ラリーサ・シェピチコ Larisa Shepitko
ソビエト映画の忘れられた至宝

 

LARISA_SHEPITKO.JPG

 

 “ソビエトで最も偉大な女流映画監督”と呼ばれながらも、1979年に41歳の若さで交通事故のため急逝してしまい、ロシア以外の国ではほぼ忘れられた存在だったラリーサ・シェピチコ。しかし、近年になって欧米では彼女の作品を特集した回顧上映や代表作のDVD発売などが相次ぎ、にわかに再評価の波が押し寄せている。
 その生涯に残した長編監督作はわずか5本。そのうちの1本は別の監督と共同で撮ったオムニバス映画なので、厳密に言うとたった4本の長編劇映画しか残していないことになる。当時のソビエト映画はどれも多かれ少なかれプロパガンダ的な要素を含んでいたわけだが、彼女の作品は一貫して個人の内面的な葛藤に焦点を当て、時には社会主義体制への批判や風刺とも取れるような内容まで盛り込んでいた。
 一方、その語り口は詩的かつ繊細。独特のリズム感というか、映像と音の組み合わせを自在に操りながら、登場人物の揺れ動く内面や心象を静と動の絶妙なコントラストの中で表現していく。セリフや役者の演技に頼ることなく、人間の感情や物語の核心を映像と音の力によって見る者へ感覚的に訴えていくのだ。言うなれば映像の詩人。紛れもないビジュアリストであったと言えよう。

 1938年1月6日、シェピチコはウクライナ共和国の地方都市アルチェミフスクに生まれた。父親はペルシャ系の軍人で、母親は学校教師。彼女がまだ幼い頃に両親は離婚し、母親が女手ひとつで3人の子供を育てた。家族を棄てた父親のことを、彼女は生涯許さなかったという。
 16歳のときに単身モスクワへ移り住んだシェピチコは、55年にVGIK(全ロシア映画大学)へ入学する。VGIKは世界で最初の映画専門大学であり、セルゲイ・ボンダルチュクやセルゲイ・パラジャーノフ、ニキータ・ミハルコフなどの世界的な巨匠を輩出した名門。シェピチコの同世代にも、アンドレイ・タルコフスキーやアンドレイ・コンチャロフスキー、そして未来の夫であるエレム・クリモフといった錚々たるメンツが揃っていた。
 このVGIK時代に彼女が多大な影響を受けたのが、恩師でもあった映画監督アレクサンドル・ドヴジェンコ。エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』(25)やプドフキンの『母』(26)と並ぶ、サイレント期ソビエト映画の金字塔『大地』(30)で知られる巨匠だ。
 同じウクライナの出身ということもあってドヴジェンコに親近感を持った彼女は、“農村の映画詩人”とも呼ばれた彼の哲学的かつ形而上学的な映画理念とポエティックかつ社会派リアリズム的なビジュアル世界に強く惹かれたという。タルコフスキーやコンチャロフスキーも同じくドヴジェンコに強い影響を受け、いわゆる“雪解けの時代”以降のソビエト映画新世代を代表する存在となったことを考えると、非常に興味深いエピソードと言える。
 そんなシェピチコの長編処女作となったのが、卒業制作として作られた“Znoi(暑熱)”(63)。これは理想主義者の学生とスターリン主義に凝り固まった農村リーダーの対立を描いた政治色の強い作品で、当時のフルシチョフ体制下における時代の空気を如実に現したものだった。
 ちなみに、この作品の撮影中に彼女は病で体調を崩してしまった。だが、卒業制作を先延ばしにすることは出来ない。そこで彼女が助けを求めたのが、同級生のエレム・クリモフだった。
 実は、クリモフは以前からシェピチコに恋愛感情を抱いていたという。そもそも、入学当時から彼女は目の醒めるような美人として学内では大変有名で、勇気を出してプロポーズをした男子学生も少なくなかったらしい。クリモフもその一人だったわけだが、映画制作に夢中で恋愛など眼中になかったシェピチコは、そうした異性からのアプローチをことごとく断っていた。なので、彼女からの応援要請はクリモフにとって嬉しい驚きだったに違いない。
 かくして、病に伏したシェピチコの代理として撮影現場を仕切ったクリモフ。これをきっかけに二人は志を同じくするパートナーとして硬い絆で結ばれ、やがて卒業からほどなくして結婚することとなった。

