揺れ動く貴婦人の壮絶な生き様を、圧倒的な映像美の中で描ききっていく。世界広しといえど、恐らくヴィスコンティ以外には撮ることの出来ない傑作と言えるだろう。

 舞台は1866年。オーストリア軍占領下にあるヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場。舞台ではオペラ「イル・トロヴァトーレ」が上演されている。場内はオーストリア軍の兵士で埋め尽くされており、やがて天井桟敷からイタリアの愛国心を鼓舞するビラが撒かれて場内は騒然となった。その混乱の中で、決闘沙汰を起すウッソーニ侯爵(マッシモ・ジロッティ)とオーストリア軍士官マーラー中尉(ファーリー・グレンジャー)。ウッソーニ侯爵の従姉妹である伯爵夫人リヴィア(アリダ・ヴァリ)は決闘を止めようとするが、オーストリア軍によってウッソーニは逮捕されてしまう。
 マーラー中尉は劇場でリヴィアに声をかけていた人物だった。中尉の端正な美貌に戸惑うリヴィアだったが、毅然とした態度で彼の誘惑をはねのけていた。彼女は人妻であったし、なによりも祖国を愛する女性だった。しかし、彼女の夫(ハインツ・モーグ)は典型的な日和見主義者で、2人の間には大きな心の溝があった。そんな彼女の心の支えが尊敬する従兄弟だったわけだが、そのウッソーニ侯爵はオーストリア軍によって1年の流刑を言い渡されてしまう。
 侯爵を見送りに行った帰り、待ち伏せしていたマーラー中尉がリヴィアに声をかける。執拗に迫る彼の誘惑に抵抗する事ができなくなったリヴィアは、夜のベネチアを2人で彷徨ううちに、すっかり彼の虜となってしまった。まるで初めて恋をした娘のように、マーラー中尉に夢中になっていくリヴィア。2人はアパートを借り、人目につかぬよう逢瀬を重ねた。
 だが、ある日リヴィアがアパートに行くと、部屋はもぬけの殻となっていた。オーストリアとプロシアの戦争が始まり、マーラー中尉の所属する中隊も移動してしまったのだ。そんな折、ウッソーニ侯爵が流刑地から戻り、祖国解放のための軍資金をリヴィアに預ける。
 リヴィアと夫は戦火を避けるため、アルデノの別荘に移った。そんなある晩、リヴィアの部屋にマーラー中尉が逃げ込んできた。戦場へ行きたくない彼は、医者を買収するための金を必要としていた。偽の診断書を書かせて、軍務を逃れようというのだ。久しぶりにマーラー中尉の顔を見て再び愛情が燃え上がったリヴィアは、ウッソーニ侯爵から預かっていた金をマーラーに渡してしまう。
 戦争は日増しに激化し、前線で戦うウッソーニ侯爵も負傷していた。そんな中、リヴィアは全てを捨ててマーラー中尉と一緒になる覚悟を決め、彼のいるヴェローナへと馬車を走らせる。愛する人との再会に胸をふくらませるリヴィア。しかし、到着したアパートで彼女が見たものは、祖国を裏切った罪悪感で自暴自棄となり、女と酒に溺れるマーラー中尉の姿だった。彼に騙されていたことを知ったリヴィアは半狂乱となり、オーストリア軍司令部へと駆け込む。そして、フランツの不正を密告するのだった・・・。

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気高き伯爵夫人リヴィア(A・ヴァリ)
「夏の嵐」より

オーストリア軍士官マーラー(F・グレンジャー)
「夏の嵐」より

リヴィアの従兄弟ウッソーニ侯爵(M・ジロッティ)
「夏の嵐」より

 映画は本物のラ・フィニーチェ劇場で上演されているヴェルディのオペラ「イル・トロヴァーレ」の舞台で幕を開ける。ヴィスコンティの一族が代々に渡ってミラノ・スカラ座の経営者であったこと、ヴィスコンティ自身もオペラの演出家としてマリア・カラスの舞台などを手掛けたことは大変有名な話だが、本作はその“オペラ”というのが重要なキー・ワードになっている。それは、何もオープニングを飾るのがオペラの舞台だというだけではない。「夏の嵐」という作品そのものが、非常にオペラ的なメロドラマなのだ。この同じ年に、彼がスカラ座のオペラ演出家としてデビューしているのも、決して偶然ではないだろう。ネオレアリスモを原点として歩み始めた映画作家ルキノ・ヴィスコンティは、リアリズムのスタイルをイタリア的な様式美へと結び付けようとしていたのかもしれない。
 ゆえに、この作品にはイタリア芸術の粋が集められている。何よりも驚かされるのは、その絵画的な映像美の素晴らしさだろう。それはまるで、新古典主義から印象派に至るまでの19世紀イタリア絵画を見ているかのような美しさ。テクニカラー作品であるにも関わらず、いわゆるテクニカラー的な強い色彩を出さず、油絵のように重厚なタッチで仕上げているのは意図してのことだろうと思う。特に、後半の戦闘シーンではその絵画的な美しさが際立つ。撮影を担当したのは「揺れる大地」でもヴィスコンティと組んだ名カメラマン、G・R・アルドと、「第三の男」でアカデミー賞を受賞したロバート・クラスカー。
 また、伯爵夫人リディアの美しいドレスから、豪華な調度品や家具に至るまでの高級感溢れる美しさも見ものだ。ヴィスコンティは徹底して“本物”にこだわった監督であった。室内に使われているカーテンにしろ、テーブルに置かれているペンにしろ、当時のイタリア貴族が愛用したものと全く同じ最上級のものしか使用を許さなかった。この徹底した本物主義は「夏の嵐」だけでなく、その後の「山猫」や「地獄に堕ちた勇者ども」、「ルードウィヒ/神々の黄昏」などでも一貫している。ニセモノを使うことは一切許されなかったのだ。
 こうしたイタリア的なものへのこだわりを見せる一方で、オープニングこそヴェルディのオペラを使用しているものの、全編を彩る音楽スコアにはオーストリアの作曲家ブルックナーの作品が使われている。もちろん、オーストリア支配下のイタリアを舞台にしているという設定上の必然性もあるだろうし、19世紀という時代を描くのに19世紀を代表する作曲家の一人であるブルックナーを起用するというのも合理的な解釈だが、それ以上にヴィスコンティの後期ロマン派音楽への強い傾倒の現れと見ていいだろう。それは、「地獄へ堕ちた勇者ども」、「ベニスに死す」、「ルードウィヒ/神々の黄昏」の、いわゆる“ドイツ三部作”において、より顕著となる。

