フリーダ Frida
祖国を追われた少女が世界の頂点に立つまで

 

FRIDA.JPG

 アグネッタがブロンドと処女性という男性の究極の願望を兼ね備えたセックス・シンボルだとするならば、フリーダはそのエレガンスと知性、自由奔放さで女性の共感を集める存在と言えるかもしれない。どこかシニカルでクールな眼差しを持った大人の女性、その歌声はハスキーでどこか哀しげな叙情感さえ漂わせる。
 しかし、それがステージに立つと一変、水を得た魚のようにパワフルに、楽しげにダイナミックなパフォーマンスを披露してファンの熱狂を集める。イギリスのロックバンド、Garbageの女性ヴォーカリストShirly Mansonは少女時代、フリーダに同性愛的な憧れさえ抱いていたという。“何か本能的に彼女に惹きつけられるのよ。彼女はより強くて美しい個性の持ち主だし、より悲しい歌を歌っていたから”と。
 そのフリーダの歌声、個性、そして情熱は、もしかしたら彼女の宿命的な生い立ちと深い関わりがあるのかもしれない。そもそも、アバはスウェーデン出身のグループだが、実はフリーダはノルウェー人である。
 第2次世界大戦末期にノルウェーで生まれた彼女は、ナチス・ドイツに蹂躙された近代ヨーロッパの悲劇的な歴史が産み落とした子供だった。ノルウェーの港町に住む少女と侵略者であるドイツの若き兵士。結ばれてはいけない二人の男女の愛の結晶として生を受けたフリーダは、その小さな肩に大きな宿命を背負いながら祖国を追われた。
 両親の顔も知らずに育った彼女は音楽に救いを求め、まるで愛されることを望むかのように名声を追いかける。そして、運命的な出会いによってキャリアを切り開き、アバのメンバーとして世界の頂点に立ち、さらには最良の伴侶と貴族の称号までをも手にした。フリーダの人生は、不思議な運命に導かれた現代の御伽噺と言えるかもしれない。

 ノルウェーは1940年4月9日、ナチス・ドイツによって侵略された。ドイツ軍は北欧における物資輸送の重要拠点である港町Narvikを占拠し、周囲の港町もドイツ軍の支配下に収まった。そのうちの一つが、人口4000人にも満たない小さな町Ballangenだった。
 1943年の秋、Ballangenに住む17歳の少女Synni Lyngstadは、毎朝7時きっかりに家の前を通るドイツ軍の一行の中に、若くてハンサムな兵士の姿を見出す。その兵士の名前はAlfred Haase。Alfredの方でも、毎朝通るたびに家から顔を覗かせる少女の姿に心を奪われていた。正確にいうと、彼の所属する小隊の全員がSynniに夢中だったという。仲間内でも話題の美少女だったのである。ある朝、Alfredが勇気を振り絞ってSynniに声をかけた事から、二人の距離は急速に近づいていく。
 だが、当時はドイツ軍の兵士と言葉を交わしただけでも裏切り者として白い目で見られるような状況で、末っ子であるSynniとドイツ軍兵士の仲を知った家族は猛反対する。しかし、恋に目覚めたばかりの17歳の少女には、愛する相手の事しか見えてはいなかった。
 そして、その気持ちはAlfredから重大な事実を知らされても変わることはなかったという。実は、彼は祖国に妻子を残してきている身だったのである。いつ死ぬか分らないような状況の戦時下で、今を生きることで精一杯だった若い二人にとっては目の前にある愛こそが全てだったのかもしれない。
 しかし、1944年の10月、戦況の変化に伴って、Alfredに転属が言い渡される。Ballangen滞在の最後の日、二人は初めてSynniの部屋で夜を共に過ごし、結ばれた。そして、夜も明けきらない早朝、朝もやの中で涙に濡れながらAlfredを送り出すSynni。これが二人の永遠の別れとなった。AlfredはSynniが子供を身ごもったことも知ることなくノルウェーを後にする。“戦争が終わったら必ず戻ってくる”と言い残して。
 1945年11月15日、Synniは女の子を出産した。名前はAnni-Frid Lyngstad。後のフリーダである。しかし、出産の喜びも束の間、若い母親と幼い娘には過酷な運命が待ち構えていた。Ballangenの小さなコミュニティーでは、瞬く間に噂が広まった。Synniの生んだ子供は“ドイツの子”だと。
 Lyngstad家は完全に孤立してしまった。誰も一家とは話もしようとしなくなり、訪ねてくる人もいなくなった。それどころか、生まれたばかりの娘を抱いたSynniの姿をみかけた隣人は口々に罵声を浴びせたという。それでも、Synniは気丈に振舞っていた。そして、ドイツに戻ったAlfredに手紙を書き続けていたのだった。
 しかし、Synniの母親Agnyは、娘と孫の将来を心配していた。このまま、ここで生活を続けてはいられない。Agnyが決心を固めるまでには時間がかからなかった。彼女はSynniとAnni-Fridを連れてノルウェーを去ることを決意する。幸い、上の子供たちは成人して独立していた。夫は数年前にこの世を去っている。しかし、Synniは頑なにノルウェーを去ることを拒んだ。Alfredが戻ってくるかもしれないからだ。結局、Agnyは孫娘を連れてスウェーデンの田舎町Harjedalenに移り住み、Synniはノルウェーに残った。彼女はホテルで働きながら、Alfredに手紙を書き続けていたという。しかし、残念ながら彼からの返事は一度もなかったのである。
 スウェーデンに移ったAgnyは、お針子からカフェのウェイトレスまでありとあらゆる仕事をこなした。48歳といえば若いお祖母さんだが、それでも独りで幼い乳飲み子を抱えながら慣れない国で働くことが過酷であったろうことは想像に難くない。一方のSynniも孤独と屈辱に耐えながらAlfredを待つことに限界を感じ、1947年の春頃に母と娘の待つスウェーデンへと移った。
 そして、一家はMalmkopingという町で小さなアパートを借りる。Synniは地元のカフェで働くようになるが、ほどなくして体調を崩して倒れてしまった。肝臓を悪くしていたのだが、直接的な原因が分らず、医師にも手の施しようがなかったという。この数年間の過酷な生活が、彼女の体を蝕んでいたのかもしれない。
 1947年9月19日、Synniは21歳でこの世を去った。幼い娘と再会して僅か数ヵ月後のことである。