 その後、プロの映画監督となったシェピチコは、66年に監督2作目となる“Krylya(翼)”を発表する。かつて第2次世界大戦の英雄として活躍した女性ナージャだが、今では地方都市の工業高校でしがない校長生活を送っている。若かりし頃に信じた社会主義の理想と現代ソビエト社会の現実との狭間で揺れ動くナージャの心。
 シェピチコはそんな彼女の日常を淡々と追いながら、彼女の苦悩や葛藤、老いの不安や青春時代への憧憬をポエジーとリアリズムを織り交ぜながら丹念に描き、ソビエトにおける激動の時代を個人の視点から浮き彫りにした。ソビエト映画を代表する女性映画とも言うべき傑作だ。
 しかし、多分に社会批判的な意味合いを含んだその内容は、当時のソビエト国内において少なからず問題視され、論議の的となった。なにしろ、64年にフルシチョフは失脚し、代わりに第一書記として指導者の地位に就いたブレジネフは、66年に肩書きをスターリン時代の書記長へと戻したばかり。“雪解けの時代”の波に乗って頭角を現したタルコフスキーやコンチャロフスキー、パラジャーノフ、クリモフ、そしてシェピチコらにとって、まさしく受難の時代が幕を開けたのである。
 67年に発表された“Nachalo Nyevedomogo Veka(未知の時代の始まり)”は、アンドレイ・スミルノフ監督と共同で手掛けたオムニバス映画。10月革命の50周年記念という名目で作られた作品だったが、ボリシェビキをネガティブに描いていることが当局から問題視され、ペレストロイカの時代まで20年間お蔵入りすることとなってしまった。
 この上映禁止措置によって創作活動が制限されることとなってしまったシェピチコだが、71年には彼女にとって唯一のカラー映画である“Ti i Ya(君と僕)”を発表している。これは二人の男性外科医を主人公に、現代ソビエト社会の中で心の拠り所や平安を見出そうとする彼らの迷いと葛藤を描いた作品。ちょうど“Krylya(翼)”の男性版とも言うべき映画だった。
 こうして久々に映画復帰したシェピチコだったが、その直後に長男アントンを出産。これが大変な難産で、彼女は医者から死の危険性を告知された。赤ん坊の命か自分の命か。危険を覚悟で出産を決意した彼女は、生まれて初めて死の恐怖と直面する。その経験をもとに作られたのが、結果として彼女の遺作となってしまった映画『処刑の丘』(76)である。
 舞台は第2次世界大戦下のベラルーシ。食料を求めて雪原の村へ潜入したパルチザンのソトニコフとリューバクは、運悪くドイツ軍に捕らえられてしまう。売国奴のロシア人民警ポルトノフによる情け容赦ない尋問。理想主義者のソトニコフは頑なに口を閉すが、リューバクはたとえ一時的に敵へ協力することになっても、生き残れば復讐するチャンスもあるのではないかと考える。
 己の信念を貫いて潔く死を選ぶのか、裏切り者の謗りを受けても生き残るべきなのか。この究極の選択を通して、シェピチコは人間の生と死の尊厳を宗教的イメージの中で象徴的に描いた。タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』(62)と並ぶ、ソビエト戦争映画の最高峰とも言うべき傑作だ。
 ただし、ソビエト側のナチ密通者について赤裸々に描いていることもあって、当局からは必ずしも好意的に思われなかったという。そのため、翌年のベルリン国際映画祭で金熊賞をはじめ合計で4部門を受賞するという快挙を成し遂げたにも関わらず、ソビエト当局は本作の海外配給に関して消極的だったと言われる。日本でも“ソビエト映画回顧展”などの特殊上映で何度か上映されてはいるものの、正式なロードショー公開はされていない。

 そして、『処刑の丘』のベルリン映画祭受賞から2年後の1979年6月9日、新作のロケハンのためスタッフ4人と車で移動していたシェピチコは、旧カリーニン州(現在のトヴェリ州)の路上で交通事故を起こしてしまう。全員が即死状態だった。撮影が予定されていた映画『別れ』(83)は夫クリモフの手によって完成されたものの、ソビエト映画界は偉大な才能を失ってしまった。学生時代からの盟友タルコフスキーも、彼女の死に大きなショックを隠せなかったという。
 翌年、クリモフは亡き最愛の妻へ捧げたドキュメンタリー“Larisa(ラリーサ)”を発表。85年には『処刑の丘』と違った角度からナチ占領下のベラルーシを描いた戦争映画の傑作『炎628』でモスクワ国際映画祭グランプリを受賞。晩年は、ソビエト時代に不遇の扱いを受けたシェピチコの作品を広く世界へ紹介するべく尽力した。

 

Krylya (1966)
日本では劇場未公開
VHS・DVD共に日本未発売

WINGS-DVD.JPG
(P)2008 Criterion Collection (USA)
画質★★★★☆ 音質★★★☆☆
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダードサイズ/モノラル/音声:ロシア語/字幕:英語/地域コード:1/85分/製作:ソビエト

特典映像
なし
監督:ラリーサ・シェピチコ
製作:V・マスロフ
脚本:ワレンチン・イェジョフ
   ナターリャ・リャザンツェワ
撮影:イーゴリ・スラブネヴィッチ
音楽:ロマン・レジェニョフ
出演:マヤ・ブルガコワ
   ジャンナ・ボロトワ
   パンテレイモン・クリモフ
   レオニード・ドゥアチュコフ
   ユーリ・メドヴェージェフ
   セルゲイ・ニコネンコ
   ジャンナ・アレクサンドロワ
   ウラジーミル・ゴレロフ

WINGS-1.JPG WINGS-2.JPG WINGS-3.JPG

工業高校の厳格な校長ナージャ(M・ブルガコワ)

問題を起こした不良少年セルゲイ(S・ニコネンコ)を退学に

戦闘機パイロットとして第二次大戦の英雄だったナージャ

 シェピチコ監督の長編劇映画第2弾にして、初の劇場用公開作。かつて戦闘機パイロットとして活躍した第2次世界大戦の英雄でありながら、今は工業高校の校長として平凡な生活を送る中年女性ナージャを主人公に、社会主義の理想と現実の狭間で揺れ動くヒロインの心を繊細なタッチで綴った珠玉の名作である。
 地方都市の工業高校で校長を務める女性ナージャ。スターリン体制下で社会主義の理想を心から信じ、愛する祖国と仲間のために戦闘機パイロットとしてナチと戦った彼女だが、それも今は昔の栄光だ。
 自由で平和な“雪解けの時代”の空気の中で育った若者たちは親の世代の言うことなど聞かず、目上の者に反抗的な態度を取る者も少なくない。女手ひとつで育てた娘ターニャも勝手に年上の男と結婚してしまい、立派過ぎる母親のことを敬遠する始末。貧しさゆえに学校へ行くこともままならず、社会や国家のために自己を犠牲にすることが当たり前だと信じて育った彼女には、豊富な教養を身につけ、文学や芸術の論議に花を咲かせる現代のインテリ世代のことが理解出来ない。
 しかも、都市部では貧困による若者の犯罪が後を絶たず、離婚や失業などの社会問題も目につく。社会主義国家の理想を実現するために国民が一致団結していた時代とは違い、今のソビエトの市民生活は決して単純ではないのだ。
 かつての理想とは程遠い今の現実に直面し、苦悩や葛藤を抱えながら日々を送るナージャ。そんな彼女が時おりふと思いを馳せるのは、希望に燃えていた青春時代、戦闘機に乗って大空を自由に駆け回っていたあの頃、そして志を共にした最愛の恋人ミーチャとの想い出。
 しかし、その輝かしい過去も、今では戦争記念館の展示物に埋もれてしまっている。伝説の女性パイロット、ナージャの偉業を讃える記念館のガイドに、“彼女はまだ生きているの?”と問いかける少女。その本人がすぐ近くにいることも、誰一人として気付かない。人々の記憶から忘れられつつあるあの時代。なんのために自分は命がけで闘ったのか?なんのために愛するミーチャは戦場で命を落としたのか?
 本作はそんなナージャの日常を淡々とカメラで追いながら、彼女の複雑な心情を丁寧に丁寧に描いていく。詩情豊かなロマンティシズムと冷徹なリアリズムを、絶妙なバランスで織り交ぜたシェピチコの演出がなんとも瑞々しい。
 退屈で虚しい現実から逃避するかのように、大空を自由に飛びまわっていた日々や恋人ミーチャとの想い出へとフラッシュバックするナージャ。そのファンタジーとリアリティの境界線を、独特な映像のカットと生活音の空白、遠くで囁くような音楽のメロディによって表現していく手法がとても新鮮だ。
 本作ではこの特徴的な間隔のリズムというのが映像や音、役者の演技など全編を通して活用されており、それがナージャの戸惑いや葛藤、郷愁といった心の内を、言葉ではなく感覚として観客に伝える、つまり体験させるという不思議な効果を生み出している。
 本作の公開当時シェピチコはまだ28歳。その20代という若さで、人生の黄昏時を迎えた女性の内面をこれだけ豊かに表現することができたというだけでも、十分賞賛に値するだろう。イデオロギーや文化、そして時代の壁を越えて、夢や理想に燃えた青春の記憶を持つ全ての人々が深く感動・共感できる映画だと言える。
 あえて明確な結論やクライマックスを提示することなく、もちろん安っぽいお涙頂戴なども一切見せることなく、再び大空へと自由に羽ばたいていったヒロインの姿を白い画面にフェードアウトで映し出しながら、見る者それぞれの答えを促していくエンディングの余韻もまた素晴らしい。