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絵画のように美しいベネチアの街
「夏の嵐」より

夜のベネチアを歩くリヴィアとマーラー
「夏の嵐」より

マーラーの肉体に溺れていくリヴィア
「夏の嵐」より

 しかし、何よりも「夏の嵐」が魅力的なのは、普墺戦争という歴史的動乱を背景にしながら、大義名分をかなぐり捨てて本能に突き動かされる男女の破滅的な愛を描いている点にあるだろう。いや、それは愛というよりも“情欲”と呼ぶべきものかもしれない。女としての盛りを過ぎた伯爵夫人リヴィアは、年下であるマーラー中尉の端正な美貌と肉体に文字通り溺れていく。それまで彼女を支えていた愛国主義や貴族としての威厳といった観念的なものが、セックスという本能的な欲望に取って代わられてしまい、それ以外にはもう何も見えなくなってしまうのだ。
 一方のマーラー中尉にとっての欲望というのは、自分自身への限りなくナルシスティックな愛だ。鏡に映る自分の美しさに見とれるマーラー中尉にとって、女は自分の魅力を確認するための道具にしかすぎない。女が自分に惚れれば惚れるほど、彼は己の美貌の素晴らしさに酔いしいれるのだ。ゆえに、彼は最初からリヴィアの事など愛してはいない。彼女の目に映る自分の姿を愛していたに過ぎないのだ。リヴィアのような誇り高き貴婦人を夢中にさせるほど美しい自分を。
 この、お互いが本能をさらけ出しあう2人の“情欲”には、愛国心や大義名分といった理屈が入り込む隙など一切ない。彼ら自身にもコントロールが出来ないのだ。どちらも、こういう人間でありたいという理想は少なからず持っている。リヴィアは祖国の解放に尽力する従兄弟ウッソーニ侯爵に憧れ、彼女自身もその活動に積極的に協力しようとする。マーラー中尉にしても、本音では立派な軍人でありたいと願っている。しかし、彼らが本質的に持っている弱さや欲深さが、その本能を狂ったように駆り立ててしまうのだ。この人間が内包する矛盾した二面性こそが、本作における普遍的なリアリズムなのだろうと思う。
 当初、ヴィスコンティはリヴィア役にイングリッド・バーグマンを想定していたという。結局、当時の夫ロベルト・ロッセリーニ監督がバーグマンを離そうとしなかったために実現しなかったのだが、この役はアリダ・ヴァリで大正解だったと思う。あの一度見たら忘れられないギラギラとした野性的な瞳は、愛という名の欲望に身を焦がすリヴィアそのものと言えるだろう。それになによりも、アリダ・ヴァリは恐れることを知らない女優だ。れっきとしたイタリアを代表するスターだったが、そのフィルモグラフィーを見ても分るように、彼女は自分自身をスターとは見なしていなかった。でなければ、「さすらい」や「かくも長き不在」のような仕事はしていなかったろうと思うし、醜悪な老女役も厭わないような晩年の怪女優ぶりもなかったろう。美しさも醜さも含めて、自分の全てをさらけ出す勇気のある女優でなければ、このリヴィアという役柄を演じることは出来ない。ゆえに、美しさに翳りが見え始めた、当時のアリダ・ヴァリほど適した女優はいなかったろうと思うのだ。
 対するマーラー中尉役のファーリー・グレンジャーも見事なキャスティングだった。彼はアメリカ出身のハリウッド・スターだったが、その退廃的で繊細な美しさはヨーロッパ的な魅力を持っていた。ゆえに、ハリウッドではなかなか上手く使えない俳優だったと言えるだろう。アメリカでの数少ない代表作が、ヒッチコックの「ロープ」と「見知らぬ乗客」。ヒッチコックは彼の同性愛的な陰の部分を引き出すことに成功していたわけだが、この「夏の嵐」のマーラー中尉役もある種の同性愛的ナルシズムが独特のエロスを生み出しているといえるだろう。実際にファーリー・グレンジャーはゲイであったし、さらに言うならばヴィスコンティ自身はバイセクシャルだった。ヴィスコンティは、このマーラー中尉という人物に、己の中の一面を投影していたのかもしれない。この破滅的な美青年という役柄はデビュー作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のマッシモ・ジロッティに始まり、本作のファーリー・グレンジャーを経て、ヘルムート・バーガーへと受け継がれていく。もちろん、グレンジャーは美しいだけの俳優ではない。特に、後半で自暴自棄になり、酒に酔いつぶれる自堕落な生活を送るようになったマーラー中尉を演じる彼の、自虐的かつサディスティックな演技は鬼気迫るほど圧巻だ。生涯を通じて過小評価され続けた俳優だったが、その完璧なまでの美しさが彼の演技力の妨げになっていたのだとすれば、それはとても不幸なことだったろうと思う。
 リヴィアの従兄弟であるウッソーニ侯爵を演じているのは、先述した「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のマッシモ・ジロッティ。本作では決して大きい役柄ではないが、ファーリー・グレンジャーとは対極にあるイタリア的な男性美を象徴する存在として、こちらも美しい男ぶりを堪能させてくれる。
 なお、本作のDVDは各国でも発売されており、日本では過去にIVCがノイズだらけの古いマスターを使用してDVD化しているが、上記の紀伊国屋書店から発売されているものはしっかりとデジタル・リマスターされている。イタリアPAL版は未見なので比較できないものの、恐らく同じマスターを使用しているものと思われる。PALからNTSCへの変換に伴う若干の画質劣化は避けられないものの、これだけの高画質で「夏の嵐」を鑑賞できるのは嬉しい限りだと思う。