 こうして、フリーダは物心もつかないうちに母親を亡くしてしまった。Agnyは一人残された孫娘を育てるために懸命に働き、フリーダはそんな祖母を“ママ”と呼ぶようになった。働きづくめだったAgnyが家にいる事は少なく、同じアパートに住む主婦Elsa Larssonがフリーダの面倒を見る事が多かった。それも一日中というわけにはいかず、少女時代のフリーダは家で孤独に過ごす事が多かったという。それでも、夕食を済ませた後にAgnyは孫娘にスウェーデンやノルウェーの民謡を教え、フリーダは自然と音楽に親しんでいくようになる。また、毎年夏休みには二人でノルウェーの親戚のもとへ訪れ、フリーダは伯母たちと共に歌を歌って楽しんだ。
 学校に入ると、フリーダは合唱団に参加して教会で歌うようになる。そして13歳の時、彼女は市民センターでリハーサルをしているジャズ・バンドを見かけた。当時21歳の美容師Evald Ek率いるThe Evald Ek Quintetである。
 フリーダはEvaldにオーディションをして欲しいと持ちかけ、彼女の歌声を聴いたEvaldは即座にバンドのリード・ボーカリストとして迎えることを決める。それはとても13歳の少女とは思えない、大人びた歌声だったという。これを機に、フリーダは学校を辞めてプロの歌手となった。しかし、仕事の場はジャズ・クラブやナイトクラブ。13歳の少女が入れてもらえるわけはなかったのだが、年齢をごまかしてライブを行った。誰も彼女が未成年だとは思わなかったという。
 その後2年間、フリーダはThe Evald Ek Quintetのリード・ボーカリストとして活動した。ステージに立つだけでなく、荷物運びからステージのセッティングまで何でも喜んで手伝ったという。しかし、バンドは61年に解散。
 そこで、彼女はBengt Sandlund率いるビッグ・バンド・オーケストラのボーカリストとして迎えられ、いよいよ本格的なジャズ・シンガーの道を歩むようになる。後にテレビでもジャズを歌うようになるのだが、ジャズ・シンガーとしてのフリーダの才能は驚くほどずば抜けている。もともと彼女の声は低音のアルトだが、ソプラノまで自由自在に駆使した伸びやかな歌声は圧巻で、非常に高度なテクニックを身につけていた。
 さて、このオーケストラでフリーダは一人の男性と出会う。ベース奏者のRagnar Fredrikssonである。二人はたちまち恋に落ち、フリーダは1963年1月26日長男のHansを出産する。二人は翌年正式に結婚するが、ほどなくしてオーケストラは解散。Ragnarは仲間を集めて新しいグループを結成する。その名もAnni-Frid Four。フリーダをメインに据えたジャズ・バンドだった。これがたちまち評判となり、フリーダはささやかながら生まれて初めて成功を味わった。そして、その成功により歌手としての強い野心に目覚める。
 バンドの1メンバーとしての成功に飽き足らなくなったフリーダは、単独で幾つかのコンテストに出場。いずれも優勝を手にした。よりボーカルに磨きをかけるため、オペラ歌手に師事して本格的な声楽のレッスンも受けた。彼女の夢は大きく膨らんでいったのだった。

 1967年2月25日に長女Lise-Lotteを出産したフリーダは、新人歌手の登竜門である全国的なコンテストNya Ansiktenへの出場を決意する。家族を置いてストックホルムへと向かった彼女は、このコンテストで見事優勝を手にする。そして、大手レコード会社EMIとの契約を結び、遂にメジャー・デビューを果たすことになった。
 その年の9月にはファースト・シングルがリリースされ、翌年には全国ツアーも行った。ようやく夢が叶ったフリーダだったが、唯一の気がかりは夫のもとに残してきた子供たちのこと。わが子に会うため、暇を見つけては帰省していたフリーダだったが、夫のRangarとの間は完全に冷え切っていた。69年の初旬、フリーダは離婚を決意する。子供たちは父親のもとに残ることになった。世間からは冷たい母親だと非難されたが、もう彼女に後戻りは出来なかったのだ。