WINGS-4.JPG WINGS-5.JPG WINGS-6.JPG

疎遠になった娘ターニャ(G・ボロトワ)のもとを訪れる

ナージャの存在が祝賀ムードに水を差してしまう

戦友パヴェル(P・クリモフ)に不満を洩らすナージャ

 第2次世界大戦の英雄を表彰する式典で、会場に集まった人々から喝采を浴びる中年女性ナージャ(マヤ・ブルガコワ)。かつて戦闘機のパイロットとしてナチスと勇敢に戦った彼女だが、現在は工業高校の校長として忙しい毎日を送っている。
 会場には教え子たちも来ていた。お転婆娘のジーナ(ジャンナ・アレクサンドロワ)は不良少年セルゲイ(セルゲイ・ニコネンコ)のことを意識しており、なにかにつけてちょっかいを出す。からかわれたセルゲイは、思わずジーナのことを公衆の面前で引っ叩いてしまった。その場に通りかかったナージャは、みんなの前でジーナに謝るようセルゲイに促すが、彼は反抗的な態度でそれを拒絶。ナージャは罰としてセルゲイを退学させることにした。
 ナージャは一人娘ターニャ(ジャンナ・ボロトワ)を女手一つで育てたが、結婚して出て行ったため今は一人暮らし。近所に住む戦友パヴェル(パンテレイモン・クリモフ)が唯一の話し相手だ。ナージャはパヴェルに友情以上のものを感じているものの、それを口に出すことはない。カーテン生地で作った質素なスーツにショートカットでノーメイク。お洒落のことなど気にしたことのない彼女は、恋愛なんぞは縁のないものだと考えているようだ。
 日曜日に近所の子供たちを連れて川へ水遊びに行ったナージャは、その帰りに飛行場へ寄ってみた。今は指導者となったかつての戦友と愉快に語らい、大空を駆け巡っていた日々へと思いを馳せる。
 帰宅して夕飯の準備をしていたが、自分一人のために料理をするなんてバカらしく思え、街のレストランで食事をすることにした。しかし、夜の6時以降は男性の同伴がないと女性はレストランに入れない。憤慨する彼女に、店の中から声をかける中年男性がいた。かつての戦友だ。
 その言葉に甘えて、戦友の仲間たちとテーブルを共にするナージャ。ふと向かいのテーブルを見ると、退学させたばかりのセルゲイがビールを飲んでいる。眉をひそめるナージャに気まずそうな顔をするセルゲイ。しかし、ナージャが酔っ払いに絡まれると、セルゲイは小ばかにするような目で彼女を見返した。
 ナージャは娘ターニャのもとを訪れる。結婚するといって家を出てから、娘と会うのはこれが初めて。ターニャは母親を避けているかのようだった。というのも、もともとナージャは娘の結婚には反対。なにしろ、相手のイーゴリ(ウラジーミル・ゴレロフ)は娘より10歳以上も年上で、しかもバツイチという30代男性だからだ。
 ターニャの新居には夫婦の友人らも集まっていた。誰もがナージャのことを知っている。この第2次世界大戦の英雄にして生ける伝説のご登場に、若い世代の彼らは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。一方、ナージャも文学や演劇、ジャズの話題で論議を繰り広げる娘の友人たちの話などチンプンカンプン。自分が歓迎されていないことも分かっていたが、誇り高い彼女は笑顔で娘夫婦の結婚を祝した。
 だが、そんなナージャも心の内では深く傷ついていた。実はターニャは養女だった。だが、本人にはまだその事実を伝えていない。女の子だったらきっと将来母親の気持ちを分ってくれる。そう考えて女の子を引き取ったのに、娘との心の溝は広がるばかり。男の子を養子にした方が良かったのだろうか?苛立ちを抑えきれない彼女は、自分を心配してくれるパヴェルに辛く当たるのだった。