 

山猫
Il Gattopardo (1963)

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(P)2004 Criterion (USA)
画質★★★★★ 音質★★★★★
DVD使用(北米盤3枚組)
カラー/ワイドスクリーン(スクィーズ収録
)/モノラル/音声:イタリア語/字幕:英語/地域コード:1(イタリア語版本編のみALL)185分/製作:イタリア・フランス

映像特典
アメリカ公開版(161分・英語)
メイキング・ドキュメンタリー(62分)
製作者G・ロンバルド インタビュー(20分)
M・マーカス教授 インタビュー
オリジナル劇場予告編集
ニュース・フィルム集
スチル・ギャラリー
映画評論家ピーター・カウイ音声解説
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
製作:ゴッフレード・ロンバルド
原作:ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーザ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    パスカーレ・フェスタ・カンパニーレ
    マッシモ・フランチョーザ
    エンリコ・メディオーリ
    ルキノ・ヴィスコンティ
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:バート・ランカスター
    アラン・ドロン
    クラウディア・カルディナーレ
    パオロ・ストッパ
    リーナ・モレッリ
    ロモロ・ヴァッリ
    マリオ・ジロッティ
    ピエール・クレメンティ
    ルチッラ・モルラッキ
    イーダ・ガリ
    マリーノ・マゼ
    イヴォ・ガラーニ
    レスリー・フレンチ
    セルジュ・レジアーニ
    ジュリアーノ・ジェンマ

 ヴィスコンティの代表作を一本だけ挙げるとすれば、間違いなくこの「山猫」を選ぶだろう。イタリア統一戦争を背景に、古い時代の終焉と新しい時代の始まりを、一人の老貴族の目を通して描く歴史絵巻。「夏の嵐」を遥かに上回るスケールで描かれ、その絢爛豪華たる映像美はまさに圧巻。ヴィスコンティの美学が詰め込まれた究極の一本と言って良いだろう。それと同時に、過去と未来に対するヴィスコンティの複雑な心情を投影させた作品としても、非常に興味深い作品と言えるのだ。

 舞台は1860年の5月。イタリア統一を掲げるガリバルディ将軍率いる赤シャツ隊がシチリアに上陸する。その知らせを受けたサリーナ公爵家では赤シャツ隊を快く思わない家族が動揺を隠せないでいる。しかし、当の公爵(バート・ランカスター)は時代の流れを受け入れるかのように平然としていた。
 公爵にはタンクレディ(アラン・ドロン)という甥がいる。タンクレディの家は没落貴族だったが、公爵は彼を実の息子のように可愛がっていた。赤シャツ隊に参加するというタンクレディを、公爵は静かに送り出す。パレルモで激しい戦闘が繰り広げられている一方で、サリーナ公爵家は休暇を過ごすためにドンナフガータの別荘へと向っていた。それが、一族の伝統行事だからだ。たとえ社会が激動しようとも、貴族の伝統は守られていく。それが貴族の貴族たる所以だった。しかし、公爵は時代を生き延びるために貴族も変わらねばならないことを深く理解していた。だからこそ、タンクレディを赤シャツ隊に送り出したのだ。
 ドンナフガータでは地主のドン・カロジェロ(パオロ・ストッパ)が公爵一家を出迎えた。シチリアでは多くの貴族が没落していく一方で、ドン・カロジェロのような裕福な地主たちが台頭しつつあった。公爵の別荘で開かれた晩餐会には、ドン・カロジェロの娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)も招待されていた。上流階級の世界に憧れていたアンジェリカは、初めての晩餐会に興奮を隠せないでいる。その野性的な美しさに心を奪われるタンクレディ。公爵の娘コンチェッタ(ルチッラ・モルラッキ)もタンクレディに心を寄せていたが、奥ゆかしく控えめなコンチェッタは大胆で刺激的なアンジェリカの敵ではなかった。
 時は過ぎて1861年。シチリアは統一イタリア王国に併合される。赤シャツ隊から政府軍に鞍替えしたタンクレディは、アンジェリカとの結婚を公爵に願い出る。娘コンチェッタとの結婚を期待していた公爵夫人(リーナ・モレッリ)は半狂乱になって激怒し、公爵の友人ドン・チッチョ(セルジュ・レジアーニ)も猛反対するが、公爵はタンクレディの選択が正しい事を知っていた。貴族が貴族と結婚しても、今のイタリアでは未来がないのだ。そう、たとえ貴族であっても時代の変化には逆らえないのだった。
 そんな公爵のもとへ、新政府から派遣された使者シュヴァレイ(レスリー・フレンチ)が訪れる。人格者として人々から尊敬されている公爵を、ぜひ国会議員にというのだ。しかし、公爵はその申し出を丁寧に断る。彼は知っているのだ。誇り高き山猫が支配してきたこの土地が、やがてジャッカルやハイエナたちに取って代わられることを。
 やがて舞踏会の日がやって来る。このシチリア社交界の一大イベントで、公爵はドン・カロジェロとアンジェリカを紹介するのだ。次々と現れる華やかな貴族たち。成り上がり者のドン・カロジェロは居心地が悪そうだが、次第に彼の目はギラギラと輝いてくる。それはまるで、いずれ自分がこの貴族たちの上に立つようになることを予見するかのように。
 一方の公爵は、舞踏会の賑やかさの中で老いていく自分を感じていた。体調も思わしくない。壁に飾られた絵画を眺めながら、彼は自分の死を予感するのだった。そこへやって来るタンクレディとアンジェリカ。アンジェリカは公爵にダンスの相手をねだる。彼女にとって、公爵とのダンスは社交界での揺るぎないステータスを手に入れるという重要な意味があるのだ。華麗なワルツに身を委ねる公爵とアンジェリカ。やがて夜は明け、公爵は一人ぽつりと帰路につくのだった・・・。