 こうして、歌手としての活動に専念するようになったフリーダだったが、その周囲の高い評価とは裏腹になかなかヒット曲に恵まれなかった。世界的なビートルズ旋風の影響を受け、当時はスウェーデンでもロックが熱狂的な人気を集めていた。国内でも、スウェーデンのビートルズと呼ばれたスーパー・グループ、ヘップスターズを筆頭に、ロックやポップスを演奏するアーティストが圧倒的に主流で、イージー・リスニング&ジャズ的な要素の濃厚なフリーダのレコードはヒット・チャートでの受けが悪かったのだ。
 そんな折、フリーダはその後の彼女の人生を変えてしまう男性と出会う。69年の2月、ストックホルムでのコンサートを終えたヘップスターズのメンバー、ベニー・アンデションはKocka Krogenというバーに立ち寄る。ちょうど同じ時刻、近くのクラブでのコンサートを終えたフリーダも、共演者である歌手Charlie Normanと共にKocka Korgenで打ち上げをしていた。二人はお互いに挨拶を交わし、当たり障りのない会話をする。
 その1ヵ月後、テレビの音楽番組“Midnight Hour”で共演した二人は、収録後にレストランで食事をした。事務所が倒産して苦境に立たされていたベニーと、子供たちと離れて生活しながらキャリアに行き詰まりを感じていたフリーダは、お互いの悩みを打ち明けあううちに強く惹かれあっていった。また、ベニー自身も離婚を経験していた。二人はお互いに深いシンパシーを感じるようになっていく。ちなみに、フリーダはロックに全く興味がなかったため、ヘップスターズのレコードを初めて聴いた時も素直に“酷い音楽”だとしか思わなかったという。


 この時期を境にして、フリーダのキャリアは徐々に上向いていくことになる。4月にはロマンティックなボサノヴァ・ナンバー“Harlig Ar Var Jord”がヒット・チャートで8位まで上がり、フリーダにとって初めてのトップ10ヒットとなった。そして、その年の暮れにはベニーのプロデュースによるシングル“Peter Pan”をリリース。作曲にはビヨルンも参加していた。
 翌年の4月、ベニーとビヨルンの二人は、フリーダとアグネッタを伴ってキプロス島で休暇を過ごした。そこで、自分たちのギター演奏に併せて歌うフリーダとアグネッタのハーモニーを聴いたビヨルンとベニーは、彼女たちの歌声が驚くほど相性がいい事に気付く。早速4人は話し合い、ビヨルンとベニーのアルバムにフリーダとアグネッタが参加することを決めた。こうして未来のスーパー・グループ、アバが生まれたのである。

 アバ時代のフリーダは、その成功を心の底から楽しんでいた。何よりも、学業を放棄し家庭を捨ててまで選んだ音楽の道での成功である。それも舞台は世界。また、もともと何事にも積極的で社交的な性格の彼女は、記者会見やパーティーでの席でも率先して場を盛り上げる中心人物だった。交友関係も幅広く、家族ぐるみの付き合いだったPaul McCartneyを筆頭に、最近でもストックホルムで再会したBruce Springsteenなど業界での友人も多かった。
 もう一人の女性ボーカリストであるアグネッタとは全く対照的だったと言えるだろう。アグネッタはパーティーや芸能界での付き合いが苦手で、母国の家族や一般の友人に囲まれて過ごすことを好んでいた。そのため、長くファンやマスコミの間ではフリーダとアグネッタの不仲説が取り沙汰されてきていた。
 しかし、二人ともその噂を真っ向から否定している。だが面白いのは、そのニュアンスに微妙な温度差があることだろう。“フリーダとはお互いにあらゆる面で助け合ったわ。でも残念ながら親友にはなれなかった。お互いのバックグランドが違いすぎたのよ”と回想するアグネッタに対し、“私たちの関係は姉妹のようなものよ”と語るフリーダ。その二人の言葉からは、野心的で自由奔放なフリーダを一歩引いて羨望の眼差しで見るアグネッタと、そんな繊細で少女のようなアグネッタをまるで妹のように見守るフリーダの姿が浮かび上がるように思う。
 また、ビヨルンとベニーという類い稀な才能を持った職人肌の作曲家・ミュージシャンとの創作活動を通じて、フリーダ自身も音楽的に大きな成長を遂げていった。特に、アバの音楽的な中心だったベニーとの公私に渡る関係は、それまでジャズ一筋だったフリーダの音楽的視野を一気に広げていった。75年にリリースしたアルバム“Frida Ensam”では10CCからDavid Bowie、さらにはイタリアのラブ・ロック系バンドCugini Di Campagnaまで実に幅広い選曲のカバーを披露している。
 さらに、アバとしての成功はフリーダを思わぬ再会へと導いた。1977年の8月、当時の西ドイツの音楽雑誌“Bravo”にアバの記事が掲載された。その中で各メンバーの詳しいプロフィールが紹介
され、フリーダの生い立ちについても述べられていた。その記事を読んだ女性Andrea Buchingerは、フリーダの父親の名前を見てハッとする。Alfred Haaseという人物は、彼女の叔父と同じ名前だったからだ。しかも、叔父は戦時中にノルウェーに派遣されていた。早速、彼女は叔父の息子である従兄弟のPeter Haaseに連絡を取る。そしてPeterは父親のAlfredに戦時中の話を聞き、彼こそがフリーダの父親その人であることを初めて知ったのだった。
 父親が名乗り出たことに一番驚いたのはフリーダだったろう。なにしろ、祖母Agnyからは“父親は戦死した”と聞かされて育ったのだから。再会の前日は緊張と興奮のあまり寝付けなかったというが、その顔を見てすぐに自分の父親である事を確信した。彼女と瓜二つだったからだ。足の形までそっくりだった。そして、彼女は父親から亡き母の話をきいた。32年の歳月を経て、ようやく家族が再会を果たした瞬間だった。