WINGS-7.JPG WINGS-8.JPG WINGS-9.JPG

不満だらけの現実を前にナージャが思いを馳せるのは・・・

大空を自由に飛びまわった青春の日々だった

母の体を気遣うターニャだったが・・・

 学校ではダンス発表会の準備が迫っていた。セルゲイもメンバーなので、彼の行方を捜さなければいけない。彼の友人を探して校舎を歩き回ったナージャは、生徒たちが壁に落書きした自分の似顔絵を発見する。それは意地悪そうな老婆の姿だった。気にしないふりをしてやり過ごすナージャ。
 やがて発表会の当日がやって来た。当然のことながらセルゲイは会場に姿を見せない。彼が退学させられたことに腹を立てたジーナも、泣きながら出て行ってしまった。仕方なくナージャは自ら巨大なマトリョーシカの中に入ってダンスを披露した。
 ナージャはセルゲイの実家を訪れる。家族はみな出払っていて、同居する老女が応対に出た。セルゲイの兄はストリート・ギャングのメンバーで、窃盗の罪で服役中だった。しかも、父親は日頃から彼に激しい虐待を加えているらしい。そんな家族に嫌気がさし、彼は家を飛び出したままだった。ナージャは戦友である警察署長に電話をかけ、セルゲイの行方を捜すよう頼む。
 自宅に戻ると、娘ターニャが来ていた。依然としてよそよそしさは残るものの、それでも自分を犠牲にして忙しい毎日を送る母親のことを心配している様子だ。もっと楽にすればいいのに。まだまだ恋愛や結婚だって出来るはず。一人で全ての責任を背負ったりしないで、誰か他人に任せればいいのでは?
 その娘の言葉を聞いて、ナージャは怒りを露わにした。自分の娘からそんな言葉を聞くことになるとは。自分は確かに田舎者だし洗練もされていない。昔ながらの粗野な兵隊だもの。でも、他人に任せるなんてこれまで一度だって考えたことなどない。私は人々のために全力を尽くしてきた。やりたいことを選んだりなんかしない。それを後悔した事だってない。あなたはそんな私を憐れんでいるのだろうけど、本来ならば私を妬むべきだ。そう言って、ナージャは娘を追い返した。
 セルゲイが見つかった。教頭のグリゴリエヴィッチ(ユーリ・メドヴェージェフ)や級友たちに付き添われて校長室に入ってきたセルゲイは、ナージャの前でジーナに謝罪をする。だが、それが口先だけの言葉だとナージャは見抜いていた。嘘は絶対に認められない。なぜ嘘をつくのか?なぜあなたは尊大なのか?ナージャはセルゲイに問いただす。そんな彼女にセルゲイは、僕はあなたを軽蔑する、と言い残して学校を去っていった。
 客足の引いたレストランを訪れたナージャ。同世代のウェイトレス、シューラ(リマ・ニキチーナ=マルコワ)とサンドイッチを食べ、ビールを飲み交わしながら、戦前や戦時中の思い出話に花を咲かせる。シューラも苦労人だった。夫は愛人を作って家を飛び出し、女手ひとつで子供たちを育てた。若い頃はモスクワに住んでいたこともある。あの頃の暮らしが懐かしい。決して幸せとはいえない今の生活。それでもシューラは明るくて逞しかった。
 気分良く店を出て、路上の八百屋でブルーベリーを買ったナージャ。洗って食べようと思ったが、水道から水が出ない。すると、突然にわか雨が降ってきた。雨宿りをする人々。雨に濡れた石畳の道路を眺めるナージャの目には、遥か遠くへ過ぎ去った青春の光景が鮮やかに甦る。
 それは野戦病院でのこと。雨に濡れた田舎道を向うから歩いてくるのは、忘れもしない最愛の人ミーチャ(レオニード・ドゥアチュコフ)。彼もまた優秀な戦闘機パイロットだった。将来の夢を語り合い、お互いの愛を確かめ合い、共に戦い抜く事を誓い合った短い日々。だが、そんな彼もナージャの目の前で戦場に散っていった。
 ナージャは戦争記念館を訪れる。館長を務めるパヴェルに会うためだ。展示パネルにはドイツ軍の爆撃機を撃墜した英雄たちの写真が飾られている。もちろん、ナージャやミーチャの写真も含まれている。ガイドの説明を聞いていた幼い少女が、“彼女はまだ生きているの?”とナージャのことを訊ねた。
 すぐ傍に本人がいるにも関わらず、誰一人として彼女のことを気がつかない。子供たちが去った後、ナージャは若かりし頃の自分の写真、そして未だ忘れられない恋人ミーチャの写真を眺めて深い感慨に耽る。私たちは博物館の展示物になってしまった、と・・・。

WINGS-10.JPG WINGS-11.JPG WINGS-12.JPG

行方をくらましていたセルゲイがナージャに謝罪する

ナージャはそれが本音ではないと気付いていた

人ごみの中で物思いにふけるナージャ

 個人的に一番好きなのは、恋人ミーチャとの想い出が鮮明に甦るシーン。土砂降りの雨の中、何かに心を奪われたかのごとく立ち尽くすナージャ。雨に濡れた石畳の坂道を、カメラがゆっくりと下っていく。突然周囲の音が一切消え、遠くからかすかに聞こえてくるバイオリンの音色。画面は舗装されていない雨の田舎道へと切り替わり、遠くから若い男性がこちらへと歩いてくる。ミーチャだ。カメラはナージャの目となり、記憶の中のミーチャの姿を焼き付けるがごとく、彼の表情や仕草を随所で静止させていく。なんとも幻想的で、美しくも切ない名場面である。
 脚本を手掛けたのは、グリゴリー・チュフライ監督の傑作『誓いの休暇』(59)で米アカデミー賞にもノミネートされたことのあるワレンチン・イェジョフと、ファンタジー映画の名作「真紅の花」(77・日本未公開)などを書いた女流脚本家ナターリャ・リャザンツェワの二人。ヒロインの何げない日常のひとコマを積み重ねながら、一人の女性の過去と現在を叙情性豊かに浮かび上がらせていく脚本は、シンプルなようでいて実は非常に手が込んでいる。
 そして、ドキュメンタリー・タッチの美しいモノクロ映像を手掛けたのは、アカデミー外国語映画賞を獲得した名作『モスクワは涙を信じない』(80)で知られるカメラマン、イーゴリ・スラブネヴィッチ。リアリズムの中にファンタジックな要素を忍び込ませ、どこかシュールな魅力さえ感じさせるのは、やはり彼の繊細なカメラワークのおかげであろう。

