ディーバ Diva
イタリア映画界の女神たち

 

 日本でもよく歌姫を形容する言葉として使われる“ディーバ”。最近では、“カリスマ”という言葉と同じようにあまりにも手軽に使われすぎており、残念ながらその言葉の持つ価値や重みはすっかり無に等しくなってしまっている。もともとオペラのプリマドンナを指す形容詞として用いられてきたが、“ディーバ”とは本来イタリア語で“女神”を意味する。そして、イタリアではサイレント時代から映画のスター女優を指す言葉として使用されてきている。
 イタリア映画界における“ディーバ”第1号はフランチェスカ・ベルティーニと言われている。この時代がイタリアにおけるディーバ全盛期で、マリア・ヤコビーニ、リダ・ボレッリ、ピナ・メニケッリ、レダ・ギース、ディアナ・カレンヌなど数多くの銀幕の女神たちが人気を集めた。


 1922年にムッソリーニが首相に就任し、ファシスト政権時代に突入したイタリアでは、1930年に初のトーキー映画が発表される。このファシスト時代最大のディーバがイーザ・ミランダ。そのデカダンな美貌とドラマチックな演技はフランスでも絶賛された。その他、エルザ・チェガーニ、パオラ・バルバラ、ドリア・パオラ、カテリーナ・ボラット、ヴェラ・カルミ、ヴィヴィ・ジョイ、マリア・メルカデールといったエレガントなスターたちが、イタリアのハリウッドであるチネチッタを華やかに彩った。
 また、この時代にはファシスト政権が理想とする良妻賢母、そして貞淑な娘といった保守的な女性像を演じるスターも人気を集めた。その代表格とも言えるのが、“イタリアの恋人”と呼ばれたアリダ・ヴァリだろう。戦前・戦中のスターの多くが戦後は脇に回ったり消えていったりしたが、アリダ・ヴァリはハリウッド進出を果たした後もイタリアを代表する大女優として息の長いキャリアを歩むことになる。そのほか、アーシャ・ノリス、マリア・デニス、マリエッラ・ロッティ、リリア・シルヴィ、アドリアナ・ベネッティといった親しみやすいスター女優が大衆のハートをとらえた。戦後、スペクタクル史劇の女優としてハリウッドにも進出したマリナ・ベルティやネオ・レアリスモ映画で引っ張りだこになったカルラ・デル・ポッジョも、この時代に注目を浴びたスターだった。


 一方で、1940年のイタリアは初めてスクリーンの上で女性の裸が映し出されるようになった時代でもある。その第1号はクララ・カラマイ。ほんの一瞬だけ乳房が露わになるシーンはイタリア全土で一大スキャンダルとなり、カラマイを一躍トップ・スターにした。妖艶なヴァンプ女優だったドリス・デュランティもカラマイに引き続きスクリーンでヌードを披露したが、彼女はそれ以上にファシスト政権との密接な繋がりで悪名を轟かせることになる。ファシスト政権との繋がりと言えばルイザ・フェリーダも忘れてはならない。ムッソリーニ政権の高官と強い結びつきのあった俳優オズワルド・ヴァレンティの愛人だったフェリーダは当時の国民的スター女優だったが、1945年ヴァレンティと共にパルチザンに銃殺された。
 イタリア映画の戦後復興はネオ・レアリスモと共に始まった。その象徴とも言える作品「無防備都市」('45)に出演していたのがアンナ・マニャーニ。戦後のイタリアで最も国民に愛された大女優と言っていいだろう。また、一連のフェリーニ作品で名演技を見せたジュリエッタ・マッシーナ、「にがい米」('49)で世界的なセンセーションを巻き起こしたシルヴァーナ・マンガーノ、「オリーブの下に平和はない」('49)で脚光を浴びたルチア・ボゼ、いち早くハリウッドにも進出したヴァレンティナ・コルテーゼといったスターがイタリア映画の復興を支えた。
 1960年の「甘い生活」を頂点とし、イタリア映画界はかつてないほどに世界的な成功を収め、文字通り黄金期を迎える。そんな高度成長にあるイタリア映画を象徴するようなディーバがジーナ・ロロブリジーダとソフィア・ローレンだった。どちらも、50年代以降のイタリア映画を代表するスーパー・スターへと成長していく。彼女らの世界的な大成功によって、イタリア映画界は世界でも稀に見るスター女優の宝庫となっていく。特に濃厚でエネルギッシュなエロティシズムはイタリア女優の看板となり、スペクタクル史劇の女王となったジャンナ・マリア・カナーレ、シルヴァーナ・パンパニーニ、フランカ・マルツィ、エリ・パルヴォといった女優がセックス・アピールを発散しまくった。また、ハリウッドからやってきたスウェーデン女優アニタ・エクバーグも、その巨大なボディでイタリア映画界で全盛期を築いていく。


 一方で、上品な大人のエロティシズムで話題を呼んだのが「激しい季節」('59)のエレオノラ・ロッシ・ドラゴ。レア・パドヴァーニやロザンナ・スキャッフィーノらも実力とセックス・アピールを兼ね備えたスターだった。ネオ・レアリスモから登場したジョヴァンナ・ラッリの隣のお姉さん的魅力も忘れがたい。
 また、戦後の高度成長の中で新しい時代のスターも生み出されていった。ハリウッド進出も果たした絶世の美女ヴィルナ・リージ、知性派のレア・マッサリ、60年代のポップ・カルチャーを代表するアイコンともなったモニカ・ヴィッティ、そしてヴィスコンティやレオーネといった巨匠に愛された情熱的なディーバ、クラウディア・カルディナーレ。また、可憐な清純さとグラマラスな肢体のアンバランスで注目の的となったステファニア・サンドレッリ、貧しくとも美しい庶民の娘を演じたアントネッラ・ルアルディや、ピア・アンジェリの名前でハリウッドでも成功をおさめたアンナ・マリア・ピエランジェリ、「トロイのヘレン」('55)で世界一の美女と謳われたロッサナ・ポデスタ、トップ・モデルから女優に転身したエルザ・マルティネリ、清楚で可憐な庶民の娘を演じたロレッラ・デ・ルーカ、さらに「鉄道員」('56)の娘役からセックス・シンボルへと変身を遂げたシルヴァ・コシナなど、まさにスター女優花盛りの時代を迎える。また、青春スターとしてはフランス出身のカトリーヌ・スパークが絶大な人気を博した。


 さらに、イタリア産娯楽映画の世界的な人気を背景に、「007/ロシアより愛をこめて」で注目を集めたダニエラ・ビアンキ、イヴリン・スチュアートの名前でマカロニ・ウェスタンのスター女優となったイーダ・ガリ、スパイ映画やホラー映画で人気を得たエリカ・ブラン、やはりマカロニ・ウェスタンの名物女優となったラダ・ラシモフなどのセクシー女優がスクリーンを華やかに彩った。また、イギリス出身のバーバラ・スティールがホラー映画の女王としてもてはやされたのも忘れてはならない。
 60年代末の“革命の時代”を経て、新しい価値観の普及と共にスター女優も大胆な変貌を遂げていく。中でも、過激なセックス・シーンも辞さないようなパワフルな演技を見せる女優が注目を集める。濃厚な大人のエロティシズムで高く評価されたリーザ・ガストーニ、ヴィスコンティにまで認められたラウラ・アントネッリ、アルジェリア出身でイタリアを代表するセックス・シンボルとなったエドウィージュ・フェネッシュ、リナ・ウェルトミューラー作品で注目を集めた個性派マリアンジェラ・メラート、ブラジル出身の強面女優フロリンダ・ボルカン、可憐で美しい童顔ながら潔い演技で人気を集めたアゴスティナ・ベッリ、青春スターからイタリアのディーバへと成長したオルネラ・ムーティ、さらにはベテランのステファニア・サンドレッリやシルヴァ・コシナらも大胆な演技で話題をさらっていった。


 また、70年代は低予算のソフト・ポルノやセックス・コメディが大量生産された時代。ロサルバ・ネリやスーザン・スコット(ニーヴェス・ノヴァッロ)、マリサ・ロンゴ、フェミ・ベヌッシ、ナディア・カッシーニ、ダグマー・ラッサンダー、オルキデア・デ・サンティス、パオラ・セナトーレといったセクシー女優が大活躍した。中でも、グロリア・グイダとリリ・カラーチは若者を中心に絶大な支持を得た。また、スウェーデン出身のエヴァ・オーリンやハリウッドから移ってきたバーバラ・ブーシェ、インドネシア出身で“黒いエマニエル”として人気を集めたラウラ・ジェムサー、日本でも人気を得たフランス出身の“愛の妖精”アニー・ベル、ドイツ出身のカリン・シューベルトなど、外国人のセクシー女優も活躍。下積みの長かったベテラン女優マリーザ・メルも若いスターに混じってセックス・アピールを発揮した。

 しかし、イタリア映画が勢いを失っていった80年代以降、イタリアの映画女優も次第に元気を失っていく。イタリアン・エロスの帝王ティント・ブラス作品で活躍したセレナ・グランディやフランチェスカ・デレーラ、ソフト・ポルノやホラーで人気を得たエヴァ・グリマルディ、ガブリエル・ラヴィア監督作品で活躍したモニカ・ゲリトーレといったイタリアらしいグラマラスな女優は少数派となり、「レイン・マン」('88)などハリウッドで大活躍したヴァレリア・ゴリノ、同じくハリウッドの「マイ・プライベート・アイダホ」('91)で注目を集めたキアラ・カゼッリ、ナンニ・モレッティ作品やフランス映画で活躍するラウラ・モランテなど、知性派を前面に押し出した女優が主流を占めていく。スペイン映画「ルルの時代」('90)で過激なセックス・シーンを演じて話題になったフランチェスカ・ネリにしても、従来のイタリア女優のイメージからすると細身でセックス・アピールには乏しい。フランス映画「髪結いの亭主」('90)で話題になったアンナ・ガリエナが辛うじて、イタリア女らしい豊満なエロティシズムを持ち合わせていた。
 そんなイタリア映画界の救世主的な存在となったのがモニカ・ベルッチだろう。今やイタリア映画界で唯一世界を股にかけて活躍する美の象徴である。また、モデル出身で「イル・ポスティーノ」('95)で注目を集めたマリア・グラツィア・クッチノッタも往年のディーバを思わせる存在感を持つ。また、イタリアン・ホラーの巨匠ダリオ・アルジェントの娘アーシア・アルジェントも、父親譲りのエキセントリックな個性とミステリアスな美貌で女優兼監督として国際的に活躍をしている。そのほか、ロベルト・ベニーニ夫人のニコレッタ・ブラスキやマルガリータ・ブイ、マヤ・サンサ、バルボラ・ボブローヴァ、ジョヴァンナ・メッゾジョルノといったスター女優が活躍しているが、いずれも世界マーケットで活躍するには小粒な印象は拭えない。
 というわけで、イタリア女優の歴史を駆け足で紹介してきたが、その中でも個人的に好きなスターをピックアップして以下紹介していく。もちろん、他にも紹介したい女優は沢山いるが、それはまた別の機会に。いずれは、イタリア映画女優名鑑みたいなものも作ってみたいと思う。


