アンチクライスト
Antichrist (2009)

 

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2011年2月26日より全国ロードショー
公式ホームページ

2009年カンヌ国際映画祭 主演女優賞(シャルロット・ゲンズブール)受賞
2009年ヨーロッパ映画賞 撮影賞受賞
2009年北欧理事会映画賞受賞
2010年デンマーク映画批評家協会賞 作品賞、主演男優賞、主演女優賞ほか5部門受賞
2010年ロベルト賞(デンマークのアカデミー賞) 作品賞、監督賞、脚本賞など7部門受賞

 

 2009年5月の第62回カンヌ国際映画祭にて正式上映され、あまりにも過激な描写に4人の観客が失神。前代未聞の賛否両論を巻き起こした大問題作『アンチクライスト』が、いよいよ日本でも劇場公開される。これまでにも『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00)や『ドッグヴィル』(03)、『マンダレイ』(05)と極端に好き嫌いの分かれる映画を生み出し、厳格なルールに基づくミニマリズム的映画運動“ドグマ95”の実践や、これまた大変な物議を醸した『イディオッツ』(98)におけるハードコアな性描写など、なにかと極端に走りやすいラース・フォン・トリアー監督だが、本作はある意味でその極め付けとも言うべき映画かもしれない。

 一組の夫婦(ウィレム・デフォーとシャルロット・ゲンズブール)が自宅で激しく愛を交わしている。だが、別の部屋では夫婦の幼い赤ん坊がベビー・ベッドを抜け出していた。窓の外から舞い込む雪に興味を惹かれた赤ん坊は、椅子からテーブルへとよじ登って窓際へ。そして、足を滑らせてアパートの下へと落下してしまう。その瞬間、妻はオーガズムの絶頂へ達するのだった。
 幼い息子ニックを失った夫婦。その葬儀の最中に、憔悴しきった妻は気を失ってしまう。病院で治療を受ける妻。深い悲しみが彼女の精神を蝕んでいた。医者はその悲しみ方が尋常ではないという。だが、セラピストである夫は様々な薬を投与する病院の治療法に疑問を抱き、強引に妻を退院させた。自らが自宅でセラピーを行うというのだ。彼はそれが最善の策だと信じていた。
 だが、セラピーは根本的な解決にはならなかった。夫は妻の病んだ精神を解放させるために、彼女が最も恐れるものは何か尋ねる。それは夫婦がエデンと呼ぶ山小屋だ。彼女は自らの研究論文を書き上げるためにそこへ行き、まだヨチヨチ歩きの息子ニックとひと夏を過ごした思い出がある。夫はその恐怖を克服させるためにエデンへ妻を連れていくことにした。
 エデンへ向かう途中、森の中で夫は奇妙かつ不思議な光景を目の当たりにする。一匹の雌鹿が彼の目の前を通り過ぎていくのだが、その子宮からは死んだ小鹿が体を半分外へ出して垂れ下がっていた。その一方で次第に元気を取り戻した妻は森を先へ先へと進み、日が暮れて山小屋へ到着するとすぐに眠りについてしまった。
 しかし、山小屋でのセラピーはさらに過酷なものとなる。妻の悲しみと自己嫌悪は肥大する一方で、それは肉体的な苦痛をも伴うようになっていった。山小屋の屋根には大量のドングリが降り続け、その絶え間ない音が夫婦の神経をイラつかせる。霧の深い森を歩いていた夫は、草むらの中で横たわるキツネを発見する。キツネは自らの内臓を口で引きずり出していた。そして、夫に向ってこう呟く。“混沌が始まった”と。
 山小屋の屋根裏部屋へと入った夫は、そこで妻が論文用に集めた研究資料を見つける。妻は中世の魔女狩りにおける大量虐殺を研究していた。テーブルの上に置かれた妻の論文を手にした夫は、そのページをめくっていく。すると、ページを追うごとに手書きの文字が乱れていき、最後の方はほとんど判読が不可能だった。妻は己の研究に呑み込まれていたのだ。魔女狩りの根幹である女性蔑視に感化され、自らの性を嫌悪するようになった妻を夫は批判する。
 夜中に夫の肉体を激しく求める妻。彼女は自分のことを強く叩くよう夫に要求するが、夫はそれをためらう。すると、妻は全裸のまま山小屋の外へと飛び出し、地面に這いつくばりながら狂ったように自慰行為に及ぶ。その常軌を逸した妻の様子に動転した夫は、妻を正気に戻そうと夢中で彼女の頬を引っ叩く。もっと強く叩いてと挑発する妻。互いに興奮状態に陥った二人は、大木のもとで激しく肉体を貪りあう。その周囲の木の幹からは大量の人の手が…。
 夫は上着のポケットから息子ニックの検視結果報告書を取り出す。エデンへ発つ前に自宅へ届いていたものの、今の今まで封を切ることを忘れていたのだ。そこには、息子の足の骨が不自然にねじれていたことが記されていた。気になった夫は生前のニックの写真を取り出す。すると、足元の靴が左右逆になっていた。写真を見せられた妻も驚く。間違えて靴を逆に履かせてしまったことがあったのだろうか。しかし、転落死とは直接の因果関係はない。そう思った夫だったが、何気なく他の写真を見てみる。すると、いずれの写真でもニックの靴は左右逆だった。彼は穏やかで優しい母親だった妻の、全く別の顔を垣間見た気がして戦慄する。
 朝になって妻は晴れ晴れとした顔で目覚める。その様子はすっかり別人のように元気だ。夫も本人も、ようやくセラピーの効果で回復したものと考えた。だが、それは嵐の前の静けさのようなものだった。夜になって突然暴れ出す妻。彼女は夫が自分を見捨てるのではないかという強迫観念に取りつかれていた。妻を落ち着かせようとする夫、いきなり甘えるように夫の肉体を求める妻。次の瞬間、夫は彼女に殴り倒されてしまう。木の板で夫の下半身を繰り返し強打する妻。夫は苦痛のあまり気を失う。彼女は硬直した夫のペニスを見て、狂ったようにそれをしごき続ける。血の入り交じった精液が噴出した。
 さらに、妻は夫の左足にドリルで穴を開け、ボルトを使って重たい回転砥石をその穴に固定する。逃げないようにしようというのだ。彼女は山小屋の軒下にレンチを捨て、暗い森の中を狂ったように駆け巡る。その間、夫は凄まじい激痛で目を覚ました。ボルトを外そうにもレンチがない。彼は脚に固定された回転砥石を引きずりながら、森の中へと逃げ出す。山小屋へ戻った妻は夫の姿がないことに気づき、激しい罵声をあげながら夫を探して森を彷徨うのだった。
 キツネの穴倉へ身を潜める夫。妻が鬼の形相で付近を駆けまわっている。すると、夫は穴倉の中に埋まっているカラスの死骸を発見する。おもむろにカラスは息を吹き返し、勢いよく鳴き声をあげ始めた。妻に見つかってしまう。慌てた夫は手元の石でカラスを叩き殺す。しかし、鳴き声を聞きつけた妻に見つかってしまった…。