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サリーナ公爵家の人々
「山猫」より

壮絶なパレルモの戦闘シーン
「山猫」より

サリーナ公爵(B・ランカスター)
「山猫」より

 原作は1958年に出版されたジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーザの長編小説。ランペドゥーザはヴィスコンティと同じく大貴族の末裔で、「山猫」は彼自身の体験や人生観を投影した大作だった。ヴィスコンティはランペドゥーザの原作を大幅に短縮しながらも、その精神だけは失わないように細心の注意を払ったという。それでも、原作と映画版とではかなり印象が違うようだ。それは、全編を覆うトーンの違いである。原作は非常にペシミスティックな内容で、没落していく貴族の哀れな末路を描いている。一方の映画版は、原作の残り約三分の一を丸々削ってしまったこともあるが、未来に希望を託すようなニュアンスが残されているのだ。
 それは、自身も没落して不幸な最期を遂げてしまったランペドゥーザと、芸術家として世界的な地位を確立したヴィスコンティの視点の違いが強く影響しているのだろう。「山猫」は世界中に翻訳されてベスト・セラーとなったわけだが、原作者のランペドゥーザは出版の一年前に癌で亡くなっており、自身唯一の作品の成功を目の当たりにすることはなかった。果たして彼がヴィスコンティの映画版を見ていたら、どのような感想を持ったのだろうか。
 それでも、ランペドゥーザが主人公サリーナ公爵に自らを投影したのと同じように、ヴィスコンティもサリーナ公爵に自らの思いを重ね合わせて描いている。それは、過去に属する人間が未来へ託する複雑な思いと言えるだろう。原作ではタンクレディとアンジェリカは来るべき時代の権力主義と拝金主義を象徴する存在として描かれている。日和見的で野心の強いタンクレディは結果として金と権力のためにアンジェリカと結婚する。一方のアンジェリカは社会的地位という見栄のためにタンクレディと結婚する。その結婚生活は瞬く間に破綻し、2人は醜悪な怪物へと変貌していくのだ。シチリアの歴史的側面から見ても、タンクレディとアンジェリカの世代はマフィアやファシズムの原点と言えるだろう。ヴィスコンティは映画版の中で、そうした負の要素を極力排除しながらも、随所で明らかにその予兆を匂わせている。そして、彼はその不安を当時のイタリアの社会状況に重ね合わせていたと見てもいいだろう。
 1950年代から60年代にかけてのイタリアは高度成長期の真っ只中で、それに伴って新しい価値観を持った世代が台頭しつつあった。だが一方で社会情勢は依然として不安定で、極右と極左がぶつかり合うような状態だった。それがやがて、70年代のテロと汚職の時代へと繋がっていくことになるわけだ。ヴィスコンティはこの「山猫」で、没落していく古い世代であるサリーナ公爵の目を通して、現代イタリア社会の未来を憂いでいたのかもしれない。

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野心的なタンクレディ(A・ドロン)
「山猫」より

地主の娘アンジェリカ(C・カルディナーレ)
「山猫」より

豪華な晩餐会シーン
「山猫」より

 もちろん、本作の面白さはそれだけではない。自身が貴族の末裔であるヴィスコンティならではの、失われた時代への憧憬、そして自分が属する階級に対する嫌悪感という、相反する心情の葛藤もまた、本作の大きな魅力となっている。古き良き時代の優雅な貴族の生活を丁寧に再現しつつ、その伝統や格式ばかりを重んじるがために堕落し、無力となってしまった貴族たちの愚かさを冷静な目で描いているのだ。
 その象徴が、全体の三分の一を占めるクライマックスの舞踏会シーンだろう。華やかな社交界で繰り広げられる浅はかな貴族たちの醜態。サリーナ公爵にとって見れば、成り上がり者のドン・カロジェロも退廃的な貴族たちも、同じように愚かな存在でしかないように思える。だが、それこそが彼の属する社会の実態なのだ。そして、彼にはもうどうする事も出来ない。老いて死に行くだけの存在である“山猫”には、もう何をする余力も残されていないのだ。その無力感が甘いノスタルジーと混ざり合い、何とも言えぬ不思議な味わいを醸し出す。
 ヴィスコンティ自身が伝統的な貴族の価値観の中で育った事を併せて考えると、この作品は自らレジスタンスに身を投じたこともある反骨の闘士である彼の、己のアイデンティティに対する複雑な心情の記録でもあったように思う。

