アグネッタ ソロ・ワークス (1)
Agnetha Fältskog (1968)

 

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オリジナルLP盤ジャケット

Royal RecordsCD盤ジャケット


オリジナルLP盤

CD盤(Royal Records)

CD盤(Sony)

(P)1968 Cupol AB (Sweden) (P)1999 Royal Records (Netherland) (P)2004 Sony Music (Sweden)
side 1
1,Jag Var Sa Kar
2,Jag Har Forlorat Dej
3,Utan Dej, Mitt Liv Gar Vidare
4,Allting har forandrat Sig
5,Forsonade
6,Slutet Gott Allting Gott
side 2
1,Tack Sverige
2,En Sommar Med Dej
3,Snovit Och De Sju Dvargarna
4,Min Farbror Jonathan
5,Folj Med Mig
6,Den Jag Vantat Pa
1,Jag Var Sa Kar
2,Jag Har Forlorat Dej
3,Utan Dej, Mitt Liv Gar Vidare
4,Allting har forandrat Sig
5,Forsonade
6,Slutet Gott Allting Gott
7,Tack Sverige
8,En Sommar Med Dej
9,Snovit Och De Sju Dvargarna
10,Min Farbror Jonathan
11,Folj Med Mig
12,Den Jag Vantat Pa
bonus tracks
13,Sjung Denna Sang
14,Nagonting Hander Med Mig
15,Borsta Tandtrollen Bort
1,Jag Var Sa Kar
2,Jag Har Forlorat Dej
3,Utan Dej, Mitt Liv Gar Vidare
4,Allting har forandrat Sig
5,Forsonade
6,Slutet Gott Allting Gott
7,Tack Sverige
8,En Sommar Med Dej
9,Snovit Och De Sju Dvargarna
10,Min Farbror Jonathan
11,Folj Med Mig
12,Den Jag Vantat Pa
#13と#14は男性歌手Jorgen Edmanとのデュエット・ソング
#15は歯科健康活動のキャンペーン・ソング

 

 当時まだ18歳だったアグネッタのファースト・アルバム。ヒット・チャート1位となったデビュー曲“Jag Var Så Kär(貴方を本気で愛していた)”を筆頭に、収録曲の大半を彼女自身が書いている。その多くがセンチメンタルでロマンティックなラブ・バラードだ。
 68年といえばビートルズの“ヘイ・ジュード”やローリング・ストーンズの“ジャンピン・ジャック・フラッシュ”が大ヒットし、ブリティッシュ・ロックやフォーク・サウンドが世界を席巻していた時代。そう考えると、これは恐らく当時ですら少々古臭く感じられるようなアルバムだったかもしれない。
 だが、スウェーデン南部の地方都市ヨンショーピングで生まれ育った少女アグネッタにとっては、コニー・フランシスやニール・セダカ、シルヴィー・ヴァルタン、ペチュラ・クラークの甘く切ないラブ・ソングこそが憧れ。本作はそんな十代の乙女の夢と希望、そして幼い頃から親しんできたオールディーズ・ポップスへの愛情がめいっぱい詰まった、初々しくも瑞々しい素朴なアルバムに仕上がっている。