 モノクロの映像とスローモーションを駆使して描かれるオープニングの悲劇。表裏一体となったエロスと死の情景は、まるで荘厳かつ幻想的なダーク・ファンタジーといった趣であり、残酷でありながらも息を呑むほどに美しい。その悲劇によって幼い息子を失った夫婦。物語は精神を病んでしまった妻と彼女を献身的に支える夫の2人が、森の奥の山小屋という隔離・閉鎖された空間の中で徐々に狂っていく姿を、時にポエティックな、そして時に悪魔的なイメージを織り交ぜながら、文字通り凄まじいまでのセックスとバイオレンスによって描いていく。
 とにかく、まず妻役を演じるシャルロット・ゲンズブールがとてつもなく凄い。息子を失った悲しみがやがて肉体も含めた苦しみへと変わり、やがて自傷行為を経て妄想に取りつかれた怪物へと変貌していく。全裸のまま土の上で大股を開いて狂ったように自慰行為に及び、まるでありったけの憎悪をぶつけるかのように気を失った夫のペニスを扱き、そして自らのワギナをハサミでザックリと切り落とす。もちろん日本上映版は修正済みであるが、それでも見ていて頭がクラクラしてしまうくらいにショッキングだし、演じるシャルロットの鬼気迫る…というよりも本当に何かに取り憑かれてしまったかのような演技には、もはや背筋の凍るような恐ろしさすら感じる。さすがはジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブールの娘。『なまいきシャルロット』のロリータ・アイドル時代からただ者ではないと思っていたが、ここまでぶっちぎってしまうとは。ただただ、唖然とするしかない。
 それではなぜ、この妻はそこまで精神的に追い詰められ狂っていくのか?息子を失った悲しみというのは、実はひとつのきっかけにしか過ぎないと見ていいだろう。注目すべきは、彼女が中世の魔女狩りにおける大量虐殺について研究していたという点だ。キリスト教、ことカトリックにおいてセックスと女性性というのは不浄なものとされてきた。それが極端な形で現れたのが魔女狩りの狂乱だったと言えるだろう。バチカンでは未だに住人の大半が男性であり、女性が肌を露出して歩くことも禁じられている。いかに今の教皇庁が否定したとしても、根本的な考え方に変わりがないことは明白だ。つまり、この妻は己の研究に没頭する中でそうしたカトリック的思考が無意識のうちに刷り込まれ、自分が肉欲に溺れたがために愛する息子を死に至らしめたという妄想的な罪悪感に取り憑かれていく。そして、それがやがて自らの女性性をも嫌悪・否定するまでに至っていくのである。