FRANCESCA_BERTINI.JPG フランチェスカ・ベルティーニ Francesca Bertini

1892年1月5日 イタリアはフィレンツェの生まれ。

 “ディーバ”の称号は彼女のために生まれたと言っても過言ではない、サイレント期のイタリア映画を代表する大女優。日本でも「椿姫」('15)や「フェドラ」('16)といった作品が公開されているが、やはり代表作は「アッスンタ・スピーナ」('15・日本未公開)だろう。自由奔放で誇り高いナポリの娘、アッスンタ・スピーナが辿る悲劇を描くメロ・ドラマで、彼女自ら原作者のサルヴァトーレ・ディ・ジャコモに映画化権を交渉して監督まで手掛けた野心作。ナポリの市街地でロケを行い、主要キャスト以外は実際にナポリに暮らす素人を出演させ、徹底したリアリズムを追及した。ベルティーニの演技は気高さと気迫に満ち、セリフがないことすら忘れさせてしまう。そこには、我こそが映画界の女王であるというベルティーニの凄まじいまでのエゴが見え隠れするのだった。
 1921年にカルティエ伯爵と結婚して一時期引退をするが、1925年にスクリーンにカムバック。ライバルの多くが結婚して引退する中、トーキーの時代を迎えるまで映画界の女王として君臨した。そんな彼女のキャリアの足かせとなったのが、年齢とエゴだった。初トーキー作品「夜の女」('30・日本未公開)で相変わらずファム・ファタールを演じたベルティーニだったが、年齢は既に38歳。当時としては立派な中年である。あくまでも主役にこだわり、実年齢よりも若い役を演じる事を望んだ彼女は、トーキー以降数本の主演作を残して映画界から消え去った。
 ちなみに、今の美的価値基準からすると、全盛期のベルティーニはちょっと体格が良すぎるようにも見える。しかし、ハリウッドのサイレント期を彩った女優セダ・バラやクララ・ボウ、グロリア・スワンソンなども、どちらかというと体格は太めだった。グレタ・ガルボやキャロル・ロンバードだって、最初の頃はムチムチしていたもんである。フランスの伝説的な大女優サラ・ベルナールなんかも、はっきり言ってデブ一歩手前。まあ、そんな時代だったのである。
 そして、1976年。ベルティーニはベルナルド・ベルトルッチ監督作「1900年」の尼僧役で突如スクリーンにカムバックを果たす。1982年のドキュメンタリー映画「ベリッシモ」で自らのキャリアを振り返るベルティーニは、文字通り大女優の威厳とオーラに満ちていた。
1985年10月13日、ローマにて死去。 
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イザ・ミランダ Isa Miranda

1905年7月5日、イタリアはミラノの生まれ

 保守的なファシスト政権下のイタリア映画界において、イザ・ミランダは文字通り異彩を放つ大女優だった。そのデカダンな美貌とドラマティックで非日常的な演技は、女優にも庶民的な親しみやすさが求められた時代に明らかに逆行していたと言えるだろう。当時のイタリアでは非常に稀な、“ハリウッド的”カリスマ性を備えた女優だった。そのため、「シピオネ」('37)のような国外マーケットを狙った大作に数多く起用されたものの、イタリア国内での人気・評価は実は必ずしも高くはなかった。その一方で、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国での人気は高く、1937年にはパラマウントの招きでハリウッド進出を果たす。第2のディートリッヒとして売り出され、豪華なメロドラマ“Hotel Imperial”('39)に主演。しかし、もともとパーティーやレセプションが苦手な彼女は、ハリウッドでの生活に馴染めないまま帰国する。
 そんな彼女を祖国で待っていたのは、ファシスト政権による徹底した妨害行為だった。新聞や雑誌でも彼女の記事を取り上げることは禁じられ、実質的にキャリアを断たれてしまう。また、戦後のイタリア映画界でも、彼女の活躍の場は限られていた。逆境の中で必死に生きる庶民を描くネオ・レアリスモ運動の中では、彼女のような華やかな“スター”は必要とされなかったのである。そんな彼女を迎え入れたのがフランス映画界だった。若くてハンサムな青年将校ジェラール・フィリップを魅了する年増の美しい女優を演じた「輪舞」('50)、そしてカンヌ映画祭で最優秀女優賞を受賞した「鉄格子の彼方」('49)では港町で暮らす中年のウェイトレスを演じて新境地を開いた。
 その後は、中産階級の上品な中年女性や金持ちの夫人などを演じて脇役として息長く活躍。マリオ・バーヴァ監督のスプラッター・ホラー「血みどろの入江」('70)では冒頭に殺される大富豪の老女役で顔を出していた。
1982年7月8日、ローマにて死去。

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アリダ・ヴァリ Alida Valli

1921年5月31日、イタリアはイストリア地方ポーラ(現在はクロアチア領)の生まれ

 彼女こそ、イタリアの生んだ真の大女優である。我々日本人の知っているアリダ・ヴァリと言えば、彼女が並木道を歩くラスト・シーンが忘れがたいキャロル・リード監督の「第三の男」('49)や若い青年将校と道ならぬ恋に落ちる貴族の人妻を演じた「夏の嵐」('54)、庶民の生活の中に深く残る第2次大戦の傷跡を静かに描き出す「かくも長き不在」('60)といった揺るぎなき名作群での情熱的で生々しい演技、そして見るからに常人ではない魔女のバレエ教師を演じた「サスペリア」('77)や闇の世界の住人を演じた「インフェルノ」('80)といったホラー映画での怪女優といったところだろうか。汚れ役だろうと何だろうと気迫で演じきるその潔さはアッパレと言うしかないだろう。ロベルト・ベニーニ主演の“Berlinguer ti voglio bene”('77)では、ベニーニ扮するちょっと頭の弱い主人公のエキセントリックな母親を怪演。ボサボサ頭の口汚いオバチャンが、息子の友達とデキてしまった途端にケバケバしく若返ってしまう、そのエグいまでの生々しさが強烈だった。これこそ女優魂というもんだろう。
 そんな彼女も、かつて“イタリアの恋人”と呼ばれた初々しいアイドル女優時代があった。“白い電話”と呼ばれたロマンティックなブルジョワ・ドラマで、健気で愛らしい女学生や芯の強いお嬢様役を演じたアリダ・ヴァリは、誰もが憧れる“隣の女の子”だったのである。モニカ・ベルッチ主演の「マレーナ」でヒロインが繰り返し聴いていた歌を覚えているだろうか。主人公の少年がレコードを買い求めたあの歌こそ、当時のアリダ・ヴァリのヒット曲。そう、彼女は正真正銘のアイドル・スターだったのである。
 晩年も「サイレント・ラブ」('92)の寝たきりの老婦人や、「湖畔のひと月」('95)でのヴィラの女主人、そしてスペインのサスペンス映画「セマナ −血の七日間−」('02)での事件の鍵を握る老女などを演じ、非常に息の長い女優だった。すっかりお婆さんになってしまっていたが、唯一変わらなかったものがある。それは“目”。あのギラギラと煮えたぎるような情熱的な目である。年齢や役柄と共に容姿がどんなに変わろうとも、あの強烈な目だけは決して変わることがなかった。
2006年4月22日、ローマにて死去。

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カテリーナ・ボラット Caterina Boratto

1915年3月15日、イタリアはトリノの生まれ

 パゾリーニの大問題作「ソドムの市」('75)で、ファシストらによって監禁された少年少女たちに背徳的な物語を語って聞かせる怪しげな老婦人を演じた女優さん、と言えばピンとくる人もいるかもしれない。
 彼女の名前はカテリーナ・ボラット。ファシスト政権下のイタリアで、美しい歌声を持ったエレガントでロマンティックな映画女優として人気を集めたスターだった。ハリウッドの大物プロデューサー、ルイス・B・メイヤーも彼女の虜となり、1939年には渡米。第2のジャネット・マクドナルドとして売り出されるはずだったが、なかなかデビュー作が決まらない事に業を煮やした彼女は42年に自ら帰国。3本の主演作を撮った後、故郷であるトリノの医師と結婚して引退をしてしまう。
 その後、1951年に1度だけカムバックをはかったものの失敗。それきり映画界からは遠ざかっていた。そんな彼女をスクリーンに呼び戻したのが巨匠フェデリコ・フェリーニ。退廃したファシスト政権的な顔を求めていたフェリーニは、「8 1/2」('63)のミステリアスで美しい婦人役に彼女を起用した。さらに「魂のジュリエッタ」('65)では異様なまでに退廃的で無感情なジュリエッタの母親役を怪演。
 ファシスト時代を象徴するスターのイメージを逆手に取り、時には醜悪なまでにゴージャスで生活感のない貴婦人役で数多くの映画に出演した。名脚本家ロバート・ボルトが当時の妻サラ・マイルズを主演にメガホンを取ったイギリス映画「レディ・カロライン」('72)や、ジョン・キャンディ以下オールスター・キャスト出演のハリウッド映画「モンテカルロ殺人事件」('93)など、全盛期には果たしえなかった国際舞台での活躍も実現。人の運命というのは本当に分らないもんである。

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ヴァレンティナ・コルテーゼ Valentina Cortese

1925年1月1日、イタリアはミラノの生まれ。

 まるで中世の肖像画か彫刻から抜け出てきたような美しい女優。ハリウッドでの華々しいキャリアを期待されながらも、結局は大成しなかった。戦後のアメリカ映画では扱いづらいタイプの女優だったのかもしれない。それでも、フランソワ・トリュフォー監督の「映画に愛をこめて アメリカの夜」('73)では落ちぶれた往年の大女優を熱演、初めてアカデミー賞の助演女優賞にノミネートされる。しかし、結果は「オリエント急行殺人事件」のイングリッド・バーグマンの受賞。あまりにも地味で目立たない老女役を演じさせられた大女優バーグマンに対する同情票が集まった事は誰の目にも明らかだった。それを一番実感していたであろうバーグマンは、壇上から会場にいたコルテーゼに向かって“本当はあなたが受け取るべきよ”と言ってライバルの一世一代の名演技を讃えた。この年のアカデミー賞授賞式一番のハイライトだった。
 1941年に映画デビューしたコルテーゼは、ファシスト政権末期のイタリア映画界で歴史劇のお姫様女優として活躍した。彼女にとって幸いだったのは、同世代のスター女優たちのような“隣の女の子”的役柄をあてがわれる事がなかった事だろう。おかげで、彼女には“ファシスト政権時代のスター”というイメージがついて回ることがなかった。そのため、戦後のイタリア映画界にもすんなりと馴染んでいったのである。
 そんな彼女の転機となったのが名匠ルイジ・ザンパ監督の“Un americano in vacanza”('45)。アメリカ人の兵士と恋に落ちる田舎の女教師を演じたこの作品でハリウッドから注目された彼女は、20世紀フォックスと長期契約を結ぶ。記念すべきハリウッド進出第1弾はジュールズ・ダッシン監督のフィルム・ノワール“Thieves Highway”('49)。しかし、思い切り髪を切ってアメリカナイズされてしまった彼女は、いまひとつ魅力に欠けてしまった。その後も数多くのハリウッド映画やイギリス映画に出演するも、これといった代表作には恵まれなかった。やはり、彼女の魅力が一番発揮されたのはイタリア映画。アントニオーニ監督の「女ともだち」('55)などは、中年にさしかかった彼女の知的で洗練された個性が生かされた名作である。
 70年代以降は、「ブラザー・サン・シスター・ムーン」('72)から「尼僧の恋」('93)まで名匠フランコ・ゼフィレッリ監督作品の常連としても活躍。