 その自らの分身ともいえるサリーナ公爵をバート・ランカスターが演じるということに、ヴィスコンティは当初猛反発したという。そもそも、彼が念頭に置いていたのは「イワン雷帝」で有名なロシアの俳優セルゲイ・チェルカソフだった。しかし、チェルカソフがアル中で仕事にならないだろう事を知らされた彼は、次にローレンス・オリヴィエを指名した。だが、オリヴィエには健康問題を理由に断られてしまった。そこで、プロデューサーのゴッフレード・ロンバルドが提案したのがバート・ランカスターの起用だった。「山猫」のような超大作には、客を呼べるビッグネームが必要だったのだ。だがヴィスコンティはロンバルドの提案に猛反対。アメリカ人の俳優にシシリアの貴族を演じることなんて出来っこない、というわけだ。
 そこでロンバルドはヴィスコンティに内緒で渡米し、ランカスターの出演を取り付けてきてしまう。当然、ヴィスコンティは面白くない。撮影の初日から険悪なムードだったという。舞踏会のシーンから撮影が開始されたのだが、ヴィスコンティはランカスターのダンスに問題があると言って撮影を中断。ランカスターがダンスを完璧にマスターするまで、別室でシャンパンを飲んでいたという。その後も、撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノを介してお互いにコミュニケーションを取るなど距離を置いていたが、次第にヴィスコンティはランカスターの実力を認めるようになった。半年に及ぶ撮影が終わった頃には、2人は無二の親友になっていたという。
 ヴィスコンティは気難しいことで有名な人物だったが、才能のある人間には非常に寛大だった。自らが完璧主義者であるがために、一緒に仕事をする相手にも完璧であることを求めていたのだ。クラウディア・カルディナーレは、ヴィスコンティが“現場では信じられないくらいに残酷になれる人だった”と語っている。ゆえに、当時のイタリア映画界でヴィスコンティと一緒に仕事をするというのは、一流の才能であるという証でもあったようだ。
 本作でも彼は徹底した完璧主義ぶりを発揮している。19世紀半ばの貴族の生活を忠実に再現するために、ありとあらゆる“本物”が集められた。舞台となる館や舞踏会場は本物の貴族の邸宅が使用され、そこにはありとあらゆる本物の調度品が用意された。壁紙にはシルクの織物が使用され、室内に飾られる絵画も全て本物が調達された。テーブルやベランダに飾られる花はシチリア産のものがお気に召さなかったため、毎週のようにサンレモから大量の花が送られてきたという。
 舞踏会シーンには400人以上のエキストラが用意され、その三分の一が本物の貴族の末裔だった。ロウソクの灯りで照らされた当時の舞踏会の雰囲気を忠実に再現するように、撮影は夜の9時から行われた。撮影されたのが8月で、しかも大量のロウソクが使用されたため、現場は蒸し風呂のような暑さだったという。
 そして何よりも圧巻なのはパレルモでの戦闘シーンだろう。大量のエキストラを配して撮影が行われているのだが、エキストラの一人一人に徹底した演技指導が行われていることもあって、無駄な動きをしている人間が一人もいないのだ。誰もが己の役柄を心得ていて、しっかりとした演技をしている。それが群衆となって巨大なスクリーンを動き回るのだから、それはもう壮観としか言いようがない。
 もちろん、バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレといった豪華な主演陣に加え、名優ばかりを揃えた脇役の演技も見応えたっぷり。中でも、無学だが計算高くて狡猾な成り上がり者ドン・カロジェロ役を演じるパオロ・ストッパ、古い価値観に凝り固まった公爵夫人を演じるリーナ・モレッリ、サリーナ公爵も一目置くようになる温厚で思慮深い使者シュヴァレイを演じるイギリスの名脇役レスリー・フレンチが印象的。また、マリオ・ジロッティ(テレンス・ヒル)、イーダ・ガリ(イヴリン・スチュアート)、ジュリアーノ・ジェンマといったマカロニ・ウェスタンで有名になる俳優たちが出演しているのも興味深いし、パゾリーニ作品でも知られるフランスの個性的な俳優ピエール・クレメンティが公爵家のひ弱な長男を演じているのにも注目したい。
 しかし、これだけ贅を尽くした作品ゆえに製作費はどんどんと増えいってしまい、最終的には29億リラにまで膨れ上がってしまった。一時期は制作会社のチタヌスが倒産しかけてしまったが、事前に配給権を20世紀フォックスやパテに販売したおかげで何とか持ちこたえたという。
 こうした撮影秘話も含めて、とにかくスケールの大きい作品であり、ヴィスコンティの巨匠としての底力をまざまざと見せ付けてくれるのが、この「山猫」という映画なのだ。

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シチリアに再現された公爵家の別荘
「山猫」より

クライマックスの舞踏会シーン
「山猫」より

 なお、本作のDVDは上記のアメリカ盤が究極の決定版と言えるだろう。発売元はクライテリオン社。独自のリマスター技術で、世界最高峰の映像・音声クオリティを誇るクライテリオンならではの、驚きの高画質が体験できる。しかも、イタリア公開版とアメリカ公開版の両方を収録しており、さらには1時間以上に及ぶオリジナル・ドキュメンタリーまで付いてくる。このドキュメンタリーがまた必見で、ヴィスコンティ映画には欠かせない女流脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコやエンリコ・メディオーリ、衣装デザイナーのピエロ・トージ、美術監督のマリオ・ガルブリア、撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノ、アメリカ公開版を監修したシドニー・ポラック、そしてアンジェリカ役のクラウディア・カルディナーレなどのインタビューが収録されている。これがとにかく面白い。撮影秘話だけではなく、ヴィスコンティの人物像やアメリカ公開版にまつわる様々な問題など、当事者ならではの生々しい証言が次々と飛び出すのだ。また、別枠でプロデューサーのゴッフレード・ロンバルドのインタビューも収録されていて、その内容が現場スタッフの証言と若干食い違ってたりするのがまた興味深かったりする。3枚組で値段は張るが、映画ファンなら是非とも手に入れておきたいアイテムだと思う。

 

地獄に堕ちた勇者ども
The Damned (1969)

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(P)2004 Warner Bros. (Japan)
画質★★★★☆ 音質★★★★☆
DVD使用(日本盤)
カラー/ワイドスクリーン(スクィーズ収録
)/モノラル/音声:英語/字幕:日本語・英語/地域コード:2/157分/製作:イタリア・スイス・西ドイツ

映像特典
ビスコンティ(プロモーション・フィルム)
オリジナル劇場予告編
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
製作:アルフレド・レヴィ
    エヴァー・ハギャッグ
脚本:ニコラ・バダルッコ
    エンリコ・メディオーリ
    ルキノ・ヴィスコンティ
撮影:アルマンド・ナヌッツィ
    パスカリーノ・デ・サンティス
音楽:モーリス・ジャール
出演:ダーク・ボガード
    イングリッド・チューリン
    ヘルムート・グリーム
    ヘルムート・バーガー
    シャーロット・ランプリング
    ルノー・ヴェルレー
    ウンベルト・オルシーニ
    アルブレヒト・シェーンハルス
    ルネ・コルデホフ
    フロリンダ・ボルカン
    ノラ・リッチ