 しかし、止まるところを知らぬアバの成功は次第にグループ内の人間関係に暗い影を投げ落としていく。ビヨルンとアグネッタの離婚は最初の危機だった。周囲では解散の空気が流れたが、既にアバは世界的な巨大ビジネスに成長しており、その解散はすなわち数多くの失業者が生まれることを意味していた。
 メンバーの結束を今一度固めるため、それまで結婚にこだわらない関係を築いてきたベニーとフリーダは正式に入籍をする。だが、既に二人の間にもすれ違いが生じつつあった。結局、1981年2月にベニーとフリーダは離婚をする。2年にも満たない結婚生活だった。そして、アバの活動は急速に終焉へと向かっていく。
 この頃、娘Lise-Lotteとドライブをしていたフリーダは、娘がカーステレオでかけていた1本のカセット・テープに耳を奪われる。それはPhil Collinsのファースト・ソロ“Face Value”だった。Phil自身の離婚の経験を投影したアルバムで、フリーダは深く共感をする。それ以来、毎日のようにそのアルバムを聴いていたフリーダは、約7年ぶりとなるソロ・アルバムのプロデュースをPhil Collinsに依頼することにした。そうして出来上がったアルバムが“Something's Going On”である。
 それまでのアバとしてのイメージを完全に払拭したこのアルバムは批評家から絶賛され、シングル“I Know There's Something Going On”は82年の全米年間チャートで20位を記録する大ヒットとなった。ちなみに、このアルバムのために世界中から寄せられたデモ・テープの数は数百曲にも及んだという。その中から選ばれたのはたったの11曲。中でも注目すべきはRoxy MusicのBrian Ferryが書いた“The Way You Do”だろう。Brian Ferryが他人のために曲を書き下ろしたのは、The WhoのRoger Daltryのために書いた“Going Strong”とこの曲の、後にも先にも2曲だけである。
 その他にも、Joe JacksonやElvis Costello、Thin LizzyのPhil Lynottら錚々たる顔ぶれのアーティストがデモ・テープを送ったが、ことごとく却下されている。Costelloなんか可哀想なもので、アバの熱烈なファンだったにもかかわらず、Phil Collinsの“あまりにも出来が悪い”の一言でボツにされてしまった。
 こうして幸先の良いスタートを切ったフリーダのソロ活動だったが、
2年後にリリースしたアルバム“Shine”は鬼才Steve Lillywhiteをプロデューサーに迎えた野心作ながら、セールス的には惨敗を喫する。

 その間、フリーダの私生活は劇的な変化を遂げていた。アバの活動停止を巡るゴシップ誌などの根も葉もない報道に嫌気のさしたフリーダは、ロンドンへと移住をしたのだ。また、息子のHansがF/Xというアーティスト名でレコード・デビューを果たした。ちなみに、Hansはベニーの息子であるPeterとRendez-vousというバンドを組んでいたことがあり、彼らの演奏でフリーダは3曲の自作曲のデモ・テープをレコーディングした事もあるが、結局正式にリリースされることはなかった。
 また、Phil Collinsとも再び一緒に仕事をしようと相談しあっていたが、結局それも実現しなかった。その代わり、Philがプロデュースを手掛けたAdam Antの“Strip”にバック・ボーカルとして参加している。ちなみに、先述したデモ・テープのみで終わった3曲の自作曲も、Philの強い勧めでペンをとったものだったという。
 その後、スイスに移り住んだフリーダは、マヨルカ島に豪華な別荘を購入し、スイスとマヨルカの間を行き来する生活を送るようになる。また、環境保護団体を設立し、その活動の一環としてスウェーデン王室主催のチャリティー・コンサートも企画した。スウェーデンの若いアーティストたちも彼女を慕うようになり、フリーダはスウェーデン音楽界のゴッドマザー的存在となる。80年代から90年代にかけてスウェーデンで一世を風靡したロック・バンドRatataとデュエット・シングルもリリース。また、90年代に世界的な成功を収めたスウェーデンのグループ、Ace of Baseのボーカリスト兼ソングライターのJennyは、成功の重圧に負けそうになった時、フリーダに相談に乗ってもらっていたことを明かしている。
 そして、そんな中でフリーダはある男性と運命的な出会いを果たす。その男性の名はHeinrich Ruzzo Reuss von Plauen。ドイツのワイマール王家直系の貴族で、プリンスの称号を持つゴルフ・コース・デザイナーだった。彼はフリーダの4つ年下だったが、二人には大きな共通項があった。彼はスウェーデン国王カール16世グスタヴの幼馴染で大親友。そして、フリーダのアバ時代からの親友が、他でもないシルヴィア王妃だったのである。
 1989年10月、二人は結婚。祖国ノルウェーから追われてきた少女は、遂に正真正銘のプリンセスの称号を手にしたのである。