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マリーナ・ベルティ Marina Berti

1924年9月29日、イギリスはロンドンの生まれ

 日本では「ベン・ハー」('59)の娼婦フラヴィア役くらいでしか知られていない女優だが、戦時中のイタリア映画界では絶大な人気を誇ったスターだった。デビュー作は名匠アルベルト・ラットゥアーダ監督の処女作「理想家ジャコモ」('42・日本未公開)。横暴な貴族の毒牙にかかって哀しい末路を辿る孤児の少女チェレスティーナを演じ、大衆の涙を誘った。この作品の大成功で、彼女は運命や社会の犠牲となる薄幸のヒロインを数多く演じ、イタリアの国民的なアイドルとなった。
 マリーナ・ベルティの本名はエレナ・モーリーン・ベルトリーニ。父親はイギリス在住のイタリア移民で、母親はイギリス人だった。生後すぐにイタリアへ帰国。トリノでモデルをしているところを、スカウトされて映画界に入った。マリーナという芸名は、親しい友達の間での愛称を使ったもの。
 ところが、戦後すぐに彼女は名前をモーリーン・メルローズと変えてしまう。メルローズという姓は、舞台女優だった母方の祖母の芸名を取ったもの。母親がイギリス人で英語を完璧に話せる彼女は、ハリウッド進出を視野に入れてアングロサクソン系の名前を名乗ることにしたのだ。その目論見は当たり、タイロン・パワー、オーソン・ウェルズ主演の剣劇「狐の王子」('49)でハリウッド・デビュー。名前も元のマリーナ・ベルティに戻し、ウェルズ扮するチェザーレ・ボルジアの従姉妹アンジェラ役を演じる。さらにはロバート・テイラー、デボラ・カー主演の史劇大作「クォ・ヴァディス」('51)で美しき奴隷女ユーニス役を演じた。こうして、折からの史劇ブームに乗ってベルティは「ベン・ハー」、タルソスの女王を演じた「クレオパトラ」('63)など史劇大作に欠かせない女優となった。しかし、あくまでも色添え的な脇役女優で、戦中のイタリア国内におけるようなスターの地位を築くことは出来なかった。
 その後は、バイオレンス映画の問題作「暴行列車」('75)で殺された娘の復讐を果たす母親役、「悦楽の闇」('75)のラウラ・アントネッリの母親役、そして「モニカ・ベルッチのエッチなだけじゃダメかしら?」('92)の大富豪婦人役など、年老いても変わらぬ美貌で息の長い女優活動を続けた。
2002年10月29日、ローマにて死去。

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クララ・カラマイ Clara Calamai

1909年9月7日、イタリアはトスカーナ地方のプラートの生まれ

 ダリオ・アルジェント監督の傑作ホラー「サスペリアPART2」('75)でピアニストのカルロの母親マーサ役を怪演した女優。元映画女優という設定のマーサの自宅に飾られていたポートレートは、全てクララ・カラマイ自身の全盛期のものだった。日本ではヴィスコンティ監督初期の名作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」('42)で愛のない結婚生活から抜け出そうとするヒロイン、ジョヴァンナ役を演じた女優として知られる。彼女は、ファシスト政権時代のイタリア映画界におけるファム・ファタールであり、イタリア映画史上初めてスクリーンでヌードを披露したスキャンダラスな女優だった。
 今世紀初頭の華やかな上流社会を舞台にした“Addio giovinezza!”('41)で主人公を誘惑する妖艶な美女エレナを演じて注目を集めたカラマイは、たちまち歴史劇や宮廷劇のファム・ファタール、悪女役として引っ張りだこになる。特に男性ファンからの人気は高かったが、逆に女性には最も人気の低い女優でもあった。そんな彼女がイタリア全土に衝撃を与えたのが19世紀を舞台にしたコスチューム・ドラマ“La cena delle beffe”('41)。カラマイ演ずるヒロイン、ジェネーヴァがガウンを剥ぎ取られ、胸元が露わになってしまうシーンが大問題となったのである。バチカンや保守層からは非難され、それに対してジュゼッペ・デ・サンティスを筆頭とする左翼系の批評家は真っ向から反論して作品を擁護した。勿論、世の男性ファンは大喜びで、全国の映写技師が劇場用のプリントから問題のシーンを盗み取ってしまうという事態にまで発展する。これだけのスキャンダルになったにも関わらず、監督がファシスト政権お気に入りの巨匠アレッサンドロ・ブラゼッティだったこともあり、作品そのものは年齢制限を加えただけで上映禁止の憂き目にあう事はなかった。
 戦後のカラマイは、1944年に結婚したボンツィ伯爵との家庭生活を優先させ、カメオ出演したヴィスコンティの「白夜」('57)など女優業は極めて控えめだった。
1998年9月21日、リミニにて死去

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ドリス・デュランティ Doris Duranti

1917年4月25日、イタリアはトスカーナ地方リヴォルノの生まれ

 ファシスト政権下で最もスキャンダルにまみれた女優と言えるだろう。露骨なまでの金と名声への欲望でスターとしての地位を築き上げ、女を武器に政治家や権力者を利用した。しかも、ファシスト政権の崩壊をいち早く察知し、見事に国外逃亡を成功させ、ほとぼりがさめた頃に帰国して再びスター女優に返り咲こうとするしたたかさ。その生々しいまでの女の業というのは、それはそれで見上げたものかもしれない。“女なら誰でも私みたいになりたいはずよ”と豪語した彼女は、ある意味では非常に勇敢な女性だったと言えるだろう。
 17歳で家を飛び出したデュランティは、当時から年上の男を利用することにたけた娘だった。彼女が最初に選んだターゲットは当時の国民的スター、ニノ・ベソッツィ。彼女よりも16歳年上の既婚者だったベソッツィを利用して映画デビューを果たしたデュランティは、ファシスト政権の官僚や政治家、貴族などと次々と関係を持っていった。しかも、彼女はそれを隠そうともしなかった。金と権力を何よりも愛する彼女にとって、まさに我が世の春を謳歌した時代だった。中でも有名だったのは、ムッソリーニの右腕であった文化大臣アレッサンドロ・パヴォリーニとの愛人関係だろう。さすがのムッソリーニも黙ってはおれず、パヴォリーニを呼んで叱り付けたというが、彼はデュランティに夢中で全く聞く耳を持たなかった。
 しかし、時代は劇的に変化していく。ムッソリーニ政権の崩壊とナチス・ドイツの侵攻。身に迫った危険をいち早く察知した彼女は、それまでに培った人脈を駆使して逃亡の経路を確保し、資金を調達し、見事スイスに逃げおうせてしまう。ちなみに、彼女はパルチザンの処刑リストに名前が挙がっていた。逃亡が遅ければ、確実に処刑されていたのである。
 1951年に帰国したデュランティは、再びかつての栄光を取り戻すべく映画界に復帰する。しかし、戦後のイタリアに彼女のような女優の活躍する場はなく、50年代半ばにドミニカ共和国に移住して高級レストランを経営するようになった。1975年には「悦楽の闇」('75)の娼館のマダム役で久々に映画界に復帰。出番こそ少なかったが、老いてもなお“女”であり続けようとする濃厚なエロティシズムは凄みすら感じさせた。
1995年3月10日、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて死去。

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ルイーザ・フェリーダ Luisa Ferida

1914年3月18日、イタリアはカステル・サン・ピエトロの生まれ

 ファシスト政権時代の悪名高き映画女優。ドリス・デュランティでさえ彼女のことを、“いい女優だったけれど、労働者階級の出身が抜けきれらなかった。服装は品がないし、話す言葉に全く知性がなかったわ”と辛辣な意見を述べている。自ら軍服を着て権力を見せ付けることを好み、さらには拷問されたパルチザンの前で裸で踊ってみせて嘲笑ったという逸話まで残されている。しかし、その一方で愛人だった俳優オスワルド・ヴァレンティとの絆は深く、ファシスト政権崩壊後も行動を共にし、国外逃亡を図ることもなくミラノで銃殺刑に処せられた。
 貧しい家庭に生まれたフェリーダはボローニャで舞台に立った後、16歳でローマに出て来て映画女優となった。庶民的な美貌を持った彼女は、たちまち大衆の人気を得るようになり、1942年に主演した“Fari nella nebbia”で国民的スターの地位を確固たるものとした。しかし、その一方でファシスト党幹部と密接な関係にあった俳優オズワルド・ヴァレンティの愛人となり、暴力とドラッグとセックスにまみれた世界へどっぷりと浸かっていく。
 そして1945年4月29日、ヴァレンティと共にパルチザンに逮捕されたフェリーダは、午前3時きっかりにミラノのポリツィアーノ通り射殺された。当時彼女はヴァレンティの子供を身ごもっていたという。

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アンナ・マニャーニ Anna Magnani

1908年3月7日、ローマの生まれ

 イタリア庶民に最も愛された映画女優だろう。“セラフィーナ”の愛称で親しまれ、かの巨匠フェリーニは“アンナ・マニャーニこそローマそのものだ”と語った。感情的で直情的。よく喋りよく笑いよく怒る。エネルギーとバイタリティーの塊り。情熱的でパワフルで悲哀に満ちたアンナ・マニャーニは、イタリア庶民の象徴的存在だった。その名声は海をも飛び越え、アメリカの戯曲家テネシー・ウィリアウムズは彼女のために「バラの刺青」を書き下ろす。そして、その映画化で1955年のアカデミー主演女優賞を受賞。イタリア人の俳優としては史上初のオスカー受賞だった。まさか自分が取れるとは思っていなかったマニャーニは、ローマの自宅に受賞を知らせてきたレポーターに向かって、“ウソよ。もし冗談だったら、あんたをぶっ殺すからね!”と言って信じなかったという。
 貧しい家庭の私生児として母親の女手一つで育てられたマニャーニは、キャバレーやナイトクラブのダンサーを経て、巡業劇団の女優として身を立てた。サイレント末期に映画界入りし、不遇の時代を経てロベルト・ロッセリーニ監督の不朽の名作「無防備都市」('45)のナチに射殺される若妻ピーナ役で強烈な印象を残した。ヴィスコンティの「ベリッシマ」('51)の肝っ玉母さん、ジャン・ルノワール監督の最高傑作「黄金の馬車」('53)の旅芸人一座の花形女優カミーラ、パゾリーニの「マンマ・ローマ」('62)の子持ちの中年売春婦マンマ・ローマ。彼女の演技はずば抜けてスケールが大きく豪快で、それでいて人生の苦難や哀しみをしっかりと受け止める力強さに溢れている。遺作となったのはフェリーニ監督が愛すべきローマへオマージュを捧げた「フェリーニのローマ」('72)。素顔のマニャーニを垣間見ることの出来る作品だった。
1973年9月26日、ローマにて死去。

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シルヴァーナ・マンガーノ Silvana Mangano