WINGS-13.JPG WINGS-14.JPG WINGS-15.JPG

ウェイトレスのシューラとビールを飲み交わす

降りしきる雨の向うにナージャが見たもの・・・

それは戦死した恋人ミーチャ(L・ドゥアチュコフ)だった

 さらに、本作ではナージャ役として、当時まだ33歳だった女優マヤ・ブルガコワを起用したのも大正解だった。ブルガコワは名匠グリゴリー・ロシャリーの「ヴォルガの炎」(55・日本未公開)や、レフ・クリジャーノフの傑作『罪と罰』(70)などにも出演していた名脇役。ここでは、実年齢よりも遥かに年上の中年女性を演じているわけだが、見るからに不器用で生真面目で頑固なナージャの時おり見せる女性らしい素顔に大変な説得力があった。
 また、ナージャを励ますレストランのウェイトレス、シューラを演じているリマ・ニキチーナ=マルコワも良かった。いかにも逞しい肝っ玉母さんといった風情だが、若い頃は華やかな美人だったであろうことをうかがわせるような色気がある。とはいえ、撮影当時の彼女はまだ43歳。最近では、日本でも話題になったホラー・ファンタジー映画『ナイト・ウォッチ』(04)と『デイ・ウォッチ』(06)で魔法使いの老婆ダーリャ役を演じている。
 そのほか、不良少年セルゲイ役には映画監督としても知られるセルゲイ・ニコネンコ、『小犬を連れた貴婦人』(60)や『両棲人間』(62)にも出演していたユーリ・メドヴェージェフ、SF映画の傑作『エバンス博士の沈黙』(73)で演じた美しい異星人役が印象深いジャンナ・ボロトワなどが登場。
 そして、旧ソビエトの有名な舞台俳優レオニード・ドゥアチュコフが、ナージャの戦死した恋人ミーチャ役として、短い出番ながらも鮮烈な印象を残す。彼はシェピチコ監督の「君と僕」(71)で主人公の悩める外科医役を演じていた人で、物憂げな表情が魅力的なインテリ系ハンサム。後に脳腫瘍を患い、56歳でビルの上から投身自殺を遂げてしまった。

 

 

処刑の丘
Voskhozhdeniye (1976)
日本公開は特殊上映のみ
VHS・DVDは日本未発売

THE_ASCENT-DVD.JPG
(P)2008 Criterion Collection (USA)
画質★★★★☆ 音質★★★☆☆
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダードサイズ/モノラル/音声:ロシア語/字幕:英語/地域コード:1/109分/製作:ソビエト

特典映像
なし
監督:ラリーサ・シェピチコ
製作:ラリーサ・シェピチコ
原作:ワシリー・ブイコフ
脚本:ユーリ・クレピコフ
   ラリーサ・シェピチコ
撮影:ウラジーミル・チュフノフ
音楽:アルフレド・シュニットケ
出演:ボリス・プロトニコフ
   ウラジーミル・ゴスチューヒン
   アナトーリ・ソロニーツィン
   セルゲイ・ヤコヴレフ
   リュドミラ・ポリヤコワ
   ヴィクトリヤ・ゴルジェンツル
   ニコライ・セクチメンコ
   マリヤ・ヴィノグラドーワ

