デヴィッド・ソウル David Soul

 

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 70年代の人気ドラマ『刑事スタスキー&ハッチ』(75〜79)のハッチ役として日本でも親しまれたデヴィッド・ソウルだが、彼が全米ナンバー・ワン・ヒットを持つアーティストであったことを記憶している人は少ないかもしれない。世界中にスタスキー&ハッチ・ブームが吹き荒れる中、76年の12月に発売されたシングル“Don't Give Up On Us(やすらぎの季節)”はまずイギリスでヒット・チャート1位をマークし、翌年の4月に全米チャートでも首位を獲得した。
 カントリー・フレイバー漂うサウンドに哀しげで美しいメロディ、そしてビックリするくらいソフトで甘いボーカル。テレビ俳優が片手間に歌ったものとは思えないほど素晴らしい出来栄えだったが、何を隠そうデヴィッドは当時既に10年のキャリアを持つプロの歌手だったのだ。
 学生時代から音楽の道を志し、下積みを経て66年にレコード・デビューを果たしたデヴィッド。それまでに3枚のシングルをリリースし、バーズやラムゼイ・ルイス・トリオといった大物バンドの前座も務めた彼だったが、歌手としてはずっと鳴かず飛ばずだった。やがて生活のために始めた俳優業で注目されるようになり、『刑事スタスキー&ハッチ』で大ブレイク。今だったら歌手としても注目してもらえるかもしれない、そう思ったとしても不思議ではないだろう。
 結果として、スタスキー&ハッチ・ブームの終焉と共に歌手としての人気も下り坂となったわけだが、僅か2年ほどの間に5枚のヒット・シングルと2枚のベスト・セラー・アルバムを残したのは立派。その後も俳優業と並行して地道に音楽活動を続けたことからも、彼がアーティスト業を決して趣味や道楽の類いとは考えていなかったことが分かるはずだ。