1930年4月23日、ローマの生まれ

 彼女ほど大きくイメージの変化を遂げた女優も珍しいかもしれない。ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」('71)の美少年タッジョの母親や「ルードウィヒ/神々の黄昏」('72)のワーグナーの愛人コージマといった後期のデカダンな気品あふれる貴婦人役からは、“原爆女優”と呼ばれた「にがい米」('48)や「シーラ山の狼」('49)の頃の逞しい庶民的な肉体派女優ぶりは想像もできまい。イタリアを代表する世界的な大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスの妻であり、そのキャリアはラウレンティスの管理下に置かれていたと言われているが、「私は宇宙人を見た」('64)のティント・ブラス監督は撮影に口を挟もうとする夫に対して激しく抗議をして監督を擁護するマンガーノの姿に感銘を受けたという。
 シチリアの鉄道労働者の父とイギリス人の母との間に生まれたマンガーノは、16歳のときにミス・ローマに選ばれたことをきっかけに映画デビュー。ポー川流域の水田で働く女労働者たちの悲哀を描いた「にがい米」のヒロイン役でセンセーションを巻き起こし、この作品の製作を手がけたデ・ラウレンティスと結婚した。その後は夫の製作する「ユリシーズ」('53)や「マンボ」('54)といった話題作に出演、中でもパゾリーニの「アポロンの地獄」('67)の王妃イオカステ役や「テオレマ」('68)のブルジョワの人妻ルチア役で見せた退廃的で妖しげな美しさは異様な迫力があった。
 晩年は娘のラファエッラ・デ・ラウレンティスが製作したSF大作「砂の惑星」('84)でスキン・ヘッドの尼僧役で登場。また、ロシアの名匠ニキータ・ミハルコフの「黒い瞳」('87)ではマストロヤンニ扮する主人公の気丈な妻を演じて映画女優として有終の美を飾った。
1989年12月16日、スペインのマドリードにて死去。

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ルチア・ボゼ Lucia Bose

1931年1月28日、ミラノの生まれ

 その代表作の多くが未公開なために、日本では非常に知名度の低い女優。しかし、ルチア・ボゼは戦後の高度成長期にさしかかったイタリアで、庶民の若い娘たちの憧れとも言えるスターだった。ただ、そのキャリアの全盛期にスペインの国民的闘牛士ルイス・ドミンギンと結婚して引退。同世代のジーナ・ロロブリジーダやソフィア・ローレンのように国際舞台で活躍することよりも家庭生活を選んだのは、イタリア映画界にとっては残念なことだったかもしれない。
 農家を捨ててミラノの工場で働くようになった父に育てられたボゼは、カフェの看板娘として地元では有名な少女だった。かの巨匠ヴィスコンティも、彼女を一目見て“君は必ず将来映画スターになるだろう”と太鼓判を押したという。そして、1947年のミス・イタリアに選ばれた事によって、その予言は実現することとなる。ちなみに、その年の出場者の中にはジーナ・ロロブリジーダ、エレオノラ・ロッシ・ドラーゴ、そしてジャンナ・マリア・カナーレといった後のトップ女優が含まれていた。
 ほっそりとして品のある顔立ちのボゼは、貧しい家庭の娘役から上流階級のお嬢様まで幅広く演じる事ができた。特に同世代の女性からの人気が高く、イタリア中の少女たちがスクリーンの中のルチア・ボゼに自らを投影し、共感した。出世作は「オリーブの下に平和はない」('50)。従軍している間に地主に土地を奪われ、最愛の妹まで手篭めにされた復員兵の復讐劇を描く作品で、ボゼは主人公の可憐で逞しい妹ルチアを演じた。さらに、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「愛と殺意」('50)では、年の離れた大富豪と愛のない結婚をした娘パオラを演じ、文字通り輝かんばかりの美しさだった。しかし1956年にドミンギンと結婚して引退。友人だったジャン・コクトーの誘いで「オルフェの遺言」('60)にカメオ出演した以外は、映画界からは遠ざかっていた。ちなみに、ドミンギンとの間に生まれた息子が、現在のスペインを代表するスーパー・スター、ミゲール・ボゼ。
 1968年にカムバックを果たしたボゼは、フェリーニの「サテリコン」('69)で自害する貴婦人を演じた他、「悪魔の入浴・死霊の行水」('72)では血塗られた貴婦人として伝説的なバートリ・エリジェベト役を熱演。また、「わが青春のフロレンス」('70)の主人公と愛し合う上品な中年女性役のしっとりとした美しさも印象的だった。また。フランチェスコ・ロージ監督の「予告された殺人の記録」('87)ではアントニー・ドロンの母親役で登場。息子が殺されたことを知って半狂乱になるシーンの演技が迫力あった。さらに、「ラスト・ハーレム」('99)ではマリー・ジラン扮するヒロインの老後を演じ、オープニングとエンディングで渋い味わいを見せた。すっかりゴツいお婆ちゃんになっていたのはちょっとビックリしたが。

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エレオノラ・ロッシ・ドラゴ Eleonora Rossi Drago

1925年9月23日、イタリアはクイント・アル・マーレの生まれ

 見るからにエレガントで上品な女優さん。モデル出身で、その美しさゆえに女優として大成するまでに時間がかかった。何と言っても、若い青年と恋に落ちる戦争未亡人ロベルタを演じたヴァレリオ・ズルリーニ監督の名作「激しい季節」('59)が印象深い。戦況が悪化する第2次世界大戦末期のイタリアを舞台に、周囲の反対を押し切って恋に身を焦がす男女の悲劇を叙情的に描く名作だった。
 ドロテア修道院付属女学校を経て、エレオノラ・デューゼの演劇学校で演技を学んだロッシ・ドラゴは、17歳の時にラジオ技師のチェザーレ・ロッシと結婚をする。47年にミス・ジョノヴァに選ばれ、同じアパートの住人だったジョヴァンニ・パオルッチ監督の紹介で1949年に映画デビュー。当初は通俗的なメロドラマのヒロインばかりを演じていたが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「女ともだち」('55)で仕事と結婚の間で揺れるヒロイン、クレリアを演じて高く評価された。「激しい季節」ではシルバー・リボン賞の最優秀主演女優賞を受賞。これで一躍トップ女優として活躍するかと思われたが、何故かそのまま脇役に回るようになってしまう。
 当時のイタリアのトップ女優は、多かれ少なかれ業界の大物のバック・アップがあった。ソフィア・ローレンやシルヴァーナ・マンガーノ、クラウディア・カルディナーレは世界的なプロデューサーの妻だったし、それ以外の女優たちも特定の大物監督やプロデューサーたちの庇護の下にあるのが普通だった。しかし、ロッシ・ドラゴにはそういった有力な後ろ盾がいなかったのである。
 その後は、チャールズ・ロートン主演のオールスター戦争映画「全艦船を撃沈せよ」('60)や名匠ジュゼッペ・デ・サンティス監督の「女の部屋」('61)、ラドリー・メッツガー監督版“甘い生活”と言える「炎」('69)などに出演。中でも、ピア・アンジェリと共に神経の歯車が狂っていくヒロインを怪演したサイケデリックでビザールな異色作“Nelle pieghe della carne”('70)は隠れた名作。モンド映画ファン必見である。

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ロッセラ・ファルク Rossella Falk

1926年11月10日、ローマの生まれ

 イタリアでは映画女優としてよりも舞台女優として尊敬されている人。特に、ヴィスコンティの演出した「欲望という名の電車」や「三人姉妹」といった舞台で、50年代の演劇界を代表する女優の一人となった。90年代には、モニカ・ヴィッティと共演した女版“おかしな二人”の舞台が大絶賛されている。日本では70年代以降のホラー映画やサスペンス映画で殺されるオバサンというイメージが強いが。
 映画デビューは1948年。映画界で知られるようになったのはフェリーニの「8 1/2」('63)からで、エヌーク・エーメの妹ロッセラ役を演じていた。「タランチュラ」('71)では事件の鍵を握っていたために殺される中年女性フランカ役。さらには、フランコ・ネロ主演作「新・殺しのテクニック/次はお前だ」('71)では前半で絞殺される病院の院長夫人役。また、ダリオ・アルジェント監督の「スリープレス」('01)でも犯人の秘密を知っていたがゆえに殺される老女役を演じている。

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ジーナ・ロロブリジーダ Gina Lollobrigida

1927年7月4日、イタリアはローマの生まれ

 今やソフィア・ローレンと並んでイタリアの国宝級スターである。今年のダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞(イタリアのアカデミー賞)では同賞の50周年記念賞を授与されているし、96年には功労賞を、86年にはローマ市金賞を受賞している。ロッロの愛称で親しまれた血気盛んなイタリアのお転婆娘は、フランス映画のロマンティックなお姫様からハリウッド製アドベンチャーのファム・ファタールまで演じ、イタリアの美の象徴とまでなった。実際、ソフィア・ローレンが美しいという概念を超越してしまった怪物であるのに対し、ロロブリジーダは完璧なまでに均整の取れた絶世の美女である。「美女の中の美女」('55)なんて作品もあったが、巨匠キング・ヴィダー監督のハリウッド史劇大作「ソロモンとシバの女王」('59)のシバの女王役なんて彼女でなければできなかったろう。
 もともと芸術の道を志して絵画と彫刻を学んでいたが、たまたま彼女の姿をみかけた映画プロデューサーによって映画の端役を得るようになる。さらにモデルを始め、47年にはミス・イタリアに出場。「白い国境線」('50)や「街は自衛する」('51)といったネオ・レアリスモ的作品で注目されるようになり、フランスでジェラール・フィリップと共演した「花咲ける騎士道」('51)と「夜ごとの美女」('52)で国際的に知られるようになる。さらに、ヴィットリオ・デ・シーカと共演した「パンと恋と夢」('53)のはねっかえり娘マリア役でイタリアの国民的なスターとなり、ジョン・ヒューストン監督の「悪魔をやっつけろ」('53)でハリウッド・デビューも果たした。「ローマの女」('54)では男たちに翻弄されていく貧しい娘役を熱演。88年のテレビ・ムービー版リメイクでは母親役を演じている。また、ヴィルナ・リージ、エルケ・ソマー、モニカ・ヴィッティらと共演したオムニバス形式のセックス・コメディ「バンボーレ」('65)も楽しかった。階段から降りてくる彼女の脚からカメラがなめていく登場シーンなんかとてもセクシーだった。
 70年代以降は写真家として活躍。さらにテレビのドキュメンタリー映画を監督するなど、女優としての引き際を計算した転身には潔いものがあった。それでも、80年代以降も時折映画やテレビに出演。フォトグラファーとしての片手間に女優業を楽しんでいるといった印象の余裕がまた、彼女の大女優たる風格と知性を感じさせる。

