オーストラリア
Australia (2008)

 

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2009年2月28日より全国ロードショー

 

 オーストラリアへやって来たイギリス人女性が、そこに暮らす人々や大自然、そして運命の男性との出会いによって、新たな人生と新たな自分を見出していくという壮大な大河ドラマ。そのものズバリの『オーストラリア』というタイトルが示すように、これは一人の女性の数奇な運命を通じて、オーストラリアという国の歴史や風土を含めた様々な魅力を描いていく作品と言えるだろう。
 第二次世界大戦の足音が近づきつつある1930年代末。オーストラリアへ行ったまま戻らない夫の帰りを待ちあぐねたアシュレイ卿夫人サラ(ニコール・キッドマン)は、周囲の反対を押し切って単身夫のもとへと向う。ところが、到着した彼女を待ち受けていたのは、変わり果てた姿となった夫の亡骸だった。残されたのは広大な牧場と莫大な借金。途方に暮れた彼女だったが、一匹狼のカウボーイ、ドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)やアボリジニと白人の混血少年ヌラ(ブランドン・ウォルターズ)らの協力を得て、1500頭の牛を遠く離れた港町ダーウィンへと連れて行くことにする。軍の食用肉として売りさばくのだ。
 しかし、町では食肉業者キング・カーニー(ブライアン・ブラウン)が市場の独占を目論んでおり、アシュレイ卿の部下だった男フレッチャー(デヴィッド・ウェンハム)らを使ってサラたちの行く手を阻もうとする。フレッチャー一味の卑劣な罠の数々、そして豊かで厳しいオーストラリアの大自然に直面するサラたち一行。果たして彼らは無事に町まで牛を届けることが出来るのか・・・?

 物語は見知らぬ土地で天涯孤独となってしまった女性と孤独を愛する自由気ままなカウボーイを主軸に展開する。気性が激しくてプライドの高い貴婦人サラと粗暴で喧嘩っ早い一匹狼ドローヴァー。最初は強く反発しあった2人だが、過酷な旅の過程で徐々にお互いを理解するようになり、やがてそれは激しい愛へと変わっていく。2人の関係は、さながらオーストラリア版のスカーレット・オハラとレッド・バトラーといった印象だ。
 さらに、オーストラリアの美しくも厳しい大自然、原住民アボリジニの神秘的なライフスタイルなどが随所に織り込まれ、目を見張らんばかりのスペクタクルな映像叙事詩が繰り広げられていく。ハリウッドでも活躍する女流撮影監督マンディ・ウォーカーの力量には特筆すべきものがあると言えよう。
 やがて物語の舞台は港町ドーヴァーへと移り、キング・カーニーの座を奪って町の独裁者と化したフレッチャーがサラを追い詰めていく。土地を売らねばドーヴァーを殺すと脅し、今やサラにとってわが子も同然となったヌラとその祖父キング・ジョージ(デヴィッド・ガルビリル)を連れ去っていく。
 白人との混血であるヌラは“野蛮な原住民の生活から守る”という白人の独善によって修道院へと送られ、アシュレイ卿殺害の濡れ衣を着せられたキング・ジョージは刑務所へ。しかし、アシュレイ卿殺害の真犯人はフレッチャーであり、サラはその事実を知っている。しかし、イギリスでは特権階級の貴族である彼女も、ここオーストラリアでは一介の牧場主。なんら権力を持たないサラには、フレッチャーの横暴に黙って従うしか術が残されていない。
 彼女の葛藤を知る由もないドーヴァーは荒野へと去ってゆき、残されたサラは一人でヌラを救い出そうと孤高奮闘する。だが、時代は第二次世界大戦へと突入。やがてドーヴァーの町は日本軍の大空襲にさらされ、全ての人々の運命を大きく変えてしまう。

 監督はファンタジックなミュージカル映画の佳作『ムーラン・ルージュ』(01)で絶賛されたバズ・ラーマン。本作でもバズ・ラーマン節全開という感じで、幻想的なスロー・モーションやCGを駆使した大胆でマンガチックな演出などが盛りだくさん。実に賑やかなのはいいのだが、ファンタジーとリアリズムの境界線が曖昧で混沌としているため、どこまで真剣に受け取るべきなのかがハッキリとしない。少年ヌラが牛の大暴走を魔法で鎮めてしまうシーンなどは、申し訳ないがファンタジーの濫用としか思えなかった。
 また、『ムーラン・ルージュ』で20世紀のポップ・ミュージックの数々を引用したように、本作でも過去の様々な名作から様々な引用がなされている。見知らぬ土地へ行ったら夫が死んでいたというのはセルジョ・レオーネ監督の傑作マカロニ西部劇『ウエスタン』の焼き直しだし、アシュレイ卿の牧場の風景デザインも『ウエスタン』の明らかなコピー。その他、『風と共に去りぬ』や『愛と哀しみの果て』、ジョン・ウェインの『赤い河』や『ハタリ!』などからの引用がそこかしこに散見される。引用のそれ自体は決して悪いことではないのだが、あまりにもどこかで見たようなシーンの連続なのは少々辟易とさせられる。
 さらに、物語を勧善懲悪と予定調和でしか描くことが出来なかったというのも残念だ。中でも、悪人が単なる悪人でしかないというはドラマの奥行きを完全に削いでしまい、非常に薄っぺらな印象しか残さない。ファンタジー映画と割り切ってみればいいのかもしれないが、アボリジニの伝統や差別・迫害にまで触れるのであれば、その背景にあるオーストラリアの負の歴史についても真剣に向き合うべきだろう。その点をそっくり飛ばしてしまい、単純明快な善対悪の図式にしてしまったのは納得いたしかねるところだ。これでは、アボリジニを差別・迫害したのは全てフレッチャーやキング・カーニーのような極悪人です、とでも言わんばかりだろう。せっかく、フレッチャーの善良な妻キャサリン(エッシー・デイヴィス)というキャラクターを設けながら、それを全く生かすことが出来なかったのは大変な片手落ちだ。しかも、悪は最後にあっけなく成敗される。この安直さには正直なところ参ってしまった。
 確かに素晴らしくスケールの大きな映画であることは間違いないし、大変な労力をかけて作られた立派な映画であることは認めざるを得ないところ。なにしろ1億3千万ドル、日本円にして120億円以上という途方もない金額の製作費を投じているのだから。しかも、撮影期間は9ヶ月以上。その数字だけ見ても監督の並々ならぬ意気込みは伝わってくるし、実際これだけの大作を最後までまとめきったという監督の力量は評価されて然るべきだろうとは思う。
 また、ニコ−ル・キッドマン、ヒュー・ジャックマン以下の役者陣も素晴らしい仕事をしている。中でも、鼻持ちならない貴婦人が正義感や母性愛に目覚めていく様子を力強く演じたニコール・キッドマンは見事な当たり役だ。アボリジニと白人の混血少年ヌラを演じるブランドン・ウォルターズも非常に魅力的だし、飲んだくれの医者フリンを演じるオーストラリアの国民的名優ジャック・トンプソンも良かった。
 ただ、残念ながら映画作品としては、大金を投じて作られたオーストラリアという国の壮大なプロモーション映画。それ以上でもそれ以下でもない、というのが率直な意見である。

 

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