 1943年8月28日にシカゴで生まれた彼は、本名をデヴィッド・リチャード・ソルバーグという。父親はルター派教会の牧師で、デヴィッドは5人兄弟の長男だった。父親が戦後ドイツの復興事業に携わったことから、少年時代の7年間を西ドイツのベルリンで過ごす。さらに17歳の頃にメキシコ・シティで1年ほど暮らし、外交官を目指すべく大学で政治科学を学んだ。しかし、この時期に友人からギターの弾き方を教えてもらったことから、音楽への情熱に目覚める。
 やがて母国アメリカへ戻り、ミネソタ大学で勉強を続けたデヴィッドだったが、その傍らで音楽活動を本格化。無名時代のボブ・ディランが演奏していたことでも知られる“Ten O'Clock Scholar”などのナイトクラブでメキシコ音楽を歌っていたのだそうだ。また、野球選手としても才能に恵まれていた彼は、大学時代にシカゴのホワイト・ソックスからスカウトを受けたそうだが、音楽の道へ進むためにこれを断っている。
 20歳で最初の妻ミリアムと結婚したものの、長男が生まれた直後の65年には離婚してしまったデヴィッド。音楽の夢を追うべくニューヨークへと出た彼は、ネクタイのセールスマンやナイトクラブのドアマンなどのアルバイトをしながらチャンスを伺っていた。そして、66年にはMGMレコードとレコーディング契約を結び、シングル“The Covered Man”でデビュー。テレビの人気バラエティ番組「マーヴ・グリフィン・ショー」にも出演したが、レコードは全く売れなかった。続く2枚目のシングル“Before”も失敗に終わり、MGMレコードから契約を反故にされてしまう。
 そうはいっても、自らの生活費はもとより、息子の養育費も稼がねばならない。ニューヨークの演劇学校や俳優育成講座で演技を特訓したデヴィッドは、67年にオーディションを受けてコロムビア映画との専属契約を取り付けた。活動の拠点をロサンゼルスへと移した彼は、『わんぱくフリッパー』や『かわいい魔女ジニー』などの人気ドラマにゲスト出演するようになり、さらには短命に終わったファミリー・ドラマ“Here Come The Brides”(69〜70)のレギュラーも務めた。順調にテレビでの知名度を伸ばし始めたからだろうか、この時期に彼はパラマウント・レコードからシングル“This Train”を発売している。が、残念ながらこれまた全く反応がなかった。
 その一方で、68年6月には元ミス・アメリカの女優カレン・カールソンと再婚。カレンとの間に2番目の子供も生まれ、より積極的に俳優業へ打ち込むようになった。71年には『ジョニーは戦場へ行った』(71)で映画デビュー。そんな彼が俳優として本格的に注目を集めたのが、クリント・イーストウッド主演の『ダーティハリー2』(73)だった。デヴィッドが演じたのは、汚職警官の1人デイヴィス巡査。この演技を関係者が強く記憶していたことから、『刑事スタスキー&ハッチ』のハッチ役に起用されることとなったのである。
 そして、75年4月に放送が始まった同番組は、主演の若手デヴィッド・ソウルとポール・マイケル・グレイザーのフレッシュな魅力と明るい演技、そして派手なカーチェイスや銃撃戦などのアクションが若い視聴者を惹きつけ、それまでコジャックやキャノンなど中年のベテラン刑事が主流だったポリス・ドラマに新風を巻き起こした。ここ日本でも77年から放送が始まり、海外ドラマでは異例とも言えるファン・クラブが結成されるほどの人気に。
 こうした人気を受けて、デヴィッドは音楽活動へ再度チャレンジすることを決意する。ただ、彼は時の人となった人気俳優がレコードを出すことの危うさも十分に理解していたようだ。当然のことながら、便乗商売と思われることは目に見えているし、作品がキワモノ扱いされる危険だってある。そのため、彼はあえて有名どころのメジャー・レーベルではなく、通好みのフォークやロックを中心にリリースする中堅会社プライヴェート・ストック・レコードと契約することにしたのだ。
 プライベート・ストック・レコードとは、アリスタ・レコードの前身であるベル・レコードの重役だったラリー・アタルが74年に設立した会社で、フォーク系のシンガー・ソングライター、トム・パクストンやロック・バンド、スターバックなど渋めのミュージシャンが在籍していた。あのブロンディのファースト・アルバムを最初に発売したのも、このプライベート・ストックである。
 もともとフォークやカントリー・ロックを志向していたデヴィッドは、ドラマのイメージに便乗した売れ筋のポップ・ミュージックを強要するような大手レコード会社よりも、規模は小さくともやりたい音楽を自由にやらせてくれる中堅どころのレーベルを選んだのである。これはある意味で正解だったと言えるだろう。
 76年の11月にイギリスで先行発売されたファースト・アルバム“David Soul”は、ニール・ヤングとのコラボレーションで知られるエリオット・F・メイザーがプロデュースを担当。全11曲中4曲でデヴィッド自身がソングライトを手掛け、彼が崇拝するレナード・コーエンやニール・セダカのカバー曲も含まれた。全体的にフォーク・ロック・テイストが濃厚な作品で、地味ながらも味わい深いアルバムに仕上がっていると言えよう。
 ただ、いざ蓋を開けてみると、シングル・カットに適したような楽曲が全く見当たらなかった。やはりレコードを売るためには、セールス・ポイントとなるようなシングル曲は必要不可欠。慌てた社長のラリー・アタルは急遽シングル用の楽曲を用意すべく、イギリスの大物ヒット・メーカー、トニー・マコーレイに作曲とプロデュースを依頼する。社長からその旨の連絡を受けたデヴィッド自身も追加曲の製作を承諾。すぐさまマコーレイはサンフランシスコへと飛び、シングル発売用の新曲がレコーディングされた。それが“Don't Give Up On Us”だったというわけだ。
 シングルは76年12月4日に、やはりイギリス先行で発表された。既に流通しているアルバムは一旦廃盤となり、“Don't Give Up On Us”を追加収録したニュー・バージョンを再プレス。シングルは4週間に渡って全英チャート1位を独占し、アルバムも最高2位をマークするベストセラーとなった。この爆発的なヒットを受け、デヴィッドはドラマ撮影の合間を縫って77年3月にUKツアーを敢行。スタスキー&ハッチの人気との相乗効果もあって、コンサートはいずれもソールド・アウトの大盛況だったという。
 そして、この頃には母国アメリカでもアルバムとシングルが発売。シングル“Don't Give Up On Us”はビルボードの全米チャートでも1位を獲得し、アルバムもトップ200で40位をマークするスマッシュ・ヒットとなった。その他、シングルはオーストラリアでもナンバー・ワンを記録し、オランダやアイルランドなどヨーロッパ各国でもトップ10入りを果たしている。