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ソフィア・ローレン Sophia Loren

1934年9月20日、イタリアはポッツォーリの生まれ

 イタリア映画界の生ける伝説。文字通り奇跡のような存在だろう。その大げさな顔の造形といい、ホルスタインのような巨乳といい、冗談じゃないかと思うくらいにトゥー・マッチなゴージャスぶりは世界でも類をみない人種である。そう、彼女はソフィア・ローレンという名の、世界にただ一人の人種なのである。というか、そうとしか思えない(笑)。
 私生児として母親に育てられたローレンは、14歳の時に学校の先生にプロポーズされたという逸話も残っているくらい成長の早い少女だった。1950年に海の女王コンテストで第3位となり、娘の可能性に気付いた母親の勧めで演劇学校に通うようになる。母と共にローマに出たローレンは、ここで後の大物プロデューサー、カルロ・ポンティと出会う。ポンティの製作した「アンナ」に早く出演した後、ローマの映画実権センターで演技を学ぶ。“Africa sotto i mari”('52)で注目を集め、野生的なエロティシズムを爆発させた「河の女」('54)で世界的なセンセーションを巻き起こす。この作品を見たスタンリー・クレイマー監督の招きでハリウッド映画「誇りと情熱」('57)に出演。さらに「黒い蘭」('59)でベネチア国際映画祭最優秀女優賞を、「ふたりの女」('61)でアカデミー主演女優賞とカンヌ国際映画祭最優秀女優賞を受賞し、押しも押されぬ世界的な大女優となった。
 私生活では既婚者だったカルロ・ポンティと57年にメキシコで結婚。ただし、離婚を認めないバチカンは重婚罪で二人を訴える。結局、66年に晴れて結婚が認められた。その後も「ローマ帝国の滅亡」('64)、「クロスボー作戦」('65)、「カサンドラ・クロス」('76)、「リベンジャー」('79)のようなオールスター・キャストの大作映画のヒロイン務める他、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作「ひまわり」('70)やエットーレ・スコラ監督の「特別な一日」('77)のような叙情的な小品佳作にも出演。ロバート・アルトマン監督の「プレタポルテ」('94)ではマルチェロ・マストロヤンニと「ひまわり」の名コンビを再現してファンを喜ばせた。

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ジョヴァンナ・ラッリ Giovanna Ralli

1935年1月2日、イタリアはローマの生まれ

 この人は、若い頃の娘役時代よりも年をとってからの方がとてもいい味を出している。中でも、主人公と愛のない結婚をしてしまう女性エリーデ役を演じた「あんなに愛しあったのに」('74)は本当に素晴らしかった。わがままで気の強いお嬢様で、婿養子の夫を小ばかする鼻持ちならないマダム。しかし、実は結婚当初から自分が夫から愛されていない事に深く傷ついており、夫の気を引くために憎まれ役を演じていたのだ。そして、結局未だに夫の心が昔の恋人のところにある事を知り、独り寂しく自らの命を絶つ。その最後の瞬間の美しい表情がなんとも忘れがたい名演だった。
 子役からスタートしたラッリは、50年代初頭に人気を集めたファミリー・ドラマ・シリーズ“La famiglia Passaguai”で名優アルド・ファブリーツィの娘役で人気を集めた。ちなみに、「あんなに愛しあったのに」で彼女の父親である富豪を演じたのもアルド・ファブリーツィ。ロベルト・ロッセリーニ監督の「ロベレ将軍」('59)と「ローマで夜だった」('60)の2本でヒロインを演じて国際的にも知名度を高めた。“Carmen di Transteve”('62)ではカルメン役を演じ、“Liola”('64)では大スター、ウーゴ・トニャッツィと名コンビぶりを見せた。イタリアでの絶大な人気を受け、60年代半ばにはハリウッドにも進出するが、残念ながら作品に恵まれなかった。
 60年代末からはアクション映画やスリラーなどの娯楽映画にも多数出演。ジャロ(猟奇サスペンス)の秀作「冷酷なる瞳」('70)で演じた妖艶なマダム役なんかも、ちょうど「夕なぎ」の頃のエリザベス・テイラーのような雰囲気でとても良かった。

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シルヴァ・コシナ Sylva Koscina

1933年8月22日、旧ユーゴスラヴィア(現クロアチア)はザグレブの生まれ

 それはもう綺麗な女優さんだった。ピエトロ・ジェルミ監督の名作「鉄道員」('56)の長女ジュリア。頑固で誇り高い父親に反抗し、恋人の子供を身ごもって家を追い出されてしまう娘。可憐でけなげな、下町に咲く一輪の花といった感じだった。世界的な史劇ブームを巻き起こしたスティーヴ・リーヴス主演の「ヘラクレス」('58)と「ヘラクレスの逆襲」('59)では世にも美しいお姫様。これがきっかけで、ハリウッドやイギリス、フランスなどの映画にも出演し、一時期は世界で最も多忙な女優の一人だった。ただ、決定的な代表作に恵まれなかったため、容姿の衰え始めた70年代以降は色情狂のマダムや憎まれ役等が多くなり、本人も積極的に激しいセックス・シーンを演じるようになった。かつてのお姫様女優の末路かと思うと、その姿には痛々しさすら感じる。
 もともと彼女はイタリア人ではない。旧ユーゴスラヴィア出身でイタリアで活躍した人と言えば他にベバ・ロンカールやミレーナ・ヴコティックなどがいる。第2次大戦中に祖国を逃れ、イタリアに住む姉を頼って来た。ナポリ大学医学部在学中に映画デビューを果たすが、当初はなかなか役に恵まれなかった。「鉄道員」の成功で一躍アイドル・スターとなったコシナは、先述したように「ヘラクレス」シリーズをきっかけに国際舞台でも活躍するようになる。カーク・ダグラスと共演した「ボディガード」('68)やポール・ニューマンと共演した「脱走大作戦」('68)などハリウッド映画での主演作も多かったが、どれも興行的にはイマイチだった。個人的にはエルケ・ソマーとコンビで、セクシーで冷酷な女殺し屋を演じた「キッスは殺しのサイン」('66)のとぼけたコメディエンヌぶりが楽しかった。しかし、70年代以降は急速に容姿も衰えていき、「サンデー・ラバーズ」('80)ではサイボーグにしか見えないような厚化粧でオッパイまで露出、あまりにも必死な姿が哀れでさえあった。本当、年齢というのは残酷なもんである。
 ちなみに、本人の説明によると、彼女の名前は正確にはシルヴァ・コスチーナと発音するのだそうだ。
1994年12月26日、ローマにて死去。

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クラウディア・カルディナーレ Claudia Cardinale

1938年4月15日、チュニジアはチュニスの生まれ

 ジーナ・ロロブリジーダにソフィア・ローレンという巨大な存在の陰に隠れてしまいがちだが、クラウディア・カルディナーレもイタリアが世界に誇るれっきとした大女優である。日本でもブリジッド・バルドーのBBに対抗してCCなどと呼ばれるほど人気があった。初期の「刑事」('59)や「汚れなき抱擁」('60)、「鞄を持った女」('61)、そして「ブーベの恋人」('63)の頃の、情熱的で庶民的な娘役、さらにはハリウッド進出を果たした「ピンクの豹」('64)や「サンタモニカの週末」('67)、「恋人泥棒」('68)におけるスウィンギーでお洒落なセックス・シンボル、そして巨匠ヴィスコンティによる「山猫」('63)や「熊座の淡き星影」('65)、セルジョ・レオーネによるウェスタン叙事詩「ウエスタン」('68)における風格あるドラマティックな大女優の顔。実に様々な作品で多彩な演技、表情を見せてきた。そのフィルモグラフィーはローレンやロロブリジーダも顔負けと言えるだろう。
 シシリア生まれの父親とフランス人の母親の間に生まれたカルディナーレは、チュニスで行われた美人コンテストに優勝したことからベネチア映画祭に招かれ、そこで映画プロデューサーのフランコ・クリスタルディと出会う。ローマの国立映画実験センターで演技を学び、クリスタルディのガイドのもと58年に映画デビュー。66年にはクリスタルディと結婚した。実は彼女、18才の時に息子パトリックを産んでおり、ずっと弟として育ててきていた。そのパトリックに子供が生まれた直後に、カルディナーレも娘を出産。孫と娘が同時に生まれたということで話題になった。
 70年代以降は、公私共に渡るパートナーとなったパスクアーレ・スキティエッリ監督の作品に数多く出演。「鉄人長官」('77)や「クラレッタ・ペタッチの伝説」('84)といったイタリアの近代史を描く作品でドラマチックな演技を見せている。また、「ピンク・パンサーの息子」('93)ではロベルト・ベニーニの母親役で顔を出し、作品の出来は芳しくなかったものの、同シリーズのファンには感慨深いものがあった。
 個人的には、やはり彼女のベストは「ウエスタン」だろう。カルディナーレ扮するヒロインが、広大な西部で生きていく決意を固める壮大なクライマックスは何度見ても感動する。

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ヴィルナ・リージ Virna Lisi

1937年9月8日、イタリアはアンコナの生まれ

 いわゆるイタリア的なグラマー女優ではない。ブロンドの髪にほっそりとしたしなやかな体。そして何よりも印象的な大きな瞳。猫のようにシャープな顔つきで、ハッとするような美女。非常にハリウッド的なタイプのセックス・シンボルだったと言えるだろう。もともとは庶民的な少女スターとして売り出されたが、次第にミステリアスでセクシーな大人の女へと生まれ変わっていく。ただ、その完璧なまでの美しさが邪魔をし、女優としてはなかなか正当に評価されなかった。映画出演も少なくなって行き、半ば忘れ去られかけた1994年、突如「王妃マルゴ」でカンヌ映画祭最優秀女優賞を受賞して華々しいカムバックを果たした。言われなければヴィルナ・リージだとは気付かないほどの凄まじいい形相で稀代の悪女カトリーヌ・ド・メディチを大熱演。古くからの映画ファンをアッと驚かせたものだった。
 家族ぐるみの付き合いだった歌手ジャコモ・ロンディネッラを通じてフランチェスコ・マゼーリ監督にスカウトされたのが15歳の時。53年に映画デビューを果たし、思春期の女学生とハンサムな教師の恋愛を描く学園ドラマ“Le diciotenni”('55)で人気スターとなった。国際的に注目されるようになったのはジョセフ・ロージー監督による「エヴァの匂い」('62)。これがきっかけでハリウッドへ渡り、ジャック・レモン共演のコメディ「女房の殺し方教えます」('64)に出演してスターの地位を築いた。「バンボーレ」('65)や「蜜がいっぱい」('66)などでエレガントなブロンドのセックス・シンボルとして活躍するが決定的な代表作には恵まれなかった。
 70年代以降は同性愛に揺れる美少年の母親役を演じた「エルネスト/美しき少年」('79)、さらに男を巡って実の娘と壮絶な女の戦いを繰り広げる「スキャンドール」('80)など、かなり捨て身の大熱演を見せたがなかなか世間一般には認められなかった。「王妃マルゴ」の成功以降は、「心のおもむくままに」('95)で円熟した老女優らしい演技を披露した他、テレビ映画「デザート・オブ・ファイアー」('97)では社会的に成功した切れ者のビジネス・ウーマンを演じて久しぶりにゴージャスなヴィルナ・リージを見せてくれた。