 「山猫」でカンヌ国際映画祭パルム・ドール(グランプリ)を受賞したヴィスコンティは、その後「熊座の淡き星影」('65)、「異邦人」('67)を発表するが、芸術作品としての評価はともかくとして、どちらも興行的には決して満足のいく作品ではなかった。そもそも「山猫」でさえ、劇場公開当初は製作サイドの期待を裏切る興行成績だったという。特にアメリカでは「風と共に去りぬ」と比較するという的外れな宣伝を展開してしまったため、西部劇を期待していた観客にそっぽを向かれてしまった。
 そんなヴィスコンティにとって、「山猫」以来の超大作として取り組んだのが「地獄に堕ちた勇者ども」だったわけだが、当時の観客は相当面食らったのではないだろうかと思う。救いのない破滅的なドラマを軸に、女装から近親相姦、幼児性愛、同性愛とタブー・ネタの連発で、なおかつ血みどろのバイオレンスも満載。「熊座の淡き星影」で近親相姦を題材にしていたヴィスコンティだったが、ある意味でこれだけ悪意に満ちた映画というのも、彼のフィルモグラフィーでは他にないだろう。

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退廃的な美青年マルティン(H・バーガー)
「地獄に堕ちた勇者ども」より

稀代の悪女ソフィー(I・チューリン)
「地獄に堕ちた勇者ども」より

ソフィーの愛人でもあるブルックマン(D・ボガード)
「地獄に堕ちた勇者ども」より

 1933年2月27日、ドイツの鉄鋼会社を経営する大富豪エッセンベック男爵(アルブレヒト・シェーンハルス)の邸宅では、男爵の誕生パーティーが開かれようとしていた。次々と集まってくる一族の面々。ナチスの突撃隊幹部である甥のコンスタンティン(ルネ・コルデホフ)、ナチス親衛隊の大佐であるアシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)、コンスタンティンの息子で大学生のギュンター(ルノー・ヴェルレー)、男爵の姪であるエリザベート(シャーロット・ランプリング)、その夫でナチスに対して反感を持っているタルマン(ウンベルト・オルシーニ)、男爵の息子の未亡人であるソフィー(イングリッド・チューリン)、ソフィーの愛人である総支配人ブルックマン(ダーク・ボガード)。余興の舞台では、ソフィーの息子マルティン(ヘルムート・バーガー)がマレーネ・ディートリヒばりの女装で倒錯的な歌を繰り広げ、一族の人々の苦笑を誘っていた。
 その誕生パーティの最中に、ベルリンの国会議事堂炎上のニュースが届く。それまでナチスを快く思わず距離を置いていた男爵だったが、一族を守るためにナチスと手を組むことを決意する。だが、その晩エッセンベック邸に親衛隊が乱入し、就寝中だった男爵が射殺される。身の危険を感じたタルマンは国外へ逃亡し、親衛隊は彼を男爵殺害の犯人に仕立てた。しかし、本当の実行犯はアシェンバッハに唆されたブルックマンだった。
 こうして一族の大黒柱である男爵を失ったエッセンベック家。事実上の跡取りであるマルティンが、会社の筆頭株主となった。そんなマルティンを操ろうとするのが母ソフィー。母親を溺愛するマザコンのマルティンは、ソフィーの言うなりだった。そこでソフィーはマルティンを言いくるめ、会社の全権を愛人であるブルックマンに委任させる。息子を騙し、愛人と2人で巨大な鉄鋼帝国を牛耳ろうというのだ。
 マルティンにはオルガ(フロリンダ・ボルカン)という娼婦の愛人がいた。たびたび彼女の部屋を訪れていた彼は、同じアパートに住む幼いユダヤ人の少女に目をつけていた。そして、ついにある日少女を犯し、彼女は自殺を遂げてしまう。この事件を揉み消したのがコンスタンティンだった。これでマルティンに貸しを作ったコンスタンティンは、ブルックマンを蹴落として自分がエッセンベック家の全権を手に入れようと画策する。
 このコンスタンティンの企みを知ったソフィーは、親衛隊のアシェンバッハに助けを求めた。折りしも、国防軍と突撃隊の対立が表面化しており、親衛隊は突撃隊の存在を快く思っていなかった。
 そして、ミュンヘンで行われた突撃隊の集会。真夜中まで派手な宴が催され、隊員たちは男だけの乱交パーティーに耽る。そして明け方、武装した親衛隊が乱入し、突撃隊の大虐殺を繰り広げた。ドイツの歴史上悪名高い“長いナイフの夜”事件だ。その混乱に紛れ、アシェンバッハとブルックマンはコンスタンティンを射殺する。
 こうして、アシェンバッハの手引きによって鉄鋼会社の実権を完全に握ったブルックマンとソフィー。だが、母親に利用されていた事に気付いたマルティンは、復讐のためにソフィーの肉体を辱め、近親相姦のショックで彼女は廃人となってしまう。後ろ盾であるソフィーを失ったブルックマンは、既に無用の長物となってしまった。
 すっかりアシェンバッハに洗脳されてしまったマルティンは親衛隊の一員となり、エッセンベック家の富はナチスの思うがままとなっていく・・・。

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冷酷な親衛隊大佐アシェンバッハ(H・グリーム)
「地獄に堕ちた勇者ども」より