THE_ASCENT-1.JPG THE_ASCENT-2.JPG THE_ASCENT-3.JPG

極寒の雪原をドイツ軍に追われるパルチザンの人々

食料も底をついて人々は疲労困憊していた

食料の調達に出かけるソトニコフとリューバク

 長男アントンの出産に際して極度の難産から、生まれて初めて死ぬことを意識したシェピチコ監督。人間の生きる意味や目的とは何なのか?己の命を投げうつに値するものなどあるのか?本作はナチに拘束された二人のパルチザン兵を主人公に、生と死の尊厳をめぐる彼らの壮絶な葛藤を描いた戦争ドラマの傑作である。
 舞台は雪に覆われた真冬のベラルーシ。行動派の熱血兵士リューバクと寡黙な狙撃兵ソトニコフは、仲間のために食料を確保すべくドイツ軍に占領された近隣の村へと潜入する。だが、病弱なソトニコフが大きな咳をしてしまったことからドイツ兵に見つかり、彼らをかくまおうとした農婦や老人らと共に捕えられてしまう。
 彼らを待ち受けていたのは、ドイツ軍の手先となった裏切り者の刑事ポルトノフだ。彼はソトニコフとリューバクを別々に尋問する。自分のせいで罪もない人々まで巻き込んでしまったというソトニコフの良心の呵責を巧みに利用し、パルチザンの居場所や作戦を聞き出そうとするポルトノフ。しかし、ソトニコフは頑なに口を閉し、地獄のような拷問にも耐えてみせる。
 一方、なんとかこの危機を脱しなければいけないと策をめぐらすリューバクは、あからさまに嘘と分るような情報でポルトノフを騙そうとする。だが、ポルトノフはこの彼の“生きる”ことへの執着心を逆に利用しようと考え、本当のことを正直に述べるならば処刑を免れることはもちろん、警察の一員として“勝ち組”のドイツ側へ迎え入れてやろうと持ちかけるのだった。
 刻々と迫る処刑の時間。一時的にドイツ軍へ協力することになるとはいえ、生き残って彼らを倒すことが重要だと訴えるリューバク。そんな彼に蔑みの眼差しを向けるソトニコフ。最後まで己の信念を貫くことこそ、真に人間らしい生き様ではないのか?・・・と。
 だがこうなったのも、もとはといえばソトニコフの責任である。彼が不用意に咳などしなければ、何の関係もない農婦や老人まで死刑を宣告されるような事態にはならなかった。お前にそんなことを言う権利はない、と強く憤慨するリューバク。果たして、この激しい葛藤の末に彼らが導き出した答えとは・・・?
 どこまでも真っ白な雪原の広がるオープニング。まるで人間の感情やモラルさえも凍てつかせてしまうような厳冬の中、ドイツ軍に追われたパルチザンの人々の逃避行が描かれる。わずかな食料も底を尽き、生きる気力さえ失いかけた人々の絶望的な表情。まさしく、氷と雪で覆われた純白の地獄である。
 そして、仲間の期待を一身に背負い、僅かな望みを賭けて食料調達の旅へと出るソトニコフとリューバク。いつどこでドイツ軍と遭遇するか分らない不安と恐怖の中、果てしなく続く雪原を彷徨う二人。ストイックなソトニコフと血気盛んなリューバクのそれぞれの個性を対比しながら、極限状態に置かれた人間のサバイバルを冷徹なリアリズムで描いていく。女流監督の作品とは思えないくらいに、過酷でハードな男のドラマだ。
 だが、この作品の真骨頂は、なんといっても彼らがドイツ軍に捕えられてからの心理描写にあると言えよう。信念のために潔く殉死することを選ぶソトニコフと、なりふり構わず生き抜いて目的を達成しようと望むリューバク。どちらも正論といえば正論だ。だが、一見すると潔く思える殉死は単なる傲慢の表れではないのか?目的のために生き抜くとは聞こえがいいように思えるが、ただ死ぬのが怖いだけなのではないのか?
 シェピチコ監督はそうした大義名分の裏にある主人公たちの本音を赤裸々に暴き、自問自答する彼らの苦悩と葛藤をまるで宗教画のようなイメージの中で描きながら、人は何のために生きて何のために死ぬべきなのかを観客に問うていく。
 さらに、ドイツ側の協力者である刑事ポルトノフを、ステレオタイプな悪人としては描いていないという点も興味深い。彼は究極の現実主義者であり、冷徹なニヒリスト。ドイツ軍に協力しているのは、単に彼らが“勝ち組”だからだ。そこに何かしらの主義主張や信念があるわけではない。いや、この世に信念や理想など存在しない、人間など一皮むけばみな同じ穴のムジナ、だから強い側についてそれを利用するのだ、というのが彼の論理であり信念なのだろう。
 だから、頑なに信念を貫こうとするソトニコフの強さを彼は理解できず不思議そうに首を傾げるし、リューバクの人間的な弱さを見て“ほらどうだ”とばかりにズケズケとつけこんで来る。負の側面を凝縮したという意味において、彼もまた極めて人間的な人間なのだと言えよう。
 また、本作では主人公たちに巻き込まれ、言われなき罪で死刑を宣告された人々の心の軌跡にもスポットを当てている。残された子供たちのことを案ずる農婦、年老いた妻を残してきた老人、そしてまだ幼いユダヤ人の少女。殺されたくなんかない、死ぬのは怖い。当たり前の本音だ。そんな彼らがまるでイエス・キリストのようなソトニコフに感化され。やがて己の残酷な運命を受け入れ、次の世代のために潔く死を覚悟するようになる。その過程を決してキレイごとではなく、恥も外聞も投げ捨てて生にすがりつこうとする彼らの姿を赤裸々に見せながら、悟りの境地へと至るまでの様子を克明に描いていくのだ。
 決して後味の良い作品ではない。ただ一人生き残ってしまい、良心の呵責にもがき苦しむリューバクの絶望的な表情で幕を下ろすクライマックスは大変な重苦しさ。生きるも地獄、死ぬのもまた地獄。あなたならどちらを選ぶだろうか?

THE_ASCENT-4.JPG THE_ASCENT-5.JPG THE_ASCENT-6.JPG

村長は仕方なくドイツ軍に食料を提供していた

ドイツ軍と銃撃戦を繰り広げるソトニコフ

二人は雪まみれになりながらも逃走する

 時は1942年。場所は真冬のベラルーシ。老人や女子供を含むパルチザンの一行はドイツ軍の追っ手をかわしながら、なんとか森の中へと逃げ込むことが出来た。しかし、銃撃戦で多くの仲間を失い、傷を負って動けなくなった者も少なくない。誰もが疲労困憊していた。最後の食料を分け合い飢えをしのぐ彼らだったが、その表情には精気がなかった。いつまで、この過酷な逃避行が続くのだろうか?
 目的地のキャンプへはまだ長い道のりが待っている。その時、ここから遠くない距離に農場のあることを長老が気付いた。そこへ行けば食料を分けてもらえるはずだ。しかし、全員で移動するのはリスクが大きすぎる。疲れて動けない者も多かった。
 そこで、血気盛んで行動力のある青年リューバク(ウラジーミル・ゴスチューヒン)と、ライフルの整備が行き届いていた狙撃兵ソトニコフ(ボリス・プロトニコフ)の二人が、食料を調達すべく農場へ行くこととなる。
 リューバクは農場を経営するグルガエフ一家と旧知の仲だった。一人娘のゾージャは将来の結婚を誓い合った女性だ。果てしなく続く雪原をひたすら歩き、ゾーシャとの再会に胸を高鳴らせるリューバク。ソトニコフは体調を崩していて咳きこむ事が多かったが、孤独や不安と戦いながら一人で行くよりはマシだった。
 ようやく農場に近づいたその時、リューバクは信じられない光景を目にする。家屋が焼き払われていたのだ。急いで駆け寄るリューバク。ドイツ軍の仕業に違いなかった。死体は見当たらない。グルガエフ一家の人々は無事に逃げたのだろうと、己に言いきかせて気持ちを落ち着かせるリューバクだったが、焼け跡に残されたゾーシャの手鏡を握る手が震えていた。
 これで諦めて戻るわけにはいかない。仲間たちの命運は我々にかかっているのだ。二人はさらに遠くの村を目指すべく、いつドイツ軍と出くわすか分らない恐怖と闘いながら、雪原の荒野を歩き進むことにした。
 ようやく彼らは一軒の農家にたどり着く。村長(セルゲイ・ヤコヴレフ)の家だった。ここには豊富な食料がある。ソトニコフは村長がドイツ軍に協力していることを見抜く。それは許しがたい裏切りだった。
 だが、村長にしてみれば他に選択肢がない。さもなくば、妻(マリヤ・ヴィノグラドーワ)もろとも殺されてしまっただろう。協力したといっても、彼らに食料を供給しているだけだ。自分たちだって祖国を見捨てたわけじゃない。最愛の一人息子が戦線に立って戦っているのだから。
 しかし、ソトニコフやリューバクから見れば、村長夫婦は祖国の面汚しだ。戦線に行っている息子のことが愛おしいのであれば、彼の名誉のためにもドイツ軍へ協力などせずに潔く死を選ぶべきだ。
 本来なら夫婦を処刑にするべきだった。しかし、リューバクはそうしなかった。殺す価値もない夫婦だ。そんなリューバクのことをソトニコフは甘いと感じたが、今は仲間のもとへ食料を届けることが先決だ。夫婦の飼っている羊を一匹殺し、それを持ち帰ることにした。
 体力のあるリューバクが羊を背負い、その後からソトニコフがドイツ軍を警戒しながら歩いた。ところが、どうやら道に迷ってしまったらしく、歩けど歩けど森が見えてこない。その時、遠くにドイツ軍のジープが見えた。しまった、見つかる!そう思った瞬間、相手もこちらの存在に気付いてしまった。
 逃げ足の速いリューバクは、一足先に枯れ木の草むらへと逃げ込んだ。ソトニコフはドイツ軍と激しい銃撃戦を繰り広げるが、片足を撃たれてしまう。リューバクが逃げおおせれば自分の命など構わない。ソトニコフは自決を覚悟するが、そこへリューバクが戻ってきた。
 枯れ木だらけの草むらをかき分け、全身雪まみれとなりながらも必死になって逃げるリューバクとソトニコフ。ようやく人目につかない場所へとたどり着いた。傷ついたソトニコフを木のたもとに座らせ、近隣の様子を探りにいくリューバク。足手まといになることを心配したソトニコフはライフルで自害しようとするが、戻ってきたリューバクがそれを止める。何が何でも生き延びて、祖国のために戦うのだと。