 92年にリリースされたアバのベスト・アルバム“Gold”は2000万枚以上を売り上げる驚異的な大ヒットを記録し、アバのリバイバル・ブームは世界中を駆け巡った。そんな中でも沈黙を守り続けていたフリーダだったが、93年に突如公の場に姿を現す。シルヴィア王妃の50歳の誕生日を記念するコンサートで、スウェーデンを代表するアカペラ・グループThe Real Groupとの共演で“Dancing Queen”を歌ったのだ(スタジオ・レコーディングもされている)。そう、アバのファンならよく知っていると思うが、“Dancing Queen”は国王カール16世グスタヴとシルヴィア王妃の成婚祝いの席でお披露目された思い出の曲。Reuss氏との結婚はフリーダとシルヴィア王妃との関係をより強いものにし、世界各地で二人が連れ立ってパーティーに出席する姿もパパラッチされるようになった。
 また、96年には実に12年ぶりのソロ・アルバム“Djupa Andetag”をリリース。これは全編スウェーデン語による作品で、アルバム・チャートでは1位を記録した。プロデュースを手掛けたのは、アバの2度目のワールド・ツアーでバック・コーラスに参加し、ビヨルンとベニーのプロデュースで双子の兄妹デュオGeminiとしてデビューしたことのあるAnder Glenmark。実は、このアルバムのためにフリーダはアグネッタとのデュエットを企画したという。結局アグネッタには断られ、その曲“Alla mina basta ar”はRoxetteのメンバーであるMarie Fredrikssonとのデュエットでレコーディングされた。
 だが、公私共に充実した日々を送るフリーダのもとへ、突如として思いもよらぬ悲劇が訪れる。1998年3月、結婚してアメリカに住んでいた娘のLise-Lotteが、交通事故で非業の死を遂げたのだ。30歳だった。フリーダのショックは大きく、予定されていたニュー・アルバムのレコーディングもキャンセルされた。
 そして、その悲しみも癒えきらない1999年10月、最愛の人Reuss氏がこの世を去ってしまった。フリーダは代理人であるGorel Hanser(アバのマネージャーだったStig Andersonの元秘書)を通じて、全ての音楽活動から身を引くことを公式に発表する。
 その後、ロンドンやラスベガスで行われたミュージカル“マンマ・ミーア”のプレミアや、かつての仲間Charlie Normanの誕生パーティーへ出席したり、スウェーデン王室主催の音楽賞Polar Prizeのプレゼンターとして毎年登場するなど、相変わらず公の場に姿を見せるフリーダだが、音楽シーンからはすっかり遠ざかってしまった。
 そんな彼女が再びレコーディング・スタジオに足を踏み入れたのは2002年のこと。イタリアのソプラノ歌手Filippa Giordanoの招きでミラノを訪れたフリーダは、Giordanoとのデュエットでオッフェンバッハの「ホフマンの舟歌」をレコーディングしたのだ。
 翌年にはスイスのアーティスト、Dan Daniellとのデュエットでチャリティー・シングル“Lieber Gott”をリリース。1000枚限定プレスだったが、カップリングにはアバ時代の大ヒット曲“I Have A Dream”のセルフ・カバーも収録されている。
 さらに、2004年には元Deep Purpleのキーボード奏者であるJon Lordのアルバム“Beyond The Notes”の中の1曲、“The Sun Will Shine Again”を歌った。ちなみに、同アルバムを紹介する日本のマスコミの中には、“アバの代表曲Fridaを収録”などと無知丸出しの事を書いている輩が(笑)
 なお、フリーダはDeep Purple関係者とは親交が深いらしく、2004年にはDPのドラマーIan Paice夫人の誕生パーティーに出席。そこで即興の演奏が行われたらしいのだが、そのメンツがなかなか凄い。キーボードをJon Lord、ドラムを元TrafficのドラマーJim Capaldi、ギターをWhitesnakeのBernie Marsden、ベースをPaul Wickens、そしてボーカルをフリーダとWickens夫人のMargo Buchanan、さらにオスカー俳優のJeremy Ironsが担当したのだそうだ。

 そして現在、フリーダはスイスの山間の小さな町で静かに生活を送っている。もう既に音楽に対する情熱は失ってしまったという。地元在住の画家Heinz Julen(一時期彼女の新しい恋人と報道されたが、実際は純粋な友達だという)ら仲間たちとの山登り、レストランでの食事や酒を楽しみながら過ごしているという。
 もしかしたら、もう2度と彼女の歌声を聴くこともないかもしれない。そう考えると涙が出そうなくらいに哀しいが、先のことは分るまい。つい先日も、スウェーデン国王60歳の誕生日パーティーで、Emilio Pucciの華麗なドレスに身を包んだフリーダの姿があった。いずれにせよ、ファンとしては何よりも彼女の心の平安と幸福を祈るばかりである。