 このトニー・マコーレイとのコラボレーションが素晴らしい結果をもたらしたことから、レコード会社はすぐさまマコーレイのプロデュースでセカンド・アルバムの製作に取り掛かることを決定。その前哨戦としてリリースされた新曲“Going In With My Eyes Open”は全英シングル・チャート2位となり、ブームに便乗した単なる一発屋ではないことを証明した。とはいえ、全米チャートでは残念ながら54位止まりで終わっており、アメリカではシビアな目で見られていたことが容易に窺い知れる。
 そして8月4日にはシングル“Silver Lady”、8月26日にはセカンド・アルバム“Playing To An Audience Of One”をリリース。アーバンでアメリカンなAORスタイルの新曲“Silver Lady”は全英チャートで2度目のナンバー・ワンを獲得し、アルバムも最高8位をマーク。しかし、アメリカではシングルが52位、アルバムが86位と今ひとつ奮わなかった。
 その年の12月には新曲“Let's Have A Quiet Night In”が全英チャート8位にランクインしたが、アメリカではシングル・カットすらされず。翌78年の5月に発売されたシングル“It Sure Brings Out The Love In Your Eyes”が全英チャート12位をマークしたのを最後に、ポップ・スターとしてのデヴィッド・ソウルのキャリアは終焉を迎えた。
 そして、79年の5月にはドラマ『刑事スタスキー&ハッチ』の放送も終了。当時はテレビの人気スターといえども、まだまだ映画への転身が容易ではなかった時代。デヴィッドはスティーブン・キング原作の『死霊伝説』(79・日本では劇場公開されたがアメリカではTVのミニ・シリーズ)を皮切りに、ケン・フォレットのベスト・セラーを映像化した『レベッカへの鍵』(85)などテレビの大作ミニ・シリーズで活躍。その傍らで、80年にはフィリップスから“Band of Friends”、82年にはエナジー・レコードから“Best Days Of Our Lives”といったアルバムを発表し、地道に音楽活動を続けていった。
 そして、90年代半ばにはロンドンへ移住。テレビや舞台を中心に俳優活動を続け、2004年にはイギリスの市民権を得ている。映画リメイクされた『スタスキー&ハッチ』(04)にも、ポール・マイケル・グレイザーと共にゲスト出演。最近ではエミール・クストリッツァ主演のフランス産スパイ映画『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』(09)で、レーガン大統領の側近役として顔を出している。
 ちなみに、77年に2番目の妻カレンと別れたデヴィッド。当時女優のリン・マータという恋人がおり、ファースト・アルバムとセカンド・アルバムでは彼女もバック・ボーカルで参加。しかし、『刑事スタスキー&ハッチ』が終了した直後にリンとも別れている。その後、2度の結婚で4人の子供をもうけたデヴィッド。合計で6人いる子供のうち末っ子の娘チャイナ・ソウルは現在シンガー・ソングライターとして活動しているそうだ。

 

 

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David Soul (1976)

Playing To An Audience Of One (1977)

The Best of David Soul

(P)2009 7T's Records (UK) (P)2009 7T's Records (UK) (P)1994 Music Collection Int (UK)
1,The Wall
2,1927 Kansas City ビデオ
3,Bird On A Wire
4,Hooray For Hollywood
5,Landlord
6,Seem To Miss So Much ビデオ
7,One More Mountain To Climb
8,Ex Lover
9,Topanga
10,Black Bean Soup
11,Kristofer David
bonus track
12,Don't Give Up On Us ビデオ

produced by Elliot F.Mazer
except #12 by Tony Macauley
1,Silver Lady ビデオ
2,Can't We Just Sit Down And Talk I Over
3,Tattler
4,I Wish I Was ビデオ
5,Rider
6,Going In With My Eyes Open ビデオ
7,Playing To An Audience Of One
8,Tommorow Child
9,By The Devil (I Was Tempted)ビデオ
10,Nobody But A Fool Or A Preacher
11,Mary's Fancy
12,Don't Give Up On Us
bonus tracks
13,Let's Have A Quiet Night In ビデオ
14,It Sure Brings Out The Love In Your Eyes
15,Friend Of Mine

produced by Tony Macauley
1,Don't Give Up On Us
2,Tattler
3,Silver Lady ビデオ
4,I Wish I Was
5,It Sure Brings Out The Love In Your Eyes
6,Seem To Miss So Much
7,Let's Have A Quiet Night In
8,Going In With My Eyes Open ビデオ
9,One More Mountain To Climb
10,Topanga
11,1927 Kansas City
12,Landlord
13,Nobody But A Fool Or A Preacher
14,Bir On A Wire
 デヴィッドにとっては念願だったであろう、デビュー10年目にしてのファースト・アルバム。フォークにルーツを持つという彼らしい、素朴で抒情的な作品に仕上がっています。ただ、確かにとってもとっても地味。シングル用に急遽製作された#12がなければ、ベストセラーは難しかったのではないでしょうか。もちろん、作品の完成度とは全く別の話ですけどね。シンプルゆえに時代の古さを感じさせない名盤です。  70年代のアメリカン・ポップスらしいカントリー・フレイバー溢れる爽やかなセカンド・アルバム。前作よりも遥かにポップな仕上がりなのは、さすがUKを代表するメロディメーカー、トニー・マコーレイの仕事です。程よくアーバンな香りの漂う#1もいいし、デヴィッド自身が書いた渋いブルース・ナンバー#4も大好き。大ヒット曲#12もちゃんと収められているのが抜け目ないですね(笑)。大変おススメです。  思い返せば、ほんの数年前まではこれがCDで手に入るデヴィッドの唯一のアルバムだったんですね。内容的にはプライベート・ストック時代の2枚のアルバムからのセレクト。コアなファンでなければこれでもオーケーだとは思います。現在はもっと音質の良いベスト盤が手に入りますし、オリジナル・アルバムもお手頃価格でCD化されていますので、とりあえずこんな物もありましたという参考までに。

 

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