THE_ASCENT-7.JPG THE_ASCENT-8.JPG THE_ASCENT-9.JPG

二人をかくまう農婦デムチカ(L・ポリヤコワ)

身を隠したソトニコフが大きく咳き込んでしまった

デムチカまでドイツ軍に捕えられてしまう

 リューバクは近くに発見した丸太小屋へとソトニコフを移動させる。そこには農婦デムチカ(リュドミラ・ポリヤコワ)と3人の幼い子供たちが住んでいた。リューバクとソトニコフがパルチザンだと知って顔面をこわばらせるデムチカ。彼らをかくまっているとドイツ軍にバレたら殺されるからだ。それでも、彼女はソトニコフの傷を見て手当てをしてくれた。
 ところが、遠くから丸太小屋へ向ってくる一群があった。それはドイツ兵と、彼らに協力している村の若者スタス(ニコライ・セクチメンコ)だ。デムチカは急いでリューバクとソトニコフを屋根裏に隠した。横柄な態度でデムチカに食料を要求するスタス。必死になって咳をこらえていたソトニコフだったが、ふと気を緩めた瞬間に大きく咳き込んでしまった。その音に気付いたスタスは、屋根裏に向って機関銃の銃口を向ける。観念したリューバクが両手を挙げて立ち上がった。
 スタスとドイツ兵は、ソトニコフとリューバクの二人だけでなく、デムチカまでをも捕えて連行する。母親の名を呼びながらソリの後を追う子供たち。気も狂わんばかりに泣き叫ぶデムチカ。彼女は関係ないと訴えるソトニコフだったが、スタスは薄ら笑いを浮かべるばかりだ。リューバクは命がけで脱走する自分の姿を想像してみるが、あえなく殺されてしまうであろうことを考えると、そんな勇気も沸かなかった。
 一行はドイツ軍の指令本部へと到着する。彼らを待ち受けていたのは、ドイツ軍の協力者たちで構成された民警のボス、ポルトノフ(アナトーリ・ソロニーツィン)だ。彼はまずソトニコフを尋問する。デムチカを釈放するよう求めるソトニコフに、彼女はパルチザンのスパイだからとうそぶいてみせるポルトノフ。ソトニコフの弱点である良心の呵責を攻撃し、パルチザンの情報を引き出そうという魂胆だ。
 しかし、ソトニコフは頑なに口を閉し、自分の名前さえも一切明かさなかった。なぜそこまでして他人に忠義を尽くす?そう冷ややかに述べるポルトノフは、明らかに理想主義を見下していた。人間はもともと自分勝手な生き物だ。理想主義などたわ言に過ぎない。ソトニコフも負けずに言い放つ。お前らのような人間のクズには絶対に屈しないと。その言葉を聞いたポルトノフは、落ち着き払った声で呟く。人間は誰もがクズだということをじっくり教えてやろう、と。
 それは壮絶な拷問の始まりだった。しかし、ソトニコフは是が非でも口を割らなかった。幾度となく失神しても、一貫して供述を拒否し続ける。その姿を目の前にして、ポルトノフは不思議そうに首を傾げた。まるで見たこともない生き物を初めて見るかのように。
 次にリューバクが連れて来られた。彼は虚実を入り交えながらベラベラとまくし立て、尋問に協力するふりをしてみせる。もちろん、それが嘘であることはポルトノフもお見通しだった。だが、この男は使えるかもしれないと直感し、ニヤリと薄ら笑いを浮かべる。時間を与えるから、よく考えて正直に話してくれればいい。どのみち、この戦争に勝つのはドイツだ。本当のことを喋れば、警察の一員としてドイツ側に迎え入れてやろう、と。
 薄暗い牢屋へと放り込まれたリューバクは、拷問でボロボロの体になったソトニコフを見つけて愕然とする。なんとかお互いに生き残ろう。口裏を合わせて嘘の供述をすれば問題ない。彼らに協力するふりをして、隙を見て逃げればいいじゃないか、と語るリューバク。
 だが、その言葉を聞いたソトニコフは、軽蔑するような眼差しでリューバクを見つめた。兵士なら誇りを持って死ぬべきだ、己の信念を曲げるようなことなど絶対にあってはならない、と。
 すると、今度はリューバクが逆上する。そもそも、こんな事態を招いたのはお前のせいじゃないか。お前が咳などしなければ、我々もデムチカも捕えられることなどはなかった。なのに、自分を棚上げして死ねというのか?自分勝手にもほどがあるだろう。俺は死にたくはない。生きて敵を倒すことこそ、兵士たる者の役目じゃないのか?お前に俺を責める権利なんかないはずだ。
 どこまでも平行線をたどる二人の言い分。リューバクは衰弱していくソトニコフを両腕で抱きしめながら、苦悶の表情を浮かべるばかりだった。そこへ尋問を終えたデムチカが連れてこられる。さらに、村長やユダヤ人の少女バーシャ(ヴィクトリヤ・ゴルジェンツル)が次々と牢屋へ放り込まれ、夜明けと共に全員の死刑が執行されると言い渡された。
 不安と恐怖に怯え、死にたくなんかないと泣きじゃくるデムチカ。家に残された子供たちのことが気がかりだった。まだ幼いバーシャは気丈に振舞っていたが、幸せだった頃のことを思い出すと涙が頬を伝った。年老いた村長は覚悟を決めていたが、それでも己の死を受け入れるのは至難の技だ。
 デムチカは憤りをこらえきれなかった。ポルトノフもスタスも知らない間柄ではない。それどころか、お互いに古くからの村の住人だ。それなのに、平気で隣人を殺すことができるなんて狂っている。戦争が始まる前のポルトノフは教師だった。当時から非常に弁のたつ男で、子供たちを集めて合唱団を指導していたこともある。バーシャも彼の教え子の一人だった。にも関わらず、今日彼はその教え子を冷酷な言葉で尋問したのだ。
 彼らの会話を聞いていたソトニコフは強い衝撃を受ける。ポルトノフが教師だった・・・。人はそこまで残酷な獣に変われるものなのか?そのまま深く物思いに耽ったソトニコフは、ある重大な決心をする。それは、自らがパルチザンであることを認め、全ての責めを自分一人で負って死ぬことだった。死を望まない人々まで巻き込むのはやはり間違っている。そう考えるに至ったソトニコフだったのだが・・・。