FRIDA_PUNK.JPG FRIDA_DRESS.JPG FRIDA_PRESENT.JPG

1984年撮影

1994年撮影

2004年撮影

 

PA_EGEN.JPG TRE_KVART.JPG FRIDA1967_1972.JPG ENSAM.JPG

Pa egen hand

Tre kvart fran nu

Frida 1967-1972

Frida Ensam (1975)

(P)1991 EMI Svenska (Sweden) (P)1993 EMI Svenska (Sweden) (P)1997 EMI Svenska (Sweden) (P)2005 Polar Music (Sweden)
1,Du ar sa underbart rar
2,Din
3,Tre kvart fran nu
4,Lycka
5,Min egen stad
6,Sa synd du maste ga
7,Forsok och sov pa saken
8,Dar du gar lamnar karleken spar
9,Vi mots igen
10,Mucket kar
11,Peter Pan
12,Vi ar alla barn i borjan
13,Simsalabim
14,Jag blir galen nar jag tanker pa dej
15,En gang ar ingen gang
16,Nar du blir min
1,Tre kvart fran nu
2,En ledig dag
3,Peter kom tillbaka
4,Sen dess har jag inte sett 'en
5,Suzanne
6,Jag ar beredd
7,Telegram till fullmanen
8,Barnen sover
9,En ton av tystnad
10,Du betonar karlek lite fel
11,Harlig ar var jord
12,En liten sang om karlek
13,Rakna de lyckliga stunderna blott
DISC 1
1,En ledig dag
2,Peter kom tillbaka
3,Din
4,Du ar underbart rar
5,Simsalabim
6,Vi mots igen
7,Mycket kar
8,Nar du blir min
9,Harlig ar var jord
10,Rakna de lyckliga stunderna blott
11,Sa synd du maste ga
12,Forsok och sov pa saken
13,Peter Pan
14,Du betonar karlek lite fel
15,Dar du gar lamnar karleksen spar
16,Du var framling har igar
17,Tre kvart fran nu
18,Jag blir galen nar jag tanker pa dej
19,Lycka
20,Sen dess har jag inte sett'en
DISC 2
1,En ton av tystnad
2,Suzanne
3,Allting skall bli bra/Vad gor jag med min karlek
4,Jag ar beredd
5,En liten sang om karlek
6,Telegram for fullmanen
7,Barnen sover
8,En kvall om sommarn
9,Vivet allt men nast an inget
10,Min egen stad
11,En gang ar ingen gang
12,Vi ar alla bara barn i norjan
13,Kom och sjung en sang
14,Att alska i varens tid
15,Ole lukkoje
16,Vad gor det att vi skiljs for i afton
17,Min soldat
18,Barnen sover

1,Fernando
2,Jag ar mej sjalv nu (Young Girl)
3,Som en sparv
4,Vill du lana en man (Most Beautiful Girl)
5,Liv pa Mars? (Life on Mars)
6,Syrtaki
7,Aldrig mej (Vado Via)
8,Guld och grona angar (Wall Street Shuffle)
9,Ett liv i solen (Anima Mia)
10,Skulle de va skont (Wouldn't It Be Nice)
11,Var ar min clown (Send In The Clowns)
bonus tracks
12,Man vill ju leva lite dessemellan
13,Ska man skratta eller grata

produced by Benny Andersson & Bjorn Ulvaeus

 フリーダが1967年から1972年の間にEMIに残した音源から選曲したベスト盤。ロック以前の時代のポップスに影響されたジャズ色の強い作品が多いが、その一方でベニーのプロデュースによる作品はロックやフォークの影響が色濃い。#4はビヨルンとベニーがレコーディングした曲のカバー。また、#5はヘップスターズの大ヒット曲のカバーである。しかし、個人的にダントツにオススメなのが#6。日本でも大ヒットしたフランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」のカバーなのだが、これが非常に大人な雰囲気のメロウなソフト・ロックに仕上がっていて素晴らしいのなんのって!フリーダのハスキーなボーカルが、アルディとは全く違ったドラマティックな叙情性を演出している。傑作です。  こちらは第2弾。いかにも60年代的なイージーでジャジーなアダルト・ポップスで構成されている。エレガントなボサノバのリズムにフリーダのソフトなソプラノのスキャットが絡む#2やメロウで爽やかな哀愁系ソフト・ロック#6など、60年代のガール・ポップス・ファンにもオススメ。フリーダ自身が大ファンだというスウェーデンのジャズ・シンガーMonica ZetterlundやUKポップスの女王Petula Clarkを彷彿とさせる内容。ちなみに、#5がLeonard Cohenのカバーで、#9はsimon & Garfunkelの「サウンド・オブ・サイレンス」のスウェーデン語カバー。