 そして、もう一つの重要な鍵が夫の存在である。悲しみの淵に沈む妻を案じ、自らセラピーを施して治療を試みる夫。度重なる妻の情緒不安定や暴力にもじっと耐え、懸命になって彼女を救おうとする彼の姿は、一見すると献身的な理想の夫像のように思える。だが、実は彼こそが妻を狂気へと追いやっていく元凶なのではないだろうか。
 妻を助けられるのは自分しかいないと信じて様々な治療法を試みる彼だが、その意に反して彼女の症状は悪化するばかり。その原因は、表面的なサイコセラピーの理論ばかりに捕らわれて妻の心の闇の本質へ全く目を向けていないこと、そして彼の潜在意識の中にある男性優位の欺瞞である。つまり、女性は男性よりも弱いものだから助けてあげなくてはいけないという、極めて一方的かつ独善的な思考だ。
 そうした物事を上辺でしか判断できない夫の偽善的人間性を最もよく象徴しているのが、妻による息子ニックへの無自覚な虐待であろう。彼女は自分でも気づかないうちに息子へ左右逆の靴を履かせ、それが原因で彼の足は不自然に変形してしまった。つまり、妻は代理ミュンヒハウゼン症候群を発症していたのである。
 そのきっかけとなったのは、夫の妻に対する優しい無関心。彼自身は妻の自主性を尊重してい
たという程度の認識しかないのだが、それは見方によっては身勝手で都合のいい考え方でもある。妻はインテリでプライドの高い夫から認めてもらいたいがために魔女狩りを研究し、関心を引きたいがためにわざわざ山小屋にこもって論文を執筆した。だが、夫はその妻の言動を額面通りにしか受け取ることしか出来ず、自主性の尊重という言い訳のもとに無関心を装い、その真意を全く見抜くことも汲み取ることも出来なかったのである。そして、それが彼女の内なる孤独を助長していき、やがて代理ミュンヒハウゼン症候群へと悪化させたのだ。
 思うに、この夫の人物像というのは、キリスト教の原理における男性優位思考の象徴であると同時に、何ら疑問を持つことなく教科書や聖書に記されたことを鵜呑みにする人々のこと、つまり本作の場合はカトリックの妄信的な聖職者や信者というものを象徴しているのではないだろうか。根拠のない善意はかえって凶器になる。間違った優しさは拠り所を求める人間の不安を肥大化させる。そして、それらは無自覚であるがゆえに、より一層のこと罪深いのだ。

 要約するならば、これはキリスト教の原罪を背負ってしまった女と、善意や良識という名の傲慢によって彼女を追いつめる男の姿を通じて、アンチキリストと呼ばれるものの意味と正体を問う映画なのではないだろうか。舞台となる山小屋の名称がエデンであることからも察することが出来るように、主人公の2人は現代のアダムとイヴと解釈することが出来る。だが、ここで付きつけられる問いの中には、そのアダムとイヴの物語に対する深い疑念も含まれているように思う。真の罪人はイヴではなくアダムなのではないか?と。
 いずれにせよ、本作は“取扱い要注意”という意味において、大変な危険を孕んだ映画と言えよう。つまり、スクリーンで展開する出来事をそのまま額面通りにしか受け取れない場合、本作は極めて残酷かつ不愉快な映画でしかないからだ。特に、その宗教的・歴史的・社会的な由来すらきちんと理解しないままクリスマスやバレンタイン・デーを祝ってしまう日本人には、もしかすると難しすぎる作品かもしれない。ましてや、なんら人間心理の複雑怪奇に対する洞察もないお涙頂戴の軽薄な感動映画が持てはやされる昨今の日本において、この作品がどのように受け取られるのか。見る者の宗教観はもとより、あらゆる意味での価値観が試される作品だ。

※日本ではR18指定、つまり成人指定の映画になりますのでご注意ください。

 

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