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ロッサナ・ポデスタ Rossana Podesta

1934年7月20日、リビアはトリポリの生まれ

 世界一の美女、と呼ばれた女優。何と言っても「トロイのヘレン」('55)である。日本ではサントラのヒットによるリバイバル公開のおかげで、すっかり「黄金の七人」('65)の印象が強いだろう。峰不二子の元ネタとも言えるセクシーでファッショナブルで油断ならない美しき女泥棒。「続・黄金の七人/レインボー作戦」('66)では、金を見ただけで髪の毛から服から瞳までゴールドに変わってしまう特異体質(?)を披露、アハ〜ンなんてため息つきながら全身黄金まみれになってしまう姿がなんともエロチックでキッチュだった。
 父親は彫刻家でトリポリ市長も務めた事のある有力人物。第2次大戦の勃発で母国イタリアに戻り、16歳の時にスカウトされて映画デビューした。戦後の自由な雰囲気を謳歌した新しい世代の青春スターとして売り出され、メキシコの映画監督エミリオ・フェルナンデスの“La Red”('53)に主演する。これをカンヌ映画祭で見たハリウッド関係者の目に留まり、ロバート・ワイズ監督の「トロイのヘレン」で華々しくハリウッド・デビューを飾った。それまで健康的な普通の女の子を演じていたポデスタは、ハリウッド・マジックによってトロイの陥落を招いた絶世の美女ヘレンに生まれ変わったのである。
 これですっかりイメージ・チェンジに成功したポデスタは、「狂った本能」('58)や「ソドムとゴモラ」('61)といった作品で肉感的なセックス・シンボルとして売り出していく。特に、53年に結婚したマルコ・ヴィカリオ監督とのコンビで作った「濡れた本能」('64)や「黄金の七人」シリーズ、「ああ結婚」('73)でのセクシーな演技が一番輝いていた。70年代以降は映画出演も少なくなっていき、久々に日本のスクリーンに登場した「女テロリストの秘密」('85)ではヒロインの母親役で、すっかり肝っ玉母さんになっていた。ルイジ・コッツィ監督のSF映画「超人ヘラクレス」('82)では女神ヘラ役で顔を出している。

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エルザ・マルティネッリ Elsa Martinelli

1935年1月13日、イタリアはトスカーナ地方グロセットの生まれ

 いわゆるスーパー・モデル出身の女優である。それだけに、ウルトラ・モダンなファッション満載の「華麗なる殺人」('65)やカラフルなファッションが楽しかった「イタリア式愛のテクニック」('66)なんかの彼女は素晴らしくゴージャスでスタイリッシュだった。彼女の場合珍しいのは、デビュー作がハリウッド映画だったこと。
 ニューヨークのショーに出演していた彼女に惚れ込んだカーク・ダグラスのスカウトでダグラス主演の「赤い砦」('55)で映画初出演。翌年にはシルヴァーナ・マンガーノをスターにした「にがい米」の成功よ再びとばかりに狙った「水田地帯」('56)でイタリア映画にも出演し、“Donatella”('56)ではベルリン映画祭の最優秀女優賞まで受賞した。さらにハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演という話題作「ハタリ!」('61)でウェインの相手役に抜擢されハリウッドでも人気スターとなる。また、ロジェ・ヴァディム監督の名作「血とバラ」('61)では女吸血鬼カミーラに狙われる美女ジョルジア役を演じ、アネット・ヴァディムとレズビアン的なエロスを披露した。
 結局、モデル出身の女優というイメージを覆すような役柄には恵まれず、70年代以降の出演作は少ない。57年に結婚したマンチネッリ伯爵との間に生まれた娘クリスチアーナは一時期女優として活動していた。

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マリーザ・メル Marisa Mell

1939年2月24日、オーストリアはグラーツの生まれ

 そのゴージャスな美貌とディーバ・ライクなオーラにも関わらず、女優としては決して恵まれたキャリアを歩んだ人ではなかった。恐らく不器用な人だったのだろう。それを象徴するのが、ハリウッド・デビューを蹴った一件である。ギャラは申し分なかったが、問題はそんな事ではなかった。“本一冊分の契約書だったのよ。あれじゃトイレに行くのにだって許可が要るわ。”普通の女優なら喜んで飛びつくハリウッド・デビューだが、彼女が一番嫌がったのは束縛される事だった。
 ウィーンの名門マックス・ラインハルト演劇学校に学び、1960年に映画デビュー。しかし、63年にフランスで交通事故に巻き込まれ、片目を失明しかけるほどの重傷を負った。1年をリハビリと整形手術に費やし、64年にカムバック。ケン・ラッセル監督の「フレンチ・ドレッシング」('64)を経て、イタリアで出演した「ゴールデン・ハンター」('65)や「地獄のランデブー」('66)が好評で、以降イタリアを活動の拠点に据える。マリオ・バーヴァ監督の「黄金の眼」('68)で演じた怪盗ディアボリックの片腕エヴァ・ケント役で熱狂的なファンを掴み、ダイアナ・ロス主演のハリウッド映画「マホガニー物語」('75)にも出演した。特に、モンドでフェティッシュなファッションに身を包んだ「黄金の眼」のエヴァ・ケント役は最高にクールだった。
 その後も、ヘルムート・バーガーと共演したカルト的バイオレンス映画“La belva col mitra”('77)に出演したり、“プレイボーイ”誌でヌードを披露したりと話題に事欠かなかったが、80年代以降急速にスクリーンから消えてしまう。生活に困った彼女は、アダルト雑誌“Men”のハードコア・グラビアを飾ったり、自伝を出版したりするが反響は少なく、晩年は超低予算の特撮映画「魔宮神話レジェンド・オブ・サ・ダー」('90)に女神役で顔を出したりしていた。92年に癌で亡くなった時には殆ど無一文で、葬儀は数人の友人が出席しただけの質素で寂しいものだったという。
1992年5月16日、ウィーンにて死去

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ステファニア・サンドレッリ Stefania Sandrelli

1946年6月5日、イタリアはヴィアレッジョの生まれ

 イタリア映画黄金期が最後に生み出した大女優と言えるかもしれない。ハリウッド進出こそ果たさなかったが、ピエトロ・ジェルミにベルトルッチ、エットーレ・スコラといった巨匠たちに愛され、数多くの名作で素晴らしい演技を見せてきた。その一方で、30代以降はイタリアン・エロスの女神として数多くのソフト・ポルノで大胆な演技を披露。ティント・ブラス監督の「鍵」('84)では放尿シーンまで演じて度肝を抜かされた。デビュー当初から愛らしい童顔と成熟した体のアンバランスが魅力で、ジェルミの傑作「イタリア式離婚狂想曲」('61)や「誘惑されて棄てられて」('63)ではシチリアの男社会で翻弄される小悪魔的魅力の少女を演じて輝いていた。
 水着コンテストで入賞したのをきっかけにモデルとなり、1961年に映画デビュー。ピエトロ・ジェルミ監督の秘蔵っ子として売り出され、たちまち人気スターとなった。ベルナルド・ベルトルッチも彼女の不思議な魅力にとり付かれた一人で、ドミニク・サンダとのレズビアン的なダンス・シーンが強烈に印象に残る「暗殺の森」('70)や「1900年」('76)、「魅せられて」('96)と、たびたび起用している。
 しかし、彼女の魅力を最大限に引き出したのはエットーレ・スコラ監督ではないかと思う。特に「あんなに愛しあったのに」('74)でのサンドレッリは、他の作品では見せないような瑞々しくも愛らしい魅力に溢れており、確実に彼女の代表作と言えるだろう。スコラは「ラ・ファミリア」('87)、「星降る夜のリストランテ」('00)でもほのぼのとした演技を引き出している。また、フランチェスカ・アルキブージ監督の「ミニョンにハートブレイク」('88)での可愛らしいお母さん役も素敵だった。「ハモン・ハモン」('92)での金持ち男の母親役のコミカルな演技も面白かった。
 最近では65年に未婚で生んだ娘アマンダも人気女優として活躍しており、今では孫のいるお祖母ちゃんである。とは言っても、相変わらず若々しくて、とても孫がいるようには見えないのだが。

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エリカ・ブラン Erika Blanc

1942年7月23日、イタリアはブレスチアの生まれ

 60年代から70年代にかけて活躍した、イタリア産B級映画の女王である。スパイ映画からホラー、コメディにマカロニ・ウェスタンと、何でもござれという感じで出演しまくっていた。一種独特のクラシカルな顔立ちをした女優で、その他大勢のB級映画女優とは違ったカリスマ性を備えていた。中でも「淫虐地獄」('71)でのミステリアスなサッキュバス役での凄まじい怪演や、“La notte che Evelyn usci dalla tomba”('71)のセクシーなキンキー・ブーツ姿はいろんな意味で忘れがたい。
 ガルダ湖のほとりで育ったブランは、フランスとスイスで学んだ後、ファッション雑誌の記者として働いた。二十歳の時に地元のガルダ湖に関するドキュメンタリー映画に顔を出したところをブルーノ・ガブッロ監督に見出され、63年に映画デビュー。ガブッロとは62年に結婚している。「復讐のジャンゴ・岩山の決闘」('66)で演じた純情な酒場の娘役辺りから重要な役を与えられるようになり、マリオ・バーヴァ監督の傑作「呪いの館」('66)のヒロイン役で注目を集める。その後は、女パルチザンを演じた「地獄のノルマンディ」('68)やシルヴィア・クリステルよりも先にエマニエル夫人を演じた“Io, Emmanuelle”('69)など数多くのB級映画に出演。カルト女優の名を欲しいままにする。
 しかし、彼女自身はシリアスな女優として評価されることを望んでおり、76年頃から活躍の場を舞台へと移す。91年にはランベルト・バーヴァ監督のサスペンス・ホラー「ボディ・パズル」('91)に精神科医役で出演して往年のジャロ・ファンを喜ばせるものの、それも一時的なカムバックに過ぎなかった。だが、21世紀に入ってにわかに映画出演が増えてきている。シルバー・リボン賞で3部門を受賞した同性愛をテーマにしたシリアス・ドラマ“Le fate ignoranti”('01)やソマリア戦争を題材にした“Ilaria Apri”('02)、親友の自殺を機に人生を考え直すキャリア・ウーマンを描く“Cuore sacro”('05)など、ここ数年積極的に映画出演を果たしている。脇役ながら、シリアスな女優になりたいという夢がようやく叶ったと言えるだろう。

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ラウラ・アントネッリ Laura Antonelli

1941年11月28日、イタリアはイストリア地方(現在はクロアチア)ポーラの生まれ

 70年代のイタリアを代表するセックス・シンボルである。「青い体験」('73)のセクシーな継母役で一世を風靡し、巨匠ヴィスコンティの「イノセント」('75)でヒロインを務めるまでになった。セックス・コメディと芸術映画の両方で活躍し、ただのグラマー女優ではない事を証明したかに見えたが、結局は“セックス・シンボル”という己のイメージに囚われすぎて大女優にはなれなかった。
 ローマで美術学校に通う学生だったアントネッリは、テレビCMに出演したことをきっかけに66年映画デビュー。フェティッシュでゴージャスなファッションと豊満なヌードが話題になった「毛皮のビーナス」('70)で一躍注目される。さらに、一時期恋人だったジャン=ポール・ベルモンドと共演した「コニャックの男」('71)やジャン=ルイ・トラティニャンと共演した「刑事キャレラ10+1の追撃」('71)といったフランス映画で活躍し、「青い体験」でシルバー・リボン賞の最優秀主演女優賞を受賞。そして、先述したヴィスコンティの文芸大作「イノセント」と、そのヴィスコンティの弟子であるジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ監督がファシスト党台頭の時代を背景に描く退廃的な芸術映画「悦楽の闇」('76)で女優としての頂点を迎える。個人的にはジャンカルロ・ジャンニーニとのコンビで様々な役柄を演じるオムニバス形式のセックス・コメディ「セッソ・マット」('73)が、痛快かつ抱腹絶倒の面白さでダントツに好き。
 中年に差し掛かってからも、名匠マウロ・ボロニーニ監督による古典的艶話「薔薇の貴婦人」('84)やグリッフィ監督と再び組んだ「スキャンダル愛の罠」('85)で深みのある成熟したエロスを表現するようになり、上手く年を重ねていくと思われた。・・・のだが、その後は「アモーレ・アバンチュール」('87)や「青い体験」のその後を描く“Malizia 2000”('92)といったどうしようもないセックス・コメディで、かつての栄光よ再びと頑張ってはみたものの、結局は寄る年波に勝てず消えていってしまった。