 こちらは、フリーダがEMIに残した全ての音源を収録した2枚組のベスト盤。何と言っても一番の聴きものは、DISC 2に収録されているテレビとラジオ向けにレコーディングされた5曲のボーナス・トラック。#14〜#17がテレビの音楽番組“Nar stenkakan slog”(1972)、#18がラジオ番組“vara favoriter”(1970)のために制作されている。いずれも、ソフト化されるのはこれが初めて。どれも静かで叙情的なバラードで、当時の彼女はトーチ・ソング歌手的な売り方をされていたのではないかと思う。そういった意味では、なかなかシングル・ヒットに恵まれなかったのも納得できるかもしれない。

 翌年にアバの作品として発表される“Fernando”のオリジナル・バージョン#1を含む、アバ時代唯一のソロ・アルバム。殆どの楽曲が当時のヒット曲のカバーなのだが、さすがはビヨルンとベニーによるプロデュース。ソフトで洗練されたポップ・ロック・アルバムに仕上がっている。Gary Puckett and Union Gapのカバー#2なんか、軽やかな女性スキャットをバックに従えたエレガントでグルーヴィーな仕上がりだし、Charlie Richのカントリー・ヒットのカバー#4などはセンチメンタルでヨーロピアンな美しいナンバーに仕上がっており、どちらもアバとは一線を画するサウンド・アプローチでオリジナルを凌駕している。非常にフェミニンなバラードに仕上がったDavid Bowieのカバー#5もユニーク。

SOMETHING_GOING.JPG SHINE_SINGLE.JPG SHINE_ALBUM.JPG DJUPA.JPG

Something's Going On (1982)

Shine (1984)

Shine (1984)

Djupa Andetag (1996)

(P)2005 Polar Music (Sweden) (P)1984 Polar Music/Epic (UK) (P)2005 Polar Music (Sweden) (P)1996 Anderson Records (Sweden)
1,Tell Me It's Over
2,I See Red
3,I Got Something
4,Strangers
5,To Turn The Stone
6,I Know There's Something Going On
7,Threnody
8,Baby Don't You Cry No More
9,The Way You Do
10,You Know What I Mean
11,Here We'll Stay
bonu stracks
12,I Know There's Something Going On (Single Edit)
13,Here We'll Stay

produced by Phil Collins
Side A
1,Shine (Extended Version) 6:27
Side B
1,That's Tough

produced by Steve Lillywhite
1,Shine
2,One Little Lie
3,The Face
4,Twist in the Dark
5,Slowly
6,Heart of the Country
7,Come To Me (I Am Woman)
8,Chemistry Tonight
9,Don't Do It
10,Comfort Me
bonus tracks
11,That's Tough
12,Shine (Extended Mix)

produced by Steve Lillywhite
1,Alska mig alltid
2,Ogonen
3,Aven en blomma
4,Sovrum
5,Hon fiek som hon ville
6,Alla mina basta ar
7,Lugna vatten
8,Vem kommer sara vem ikvall
9,Sista valsen med dig
10,Kvinnor som springer

produced by Anders Glenmark
 80年代を代表する傑作フィメール・ロック・ナンバー#6を含むフリーダの野心作。Phil Collinsによるガッツリとヘヴィーなド迫力のドラムにシンプルでキャッチーなギター・リフ、抑揚をひかえたクールなフリーダのボーカル。ミステリアスでファンキーな骨太のロック・ナンバーに仕上がっており、ソングライトを手掛けた盲目のギタリスト、Russ Ballardにとっても代表作と言えるだろう。全体的にいかにもUKロックっぽい霧のかかったようなムードが秀逸なアルバムで、その著しいイメージ・チェンジにアバのファンは驚いたものだった。Phil Collinsとデュエットした#11ではフリーダが大好きなEarth, Wind & Fireのホーン・セクションをゲストに招き、爽快でスケールの大きなファンク・ロックを聴かせてくれる。  時代を先駆けしすぎてしまったニュー・ウェーブ・ロックの大傑作。デジタル・リバーブをかけまくった斬新で迫力のあるドラム、壮大なスケールのシンセサイザー、突き抜けるように爽快なメロディ。グルグル廻るようなエフェクトも含めて、この音作りの立体感は尋常ではない。今聴いても全く古さを感じさせない実験精神溢れる凄い作品。ただ、当時のリスナーはかなり面食らったらしく、批評家には大絶賛されながらもセールス的には全く伸びなかった。B面にカップリングされているアルバム未収録曲は、フリーダと息子Hans、そしてLillywhite夫人だった故Kirsty MacCollの共作。これまた不思議なポップ・センスに満ちた作品で、なんとも形容しがたい魅力がある。  U2のプロデューサーとして名高いSteve Lillywhiteをプロデューサーに迎えた英語ソロ第2弾。左のシングル“Shine”と同じように、その驚くべき完成度の高さにも関わらず、デジタル・エフェクトを駆使した幻想感のあるサウンドが当時としてはあまりにも革新的だったために全く売れなかったという不幸なアルバムでもある。泣く子も黙る大物ギタリスト、Tony Levinを筆頭に、Big CountryのStewart Adamson、Simon Climie、Kirsty MacCollとLillywhiteファミリー総動員の豪華なバックの面々にも注目。随所にスコットランド的なエッセンスを散りばめながら、非常にモダンでポップで緻密な音世界が繰り広げられる。個人的にはダークでシュールでトライバルなエレクトロ・ナンバー#4が大好き。ちなみに、#2は後にアメリカのダンス系シンガー、Alishaがカバーしている。  フリーダにとっては21年ぶりのスウェーデン語によるアルバム。これがまた、スタイリッシュでクールな大人のロック・アルバムに仕上がっている。アバ以降の彼女の作品全てに共通しているのだが、ここでもドラムのサウンド処理が秀逸。エフェクトを駆使しながら、硬質でメリハリの効いたカッコいいドラム・サウンドを聴かせてくれる。もちろん、ドラムだけではなく、映画のワン・シーンを想像させるようなドラマチックで重厚感のあるアレンジはどれも聴き応え十分。しかし何よりも素晴らしいのは、低音に深みを増した包容力のある渋いフリーダの歌声だろう。これぞカッコいい大人の女のお手本。孫のいるお婆ちゃんですぜ、これで。Marianne Faithfulにも通ずる、酸いも甘いも噛み分けた大人の美学溢れる秀作。