男爵の姪エリザベート(C・ランプリング)
「地獄に堕ちた勇者ども」より

悪名高き「長いナイフの夜」
「地獄に堕ちた勇者ども」より

 このエッセンベック家の悲劇というのが、ナチズムに侵食されていく1930年代のドイツ社会の縮図として描かれているのは明らかだろう。ただ、当時のドイツが本当にこれだけ腐敗・退廃していたのかという点については、その時代を全く知らない世代の人間にしてみれば何ともいえないところではある。しかし、第一次世界大戦を経験した当時のヨーロッパを包み込んでいた絶望感や無力感が、ナチズムやファシズムという怪物を肥大化させていったという事を考えると、決して悪趣味な絵空事ではないであろうことも想像に難くない。
 それにしても、ここで展開される退廃と倒錯の世界は異常なまでに強烈なインパクトを放っている。その徹底したリアリズムは、まさに煮えたぎる怒りや憎悪をぶちまけるかのような迫力だ。と同時に、金と権力、そしてセックスといった欲望にまみれ、自ら進んでナチの犠牲となっていく愚かなエッセンベック家の人々に対する、まるで哀れみのような視線をも感じることが出来る。
 そう、ナチスの悪行そのものよりも、それに付け入る隙を与えてしまった人々の方に主眼が置かれているのだ。それはヴィスコンティにとって、同じ時代を生きた人間として過去を振り返る試みであると共に、何があのナチスという巨悪を肥大化させることになったのかという原点を模索する作業だったのかもしれない。それは、エッセンベック家の人々の誰もが罪人(つみびと)であるように、あの時代を生きた人々の全てに何かしらの責任があるのではないか、という己の世代に対する憤りにも似た問いかけなのである。

 本作の原案を手掛けたのはニコラ・バダルッコ。本作と「ベニスに死す」でヴィスコンティと組み、その後マフィア映画やポリス・アクションの脚本を数多く手掛けるようになった人物だ。また、本作では「ベリッシマ」以降ヴィスコンティの全ての作品に携わり、ヴィスコンティ映画の母親役的存在だった女流脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコが参加していないのも興味深い。
 豪華なキャスト陣の中でひときわ目を引くのは、ソフィーを演じるイングリッド・チューリンとマルティンを演じるヘルムート・バーガーの2人だろう。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの作品で世界的に名を馳せたチューリンだが、骨の髄まで腐敗した悪女ソフィーのデカダンな妖しさと不気味さを異様な迫力で演じきっている。このイメージは、その後ティント・ブラス監督の「サロン・キティ」へと受け継がれていく。一方のヘルムート・バーガーもオープニングから女装姿を披露し、破滅型の屈折した美青年マルティンを病的な妖しさで演じている。この作品以降、彼はヴィスコンティ映画の象徴的存在となるわけだが、巨匠の死後は彼の個性を生かせる監督に恵まれず、低予算アクション映画の悪役などを細々と演じていた。「ゴッドファーザーPARTV」ではすっかり頭の薄くなった姿を見せ、その容姿の衰えぶりに複雑な思いを感じたものだった。
 その他、当時日本でアイドル的人気のあったルノー・ヴェルレーやモデル出身らしい華奢な美しさを披露するシャーロット・ランプリング、イギリスを代表する名優ダーク・ボガード、戦前から活躍するドイツの名優アルブレヒト・シェーンハルス、ゲスト出演的な扱いのフロリンダ・ボルカンなど、非常にいい顔をした役者が揃っている。また、エッセンベック家を影で操る親衛隊大佐アシェンバッハを演じるヘルムート・グリームの冷徹な存在感も印象深い。

 本作のDVDは世界配給権を持つワーナーからリリースされており、日本盤もアメリカ盤も内容は全く同じ。画質は大変良好なのだが、映像特典が当時のプロモーション・フィルムと劇場予告編だけというのはちょっと寂しいかもしれない。

 

ベニスに死す
Morte a Venezia (1971)

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(P)2004 Warner Bros, (Japan)
画質★★★★☆ 音質★★★★☆

DVD仕様(日本盤)
カラー/ワイドスクリーン(スクィーズ収録
)/モノラル/音声:英語・ポルトガル語/
字幕:英語・スペイン語・ポルトガル語・日本語・中国語・タイ語・ハングル・インドネシア語/地域コード:2/130分/製作
:イタリア・フランス

映像特典
ビスコンティのベニス(ドキュメンタリー)
スチル・ギャラリー
オリジナル劇場予告編

監督:ルキノ・ヴィスコンティ
製作:ルキノ・ヴィスコンティ
原作:トーマス・マン
脚本:ニコラ・バダルッコ
    ルキノ・ヴィスコンティ
撮影:パスカリーノ・デ・サンティス
音楽:グスタフ・マーラー
出演:ダーク・ボガード
    ビヨルン・アンドレセン
    シルヴァーナ・マンガーノ
    ロモロ・ヴァッリ
    マーク・バーンズ
    ノラ・リッチ
    マリサ・ベレンソン
    カロル・アンドレ
    レスリー・フレンチ
    フランコ・ファブリーツィ

 前作「地獄に堕ちた勇者ども」で退廃とセックスと暴力の世界を描いたヴィスコンティが、一転して老境にさしかかった作曲家の美と若さへの憧れを静かに格調高く描いた作品。自らバイセクシャルである事を公言して憚らず、美少年や美青年を愛してやまなかったヴィスコンティならではの、美しくも残酷な愛の物語と言えるだろう。