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ダグマー・ラッサンダー Dagmar Lassander

1943年6月16日、チェコはプラハの生まれ

60年代から70年代にかけて、イタリアのB級映画には欠かせないセクシー女優だった。往年のハリウッド・スター、スーザ・ヘイワードにそっくりな気の強そうな顔立ちで、その美しさはテクニカラーでこそ映えるものだったと言えるだろう。中でも、謎の脅迫者に狙われる人妻を大熱演した“Le foto proibite di una signora per bene”('70)はジャロの隠れた名作で、彼女が優れた演技者であったことを示している。
 映画デビューは66年。もともと西ドイツで女優活動を始めた人で、人気スパイ映画“ジェリー・コットン”シリーズで売り出した。ピエロ・スキャザッパ監督の“Femina ridens”('69)でイタリア映画に初出演し、マリオ・バーヴァ監督の「クレイジー・キラー/悪魔の焼却炉」('69)や「続シンジケート」('73)など数多くのイタリア産娯楽映画に色添えとして顔を出した。「恐怖!黒猫」('80)や「墓地裏の家」('81)といったルチオ・フルチ監督作にも出演している。印象的な美人だったが、いかんせん決定的な代表作に恵まれなかったのは不運だったと言えるだろう。

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オルネラ・ムーティ Ornella Muti

1955年3月9日、イタリアはローマの生まれ

 イタリア映画界の生んだ最後のディーバと呼んでも過言ではないかもしれない。すっかり小粒な女優ばかりになってしまった感のあるイタリア映画において、往年の大女優の風格を漂わせるグラマラスなスター。そう、スターという言葉が似合うイタリア女優は、今ではすっかり稀になってしまった。デビュー当時の、物静かながら激しい情熱を秘めた鋭い眼差しはクラウディア・カルディナーレを彷彿とさせるものがあったし、「ありきたりな狂気の物語」('84)や「予告された殺人の記録」('87)ではアリダ・ヴァリやアンナ・マニャーニにも通ずるイタリア女優のバイタリティを感じさせてくれた。シルベスター・スタローンの妻役を演じた「オスカー」('91)などは、そのイタリア女らしさが上手く生かされていたように思う。
 父親はジャーナリストだったが、彼女が11歳の時に死亡。「シシリアの恋人」('70)のオーディションに合格し、男尊女卑の風習が根強いシシリアで、愛よりも女の誇りとプライドを選ぶ気丈な娘という難役を大熱演して華々しくデビューした。この作品と「ふたりだけの恋の島」('71)で共演したアレッシオ・オラーノとは私生活でも恋愛関係となり、一時は同棲までしていた。「チェイサー」('77)ではアラン・ドロンとも共演、さらに「フラッシュ・ゴードン」('80)の悪女オーラ姫役でハリウッドにも進出した。最近でもフランチェスカ・アルキブージ監督の「明日、陽はふたたび」('20)やマイク・フィギス監督の「HOTELホテル」('01)などでいい味を見せている。しかし、アーシア・アルジェント監督・主演で話題の「サラ、いつわりの祈り」('04)ではお祖母ちゃん役ですよ。お祖母ちゃん。本当、光陰矢のごとしとは正にこの事。

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リリ・カラーチ Lilli Carati

1956年9月23日、イタリアはヴァレーゼの生まれ

 70年代にイタリアで絶大な人気を誇ったセクシー女優。ヒッピー世代の自由奔放な若者像を演じて引っ張りだこだった。中でも、ヒッピーのコミュニティーで生活をするヒッチハイカーの少女二人の衝撃的な末路を描く「大人になる前に・・・」('78)はセンセーショナルな作品として話題になった。しかし、ドラッグで身を持ち崩し、しまいにはハードコア・ポルノにまで出演。そのまま芸能界から永遠に消え去ってしまった。
 1974年のミス・イタリアに出場したのをきっかけに75年映画デビューしたカラチ。当時イタリアで人気だったアクション・スター、マウリツィオ・メルリ主演の「フェラーリの鷹」('76)で男勝りの爽やかなヒロインを演じて注目される。同じく70年代に人気だったセクシー女優グロリア・グイダとの共演でも話題になった「大人になる前に・・・」も大ヒット。80年代に入ってからは「欲望の小部屋」('84)や「白夜の好奇心」('89)といったジョー・ダマート監督の官能的なソフト・ポルノに出演していた。しかし、その一方でドラッグに手を出すようになり、金のためにハードコア・ポルノにまで出演するようになってしまった。ドラッグ→ハードコアという末路を辿った女優は実は彼女だけではなく、「エロチック・ゲーム」シリーズで有名なパオラ・セナトーレやドイツ出身のカリン・シューベルトなども同じ運命を辿った。女を武器にするしか生き残る術を知らなかった女優の悲劇とも言えるかもしれない。

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ダリラ・ディ・ラッツァーロ Dalila Di Lazzaro

1953年1月29日、イタリアはウディーネの生まれ

 イタリア映画界では珍しいクールで冷たい美貌を持った女優。モデル出身で、70年代後半から80年代にかけてアラン・ドロンやフランコ・ネロの相手役を演じて脚光を浴びた。その代表作の殆どが日本では劇場未公開なため、日本でダリラ・ディ・ラザーロというと「フェノミナ」('85)の寄宿学校の冷徹な女校長役くらいしか認知されていないだろう。実際、80年代以降の彼女は良い脚本に恵まれない事に不満を抱き、たびたび映画化の権利を買い取ったり自ら脚本を書いたりしているが、残念ながら未だに実現したプロジェクトはない。
 熱狂的な映画ファンだった父親(元プロ・ボクサー)によって、映画「サムソンとデリラ」から名前を付けられたラツァーロは、少女時代はかなり手の付けられない不良娘だった。ジュニア・ハイスクールを退学させられた彼女は親戚の経営する美容院で働き、15歳で結婚して子供をもうけた。しかし5年で離婚し、ローマに出てモデルとなったラツァーロはたちまち売れっ子となり、ヨーロッパだけでなくアメリカでもトップ・モデルとして活躍。ニューヨークで親しくなったアンディ・ウォーホルの誘いで、彼が監修を務める「悪魔のはらわた」('73)の女人造人間役で映画デビューを果たした。アラン・ドロンと共演した「ポーカー・フェイス」(80)やフランコ・ネロと共演した「強奪〜インサイダー〜」('80)、名匠アルベルト・ラットゥアーダ監督の“Oh, Serafina!”('76)といった作品でトップ女優となる。
 私生活では非常に意志の強いフェミニストとして有名で、“抑圧されたブタ男ども、勝手にマスタベーションでもしてな!”というスローガンを掲げて問題になった事もある。また、ジャマイカで飛行機事故に遭って以来極端な飛行機恐怖症となり、滅多に国外に出る事がなかった。そうした事から女優として伸びるチャンスを逃したとも言われている。また、1991年に一人息子クリスチャンを交通事故で亡くし、その喪失感から人工授精を試みるが失敗し、養子を迎えようとする。しかし、当時のイタリアでは独身の男女には養子縁組の権利がなく、彼女は法律の改正を訴える。結局、この訴えは却下されてしまったが、イタリアでは大きな問題提起となった。
 一時期は「裏窓の女」('89)のようなソフト・ポルノにも出ていたが、最近では女優業よりも服飾デザイナーとしての仕事が中心になってしまっているという。演技力という点では限界があるとはいえ、非常に得がたいタイプの個性的な女優だっただけに残念としか言いようがない。

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モニカ・ゲリトーレ Monica Guerritore

1958年1月5日、イタリアはローマの生まれ

 少女スターからセックス・シンボル、そして本格的な演技派女優へと着実にキャリアを重ねてきた人。16歳の時に出演した「楡の木陰の愛」('74)では、「小さな恋のメロディ」のマーク・レスターと瑞々しい全裸のラブ・シーンを演じて話題になった。肉感的でありながら、どこか少女のような清らかさを持った女優で、その屈託のない笑顔は幾つになっても変わらない。
 ミラノの児童劇団で舞台デビューした後、73年に巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督の“Una breve vacanza”で映画デビュー。翌年の「楡の木陰の愛」で一躍注目を集めた。「続・青い体験」('75)ではおませな少女ロージー役を好演。「プレステージ」('76)ではアラン・ドロンとの共演も果たした。また、「薔薇の貴婦人」('86)ではエレガントなコスチューム・ドラマにも挑戦。「続・青い体験」でライバル(?)だったラウラ・アントネッリと再度の顔合わせだった。
 私生活では俳優兼映画監督のガブリエル・ラヴィア(「サスペリアPART2」のピアニスト、カルロ役で有名)と結婚。夫の監督作であるスタイリッシュなフィルム・ノワールの秀作「ベレッタの女/最後の誘惑」('86)でのファム・ファタールぶりは絶品だった。また、ジャンカルロ・ジャンニーニと共演した“La lupa”('96)でも宿命的なヒロインを演じ、野生的なエロティシズムを爆発させて話題になった。最近はテレビ映画や舞台での活躍が中心。現在は歴史劇“Giovanna D'Arco”の舞台に主演している。

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エヴァ・グリマルディ Eva Grimaldi

1961年9月7日、イタリアはヴェローナの生まれ

 これぞイタリア女優!といった感じの濃厚なグラマー女優。そのパワフルな演技といい、かつてのソフィア・ローレンを彷彿とさせるものがある。ただ、加減を知らないのか、往々にして演技過剰になりがちなのが玉に瑕だったりするのだが。また、映画デビューしたのがイタリア映画衰退期であったのも不幸で、B級ホラーやソフト・ポルノといった作品ばかりあてがわれてきた。ジェラール・ドパルデューの相手役を演じたフランス映画「俺たちは天使だ」('95)でようやくブレイクするかと思われたが、それ以降はテレビを中心に活動を続けている。
 女優に憧れてローマに出てきたグリマルディは、83年にテレビ番組“Drive In”のレギュラーの仕事を得る。これがきっかけで映画デビューを果たし、尼僧エロスもの「尼僧白書」('86)ではヒロイン役を演じる。その後もB級刑事アクション「ブラック・コブラ」('87)やソフト・ポルノ「ランジェリー・モデル/危険な戯れ」('87)、オツムの弱い水着モデル役を演じた「ラットマン」('88)、ランベルト・バーヴァ監督の「デモンズ5」('90)などB級映画の仕事が続く。ただ、その一方で小さな役ながら重要な映画にも顔を出している。巨匠フェリーニの「インテルビスタ」('87)では花嫁役。いかにもフェリーニ好みの顔ゆえに納得のキャスティングだろう。また、クラウス・キンスキー監督・主演の「パガニーニ」('89)や名匠クロード・シャブロル監督の「クリシーの静かな日々」('90)にも出演。社会派の名監督ダミアーノ・ダミアーニの「地獄の女スナイパー」('92)ではヒロインに共感してフェミニズムと社会正義に目覚めていくコールガールを演じて印象的だった。
 ちなみに、カルヴァン・クライン・ジーンズのモデルも務めたことがある。