BLOMMA.JPG ALLA_MINA1.JPG ALLA_MINA2.JPG MIXES.JPG

Aven En Blomma (1996)

Alla mina basta ar (1996)

Alla mina basta ar (1996)
Vinny Vero US Remixes

The Mixes (1998)

(P)1996 Anderson Records (Sweden) (P)1996 Anderson Records (Sweden) (P)1996 Anderson Records (Sweden) (P)1998 New Music (Germany)
1,Aven en blomma 4:32
2,Aven en blomma (version) 6:34

produced by Anders Glenmark
1,Singel remix 4:47
2,Mix adagio 5:03
3,Spaceclub mix 6:27
4,Adagio instrumental

produced by Anders Glenmark
duet with Marie Fredriksson
1,Hasbrouck Heights single mix 5:49
2,Hasbrouck Heights Glacier mix 9:34
3,Qiuet mix 5:14
4,Vox 4:13
5,Jazzed Out Barracuda Dub 7:27

produced by Anders Glenmark
duet with Marie Fredriksson
remixed by Vinny Vero
1,Alla mina basta ar (Hasbrouck Heights Single Mix) 4:59
2,Ogonen (Lemon Mix) 4:34
3,Aven en Blomma (Version) 6:34
4,Alla mina basta ar (Mix Adagio) 5:03
5,Ogonen (Version) 4:23
6,Alla mina basta ar (TV Track) 4:59
7,Alla mina basta ar (Adagio Instrumental) 5:03
 “花でさえ”という意味のタイトルを持つ、“Djupa Andetag”からのファースト・シングル。50代にさしかかったフリーダ自身の心の成長と安らぎを歌った叙情的でメランコリックで爽やかなロック・ナンバー。#2はハウス的なアプローチのエレクトロなリミックスに仕上がっているが、残念ながらオリジナルのキャッチーな爽快感には敵わない。  スウェーデン出身で世界的にも一世を風靡したロック・デュオRoxetteの片割れMarie Fredrikssonとのデュエット・シングル。オリジナル・バージョンはモータウン・サウンドを意識した60年代風のポップ・ナンバー。アダージョ風のクラシカルなリミックス#2と#4、トランシーなプログレッシブ・ハウスに衣替えしたリミックス#3と、いずれも趣向を凝らしているものの、残念ながらオリジナルの良さを生かしきれていない。  こちらはBlondieの“Union City Blue”のリミックスなどを手掛けたVinny Veroによるリミックス・バージョンを集めたマキシ。こちらも、あえてここまでリミックスをする必要があるのか疑問を感じるような内容。スタイリッシュではあるかもしれないが、肝心の面白みに欠けているのが残念。  “Djupa Andetag”からのシングル曲のリミックス・バージョンを集めた企画盤。こうしてリミックスばかりをまとめて聴いてみると、逆にオリジナル・バージョンのクオリティの高さばかりが印象に残る。ファン及びコレクターにのみオススメの貴重盤。

DVD.JPG

THE DVD (2005)

(P)2005 Polar Music/Universal (UK)
画質★★★★★ 音質★★★★
DVD仕様(イギリスPAL盤)
カラー/スタンダード・サイズ/ステレオ/音声:英語・スウェーデン語/英語字幕/地域コード:ALL/205分/制作:スウェーデン
 フリーダの最新インタビューを中心に、今までブート・ビデオでしか見ることのできなかった、ありとあらゆるフリーダに関する映像を集めまくった究極のDVD。フリーダからのファンへの置手紙とも言えるような内容で、見終わった後に涙があふれ出て止まらなくなる。中でも必見は、デビュー当時のテレビ・ライブ。生歌を披露しているのだが、その上手さには舌を巻く。その他、英語ソロのプロモーション・ビデオも全曲フルで収録しているし、各アルバムの発売に当たって制作された当時のドキュメンタリー番組も全て見る事が出来る。フリーダがポール・マッカートニーと歓談する姿など、本当に貴重な映像の数々が収められており、ファン必携の素晴らしいDVD。

戻る