 20世紀初頭のベニス。ドイツの高名な作曲家アシェンバッハ(ダーク・ボガード)は、心臓病の療養のためにイタリアを訪れていた。しかし、彼が抱えていたのは体の病だけではなかった。幼い娘を病気で失い、そのショックから作曲家としてスランプに陥り、最愛の妻(マリサ・ベレンソン)とも離別してしまった彼は、文字通り心身ともに疲れきってしまっていたのだ。
 宿泊先である高級ホテルのラウンジで新聞を読んでいた彼は、一人の美しい少年に目を奪われる。母親(シルヴァーナ・マンガーノ)ら家族と共にバカンスを過ごしている彼はポーランド人で、名前をタッジョ(ビヨルン・アンドレセン)といった。思わず彼の姿を目で追うアシェンバッハ。その視線に気付いたかのように、時折りアッシェンバッハの方に目を向けるタッジョ。初めて恋をした少年のようにアシェンバッハは胸をときめかすのだった。
 しかし、ベニスの蒸し暑さはアシェンバッハの体にこたえてしまい、彼は後ろ髪を引かれる思いでベニスを後にする。だが、駅では彼の荷物が手違いで別の場所に行ってしまい、仕方なくベニスのホテルに戻ることにする。旅行会社の不手際に苛立ちながらも、再びタッジョに会えるという思いから喜びを隠せないアシェンバッハ。
 それ以来、彼は毎日タッジョの姿を捜し求め、その抑え切れない思いから、より大胆な行動を取るようになる。そんなアシェンバッハの様子を察しながら、それとなく気のあるふりを見せるタッジョ。アシェンバッハはすっかり舞い上がってしまい、遠くの海辺で遊ぶタッジョに思わず手を振ってしまうのだった。
 バカンス・シーズンも終わりにさしかかった頃、ベニスではコレラが蔓延し始める。タッジョの一家に知らせようと、意を決して母親に声をかけるアシェンバッハだったが、緊張のあまり上手く伝えることができなかった。
 それでも、もっとタッジョに近づきたいと願う彼は、美容室で髪を黒く染め、顔に化粧をほどこしてベニスの街をうろつくのだった。それはまるで、失われた若さを取り戻そうとするかのように。しかし、タッジョの一家はベニスを去ることになり、髪の染料や化粧が溶け出して醜い姿となったアシェンバッハは一人海辺でタッジョの姿を遠くに眺めながら、寂しく息を引き取るのだった。

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ベニスを訪れた作曲家アシェンバッハ(D・ボガード)
「ベニスに死す」より

美少年タッジョ(B・アンドレセン)
「ベニスに死す」より

 美少年映画の傑作、同性愛映画の傑作、と呼ばれることの多い「ベニスに死す」だが、直接的にゲイの世界を描いているわけではない。アシェンバッハのタッジョに対する思いはセクシャルなものではなく、極めてプラトニックなものであり、愛というよりは羨望に近いものだろう。そこには、老いて若さを失い、さらには作曲家としての創造力さえも失ってしまった芸術家の、美と若さへの痛々しいまでの憧れが表現されている。冒頭でアシェンバッハは、髪を黒く染めてケバケバしい化粧をしている老人の姿に眉をひそめていたが、結果的には自分も同じように髪を染めて化粧をすることになる。たとえまやかしでもいい、若さを取り戻して、あの美しいタッジョと共にもう一度青春を味わいたい。その願いが、いかに子供じみていて愚かなことなのかという分別すらつかなくなってしまうほど、彼は若さというものに異常な執着を見せるのだ。
 原作はドイツの文豪トーマス・マンの小説だが、ヴィスコンティはこの主人公アシェンバッハに自らの姿を投影している。それは老境にさしかかった一人の芸術家としてのヴィスコンティと、かつては絶世の美青年だった一人の老人としてのヴィスコンティ、その両方の姿なのであろう。しかし、一歩間違えれば感傷的なメロドラマになってしまう物語を、ヴィスコンティは非常に冷静な目で描いていく。結局、現実から目を背けてしまった老人を待っているものは、破滅的な最期でしかないのだ。
 なお、原作では主人公は作家という設定になっているが、ヴィスコンティは彼を作曲家に変更した。それと共に、全編に渡ってマーラーの交響曲を効果的に使っている。特に、ベニスの幻想的な風景とマーラーのロマンティックなメロディが印象的なオープニングは、鳥肌が立つくらいに荘厳で美しい。

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タッジョの母親(S・マンガーノ)
「ベニスに死す」より

海辺でタッジョの姿を探すアシェンバッハ
「ベニスに死す」より

 アシェンバッハ役のダーク・ボガードは、「地獄に堕ちた勇者」どもから引き続いてのヴィスコンティ作品出演となるが、親子以上に年の離れた少年に心を奪われてしまう初老男性の戸惑いやときめきを絶妙に演じていて、とにかく上手い。もともとイギリスのマチネー・アイドルとして絶大な人気を誇り、ハリウッドからも再三オファーがあったものの断り続けた二枚目スター。しかも、プライベートではゲイであったと言われており、マネージャーだった男性と長年に渡って生活を共にしていた。そんな彼がアシェンバッハを演じるというのも、何とも残酷な話ではあるが、ヴィスコンティとの強い信頼関係があってこそのキャスティングだったのだろう。
 そして、ビヨルン・アンドレセン。当時の彼は、衝撃的なくらいに美しい少年だった。アシェンバッハでなくとも、思わず見とれてしまうに違いない。この作品の撮影中に、ヴィスコンティはたびたび彼をゲイ・クラブに連れて行ったそうだが、そうやって自慢したくなるのも無理はなかろう。しかし、当時ビヨルン・アンドレセンはまだ16歳。ゲイ・クラブに入っても問題はなかったのか!?いずれにせよ、年齢というのは残酷なもので、その後の彼は年を経るごとに容姿が衰えていき、まったく平凡な大人になってしまった。現在も母国スウェーデンでは俳優活動を細々と続けているようだ。
 また、本作で強い印象を残すのはタッジョの母親を演じるシルヴァーナ・マンガーノ。その神々しいばかりの美しさと高貴な佇まいは、ある種の威圧感すら放っている。ヴィスコンティは自らの母親をイメージして彼女をキャスティングしたのだそうだが、スクリーンに姿を見せるだけで他を圧するような存在感を見せ付けるのは、さすがイタリアを代表する大女優である。
 その他、当時世界的に有名なファッション・モデルだったマリサ・ベレンソンがアシェンバッハの妻役を、ハリウッドにも進出したフランス女優ギャビー・アンドレの娘で、マカロニ・ウェスタンでも活躍した女優カロル・アンドレがアシェンバッハの心を癒す売春婦エスメラルダ役を演じている。また。ホテル・マネージャー役のロモロ・ヴァリや旅行エージェント役のレスリー・フレンチなど、ヴィスコンティ映画でお馴染みの顔が脇を固めているのも嬉しい。

 なお、本作のDVDは「地獄に堕ちた勇者ども」と同じくワーナーからの発売。画質そのものは素晴らしいが、やはり映像特典の少なさに不満が残る。

 

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