THE_ASCENT-10.JPG THE_ASCENT-11.JPG THE_ASCENT-12.JPG

ドイツ軍の協力者ポルトノフによる尋問が始まる

良心を巧みに利用するポルトノフ(A・ソロニーツィン)

ソトニコフ(B・プロトニコフ)は拷問にも耐え抜いた

 人間は散り際こそ、その真価が問われるのであろう。多分に私小説的だった“Krylya”と同じように、シェピチコ監督は冷徹なリアリズムと幻想的なファンタジーの要素を巧みに織り交ぜながら、自らが実際に死と直面して感じたことを第2次世界大戦下の戦争ドラマとして描いていく。そして、やはり明確な結論や答えをあえて提示することなく、全く正反対の道を選択した二人の男の悲惨な末路を一瞬たりとも目を背けずに描きながら、観客自身に生きることと死ぬことの意味を問いかけていくのだ。
 ワシリー・ブイコフの小説「ソトニコフ」を脚色したのは、アンドレイ・コンチャロフスキーの傑作『愛していたが結婚しなかったアーシャ』(66)で知られるユーリ・クレピコフとシェプチコ自身の二人。裏切り者の謗りを受けながらも生きることを選んでしまったリューバクの苦悩する姿で幕を閉じることや、ソトニコフをイエス・キリストのようなイメージで捉えていることから、信念のためなら死をも辞さずというソトニコフの方を肯定しているようにも思えるかもしれないが、それは本作の真意ではないだろう。ソトニコフは最後の最後でポルトノフに協力するふりを見せようとしてあえなく拒絶され、不本意にもデムチカや村長たちを道連れにせねばならなくなってしまった。処刑される方も、そして生き残る方も、どちらも哀れであることに変わりはない。その点を見誤ってはならないように思う。
 なお、撮影監督としてクレジットされているのはウラジーミル・チュフノフというカメラマンだが、どうやら実は『光と影のバラード』(74)から『シベリアの理髪師』に至る一連のニキータ・ミハルコフ監督作品で知られる名カメラマン、パーヴェル・レーべシェフが撮影に協力しているらしい。
 そのほか、音楽には『ワーニャ伯父さん』(70)や『ロマノフ王朝の最期』(81)のアルフレド・シュニットケ、編集には『炎628』(86)や『こねこ』(96)のワレリヤ・ベローワ、美術監督には黒澤明の『デルス・ウザーラ』(75)を手掛けたユーリ・ラクシャが参加。夫エレム・クリモフ作品と縁の深いスタッフが多いのは興味深いところだ。

THE_ASCENT-13.JPG THE_ASCENT-14.JPG THE_ASCENT-15.JPG

激しく葛藤するリューバク(V・ゴスチューヒン)

無実の罪で捕えられた人々もそれぞれに苦悩する

キリストのごとき殉教者となるソトニコフだったが・・・

 主人公ソトニコフとリューバクを演じるのは、ワレリー・ルビンチク監督の幻想叙事詩『スタフ王の野蛮な狩り』(79)に主演したボリス・プロトニコフと、ニキータ・ミハルコフ監督の名作『ウルガ』(91)で遊牧民族一家のもとに身を寄せるロシア人セルゲイを演じたウラジーミル・ゴスチューヒン。どちらも甲乙付けがたい名優だ。
 これが映画デビュー作だったプロトニコフは、寡黙でストイックなソトニコフをまるでイエス・キリストのような殉教者として演じている。特に、その彫りが深くて端整な美しい顔立ちと知的かつ繊細な演技が印象的で、文句なしの当たり役と言えよう。そこにいるだけで絵になる稀有な役者だと思う。
 一方のゴスチューヒンは、熱血漢で感情の起伏が激しい男リューバクを文字通り体当たりで演じきっている。中でも、生と死の狭間で激しく葛藤する後半の大熱演は圧巻そのもの。その凄まじいまでの気迫に誰もが圧倒されること間違いナシだ。
 さらに、『アンドレイ・ルブリョフ』(69)や『惑星ソラリス』(72)などタルコフスキー映画のアイコンとして名高い名優アナトーリ・ソロニーツィンが、冷酷で狡猾な売国奴の刑事ポルトノフ役を怪演。そのほか、クリモフの『ロマノフ王朝の最期』にも出ていたリュドミラ・ポリヤコワ、アニメの声優としても知られるマリヤ・ヴィノグラドーワなどが脇を固めている。

 

戻る