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フランチェスカ・ネリ Francesca Neri

1964年2月10日、イタリアはトレノの生まれ

 ビガス・ルナ監督のスペイン映画「ルルの時代」('91)の自由奔放なヒロイン、ルル役が強烈に印象的だった。「ハンニバル」('01)と「コラテラル・ダメージ」('01)で本格的にハリウッド進出も果たしたが、その後の活動は比較的大人しい。スケールの大きな演技派だけに、まだまだ意欲的な活躍を期待したいところ。
 父親のクラウディオは耕種学者で、幼い頃は豊かな自然に囲まれた農場で育った。高校を卒業後、経済学を学ぶ兄を頼ってローマに出て、国立映画実験センターで演技を学ぶ。在学中に、後に恋人となるドメニコ・プロカッチが製作した“Il grande Blek”に出演。これがカンヌ映画祭に出品された際にビガス・ルナ監督が「ルルの時代」のヒロイン役を捜している事を知る。当初キャスティングされたスペインのトップ女優アンヘラ・モリーナが、過激なセックス・シーンに恐れをなして降板してしまったのだった。早速オーディションを受けたネリは一発で合格。この作品で一躍ヨーロッパ中の話題をさらう事となる。
 下積み時代を経験することなくスターになったネリだったが、「ルルの時代」の大熱演は逆に彼女にセクシー女優というイメージを与えてしまう。そんな彼女の可能性を見抜いたのがマッシモ・トロイージ監督で、“Pensavo fosse amore e invece era una calesse”('91)でコメディエンヌとしての才能を引き出した。さらにカルロ・カルレイ監督の「フライト・オブ・ジ・イノセント」('92)では息子を亡くした母親役をしっとりと演じ、全く違った一面を見せる。しかし、やはり彼女が本領を発揮するのはスペイン映画だろう。名匠カルロス・サウラの「愛よりも非情」('93)では壮絶な復讐劇を演じ、ペドロ・アルモドバル監督の「ライブ・フレッシュ」('97)ではマリファナ中毒の女エレナを大熱演。かつてのアリダ・ヴァリを彷彿とさせる根性の据わった熱血女優ぶりが頼もしいスターである。

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モニカ・ベルッチ Monica Bellucci

1964年9月30日、イタリアはチッタ・ディ・カステッロの生まれ

 久々にイタリア映画界に登場したスターらしいスター女優。“イタリアの宝石”とまで謳われたトップ・モデルで、当初は綺麗なだけの女優かと思われたが「マレーナ」('00)ではしっとりとした美しさの中に気丈な女の強さを演じきり、もしかしたらとんでもない大女優になるかもしれないと思わせられた。その後もスター女優らしい華々しい活躍を続けているが、そろそろ「マレーナ」を超えるような当たり役が望まれるところだろう。
 もともと法律の道を志してペルージャ大学に学んでいたが、学費を稼ぐためにはじめたモデル業でたちまち売れっ子になってしまう。ミラノに移ったベルッチは世界的なモデル・エージェントであるエリートと契約し、押しも押されぬスーパー・モデルとなる。しかし、そのモデルとしてのキャリアを捨てて90年に女優に転向。当初はイタリアお得意のセックス・コメディなんかに出演していたが、フランスで出演した「アパートメント」('96)でシリアスな女優としての一面を見せる。さらに「ドーベルマン」('97)のオフビートな演技で国際的にも注目を集めるようになる。この2本の作品で共演した俳優ヴァンサン・カッセルと99年に結婚。「マレーナ」で高く評価された後は「ミッション・クレオパトラ」('02)ではクレオパトラ役でコメディエンヌ的な才能も見せ、「アレックス」('02)での壮絶なレイプ・シーンも話題になった。「ティアーズ・オブ・ザ・サン」('03)、「マトリックス・リローデッド」('03)、「マトリックス・レボリューションズ」('03)では本格的にハリウッド映画にも進出。今やイタリアの誇る世界的なトップ・スターである。メル・ギブソン監督の問題作「パッション」('04)では淑やかで情熱的なマグダラのマリア役を好演。最新作“Le concile de Pierre”('06)ではカトリーヌ・ドヌーヴと新旧美女競演を繰り広げている。


 

 

ASSUNTA_SPINA.JPG MIRACLE.JPG LOVE_AFFAIR.JPG SIAMO_DONNE.JPG

Assunta Spina (1914)

奇跡の鐘
The Miracle of the Bells (1948)

愛と殺意
Story of a Love Affair (1950)

われら女性
Siamo Donne (1953)

(P)2003 Kino Video (USA) (P)1996 Cinema Supply(日本) (P)2005 No Shame Films (USA) (P)2004 紀伊国屋書店(日本)
画質★★★☆☆ 音質★★★★☆ 画質★★★☆☆ 音質★★★☆☆ 画質★★★★★ 音質★★★★☆ 画質★★★★☆ 音質★★★★☆
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/ステレオ/音声:サイレント(音楽のみ)/英語字幕/地域コード:ALL/62分/製作:イタリア

映像特典
ドキュメンタリー映画The Last Diva : Francesca Bertini収録
DVD仕様(日本盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/英語音声/日本語字幕/地域コード:不明/120分/製作:アメリカ
DVD仕様(北米盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/音声:イタリア語・英語/英語字幕/地域コード:1/98分/製作:イタリア

映像特典
撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノ インタビュー
修復版公開時の様子(アントニオーニ監督、ルチア・ボゼらのインタビュー含む)
メイキング・ドキュメンタリー
ロケ現場再訪
修復過程ドキュメンタリー
ポスター&スチル・ギャラリー
DVD仕様(日本盤)
モノクロ/スタンダード・サイズ/モノラル/イタリア語音声/日本語字幕/地域コード:2/97分/製作:イタリア
監督:フランチェスカ・ベルティーニ
    グスタヴォ・セレーナ
原作:サルヴァトーレ・ディ・ジャコモ
撮影:アルベルト・G・ガルタ
出演:フランチェスカ・ベルティーニ
    グスタヴォ・セレーナ
    カルロ・ベネッティ
    ルチアーノ・アルベルティーニ
監督:アーヴィング・ピシェル
原作:ラッセル・ジャニー
脚本:ベン・ヘクト
    クエティン・レイノルズ
撮影:ロバート・デ・グラス
音楽:リー・ハーライン
出演:フレッド・マクマレイ
    アリダ・ヴァリ
    フランク・シナトラ
    リー・J・コッブ
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    ダニエレ・ダンザ
    シルヴィオ・ジョヴァンネッティ
    フランチェスコ・マゼッリ
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:マッシモ・ジロッティ
    ルチア・ボゼ
    フェルディナンド・サルミ
    ジーノ・ロッシ
    マリカ・ロフスキー
監督:アルフレド・グァリーニ
    ジャンニ・フランチョリーニ
    ロベルト・ロッセリーニ
    ルイジ・ザンパ
    ルキノ・ヴィスコンティ
音楽:アレッサンドロ・チコニーニ
出演:アリダ・ヴァリ
    イングリッド・バーグマン
    イザ・ミランダ
    アンナ・マニャーニ
    アンナ・アメンドーラ
    エマ・ダニエリ
 サイレント期イタリア映画界最高のディーヴァ、フランチェスカ・ベルティーニの代表作。その美しさと自由奔放さゆえに男に翻弄されていく女アッスンタ・スピーナを大熱演する力作。とはいえ、物語も古めかしいし、撮影もアリアリズム主義と言えば聞こえはいいが、同時代のハリウッドやドイツのサイレント映画と比べれば凡庸で、作品としては正直面白いとは思わない。ただ、実際にナポリの路上でロケ撮影を行い、地元の人々をエキストラで使った映像は当時のナポリの生き生きとした雰囲気を現代に伝えて興味深い。また、映像特典で収録されているドキュメンタリー映画で姿を見せる、当時94歳のベルティーニの威厳に満ちた風格、かくしゃくとしたたたずまいは、誇り高きディーヴァの凄みを十二分に感じさせてゾクゾクとするくらいに面白い。

 こちらはヒッチコックの「パラダイン夫人の恋」('47)に続くアリダ・ヴァリのハリウッド進出第2弾。映画スターを夢見る無名の女優の短い人生を描く典型的なメロドラマで、名脚本家ベン・ヘクトが手掛けたにしては凡庸な作品。それでも、メロドラマとしてのツボはきっちりと押さえられており、可憐でひたむきなドサ周りの女優を演じるアリダ・ヴァリの堅実な演技を堪能する事が出来る。初期の娘役時代のヴァリの片鱗を垣間見る事が出来る貴重な作品と言えるかもしれない。

 アントニオーニにとっての初の長編劇映画。若く美しい妻の不肖を疑って私立探偵を雇う大富豪。夫の疑いの通り、妻はかつての恋人と寄りを戻していたが、彼女には贅沢な今の暮らしを捨ててまで愛を貫くつもりもなかった・・・。まさにアントニオーニにとって“愛の不毛”の原点とも言える作品だが、全編を漂うフィルム・ノワール的ムードが異色。ストーリーはどうってことないのだが、ジュゼッペ・ロトゥンノによる流麗なカメラワークと陰影の美しい映像は素晴らしい。ヒロインを演じるルチア・ボゼも、演技的に抜きん出たものは感じられないものの、上流階級のお人形さん的な若妻の冷たさは十分に伝わってくる。かつての恋人を演じるマッシモ・ジロッティは、ヴィスコンティからピエトロ・ジェルミ、パゾリーニまで戦後の巨匠たちに愛された渋い2枚目スターだった。  当時のイタリア映画界を代表する大女優が、自らの私生活を演じるセミ・ドキュメンタリー的内容のオムニバス映画。もちろん、それぞれのエピソードは基本的にはフィクションながらも、大女優が自分自身を演じるという点がユニークで赤裸々な印象を与える。スタッフの婚約者に惹かれてしまい戸惑うアリダ・ヴァリ、隣の家のニワトリに大切な薔薇をついばまれてしまい悪戦苦闘するイングリッド・バーグマン、庶民の家庭の温かさに触れてふと子供のいない寂しさを募らせるイザ・ミランダ、そして舞台に向かうために乗ったタクシーの追加料金に納得がいかずに大喧嘩を繰り広げるアンナ・マニャーニ。中でも、これぞローマ女のバイタリティといった感じの機関銃トークでまくしたてるマニャーニのエピソードは抱腹絶倒の傑作。

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