 そもそも、アグネッタが音楽に興味を持つようになったのは5歳のとき。アパートの上階に住む音楽教師アンデション氏の部屋から、ピアノの音が聞こえてきたことがきっかけだった。ちょうどその日、彼は新しいピアノを買ったばかりだったという。
 その美しい音色に心を奪われた幼いアグネッタは、アンデション氏宅に上がりこんで鍵盤を触らせてもらった。これで彼女はすっかりピアノの魅力にハマってしまい、それ以来文字通り毎日アンデション氏のもとを訪れては何時間もピアノを弾かせてもらうようになったのである。
 やがて、彼女のピアノ熱が本物であると気付いた両親は、7歳の誕生日に新品のピアノをプレゼントしてくれた。さらに、アンデション氏の取り計らいでピアノ教師の個人レッスンを受けるようになる。“あまりにも幸せで、毎日のように朝から晩までピアノにかじりついていたわ”と当時を回想するアグネッタ。それだけに上達も人一倍早かったらしく、14歳の時には先生から“もうこれ以上教えることは何もない”と太鼓判を押されたそうだ。
 一方で、年頃になった彼女はラジオから聞こえてくるアメリカやイギリスのポップスにも興味を持ち始める。中でも、彼女にとって最大のアイドルは50年代のポップ・クィーン、コニー・フランシス。それも、“カラーに口紅”や“可愛いベイビー”のようにアップテンポな曲ではなく、“フーズ・ソリー・ナウ”や“泣かせないでね”のようにセンチメンタルなラブ・ソングが大のお気に入りだった。
 そんなポップス熱が高じて、13歳の時には親友レナとエリザベットと共に“ザ・キャンバース”というコーラス・トリオを結成。地元のパーティ会場やバラエティー・ショーなどにも出演し、プロ・デビューしようとラジオ局にデモ・テープを送ったこともあった。が、あえなく断られてしまったそうだ。
 さらに、14歳のクリスマスには両親から黄色いポータブル・レコード・プレイヤーを買ってもらい、家にいるときは自室で何時間もレコードに耳を傾けた。そればかりか、ヘアブラシをマイクに見立て、手鏡で自分の表情などを確認しながら、コニー・フランシスやリタ・パヴォーネのレコードに合わせて歌の練習もしたという。
 その翌年、15歳で下級中等学校を卒業したアグネッタは、進学ではなく就職の道を選んだ。もともと英語やドイツ語などの語学と音楽は成績優秀だった彼女だが、理数系は全くダメだったという。このまま無理して苦手な勉強を続けるよりも、働きながら好きな音楽の道を目指したい、というのが彼女の本音だった。
 かくして地元の自動車会社に電話交換手として就職したアグネッタ。しかし、親友と結成したグループ“ザ・キャンバース”は既に解散してしまい、音楽活動とはいっても時おり地元のアマチュア・オーケストラで歌う程度。そんな折、彼女はベルント・エングハルド・オーケストラのオーディションを受けることとなる。
 ベルント・エングハルド・オーケストラはヨンショーピングの隣町フスクヴァルナ(現在はヨンショーピングと合併)出身のダンス・バンドで、地元では有名なグループだった。もともとアグネッタ・デシルヴァという女性が紅一点のメンバーとしてボーカルを担当していたのだが、仲間のギタリストと恋に落ちてバンドを去ってしまった。そこで新たに女性ボーカリストを探すこととなったわけだが、ここからの展開はアグネッタの証言とベルントの証言が大きく異なる。
 まず、アグネッタ自身の回想によると、バンドがメンバーを募集していると聞いた彼女は、すぐさま電話をかけてオーディションを受けた。感触は良かったものの、まだ数人の候補が残っているからと言われて待つことになったという。それから数日後にベルントから連絡が入り、合格を知らされたのだそうだ。
 一方、ベルントによると、新しい女性ボーカリストがなかなか見つからないことに頭を悩ませていたところ、メンバーの一人がヨンショーピングのパーティ会場で歌っていたガールズ・トリオのことを思い出したのだそうだ。確か、そのうちの一人はデシルヴァ嬢と同じアグネッタという名前だったはず。そこで彼らはアグネッタに電話をしてオーディションを行い、ほぼ即決で彼女に決めたのだという。
 いずれにせよ、ベルントたちはアグネッタのメロディと歌詞を覚える早さ、そして曲に合わせていとも簡単に声色を変えてしまうテクニックに驚かされたと語る。当時の彼らはラテンやソウルなどをレパートリーにしていたのだそうだが、ジェームズ・ブラウンのファンク・ナンバーまで歌いこなしてしまう彼女のパフォーマンスは痛快だったという。とはいっても、我々の知っている清らかで少女のようなアグネッタの歌声からは想像もつかないのだが。
 こうして人気バンドのメンバーとなったアグネッタだったが、両親は当初大反対だったらしい。というのも、彼女以外のメンバー6人は全員若い男性。そこへ16歳の女の子が入り込んで、しかも専用バスで一緒に移動しながら各地のクラブやパーティ会場を回るのだから、それは親なら誰でも心配であろう。
 なので、最初のうち
は必ず父親イングヴァルの付き添いがあったのだそうだ。だが、その父もやがてメンバーと気心が知れるようになると、あまり余計な心配をすることもなくなった。そもそも彼自身、若い頃は旅回りの芸人一座に在籍していたこともあり、バンドの活動自体には大変理解があったという。
 ただ、それでも母親ビルギットだけは娘の音楽活動に懐疑的だった。なにしろ、世間で16歳といえば友達やボーイフレンドと遊んで青春を謳歌する年頃。それなのに、娘のアグネッタときたら平日の昼間は会社で働き、夜と週末はスウェーデン各地でライブ活動という忙しさ。普通の女の子として人生を楽しんで欲しいと願う母親だったが、アグネッタは猛烈に反発したのだそうだ。普段はシャイで大人しい彼女だが、家族や友人に言わせると、実はかなり気の強い頑固者らしい。

 そして、この頃からアグネッタは自ら作詞・作曲を試みるようになる。中でも、彼女自身がお気に入りだったのは、当時付き合っていた彼氏との別れを歌ったバラード“Jag Var Så Kär”。そう、後に彼女のデビュー曲となる作品だ。
 ただ、かなりの数の楽曲を書いたアグネッタだったが、当初は自作を他人に聴かせることなど考えられなかったという。もともとあまり自己主張をするタイプの女性ではないし、なにより自分がソングライターとして才能があるのかどうかも自信が持てなかった。しかも、当時のスウェーデンではまだ女性のシンガー・ソングライターというものが一般的ではなく;、お手本や目標となるような存在がなかったのである。
 それでも、あるとき勇気を出してバンド・メンバーの前で“Jag Var Så Kär”を聴かせたところ、これが予想外に大好評だった。すぐさまメンバーによってアレンジが施され、ライブでのレパートリーに加えられることとなる。これをきっかけに、バンドはアグネッタの他の作品も演奏するようになった。
 ところで、当時リーダーのベルントは既に結婚していたのだが、その妻の従兄弟に有名な音楽プロデューサーのカール=ゲルハルド・ルンドクヴィストという人物がいた。彼は50年代にリトル・ゲルハルドという芸名で活躍したロック・シンガーで、当時はレコード会社キューポルのプロデューサーとして腕を奮っていた。予てからレコード・デビューを目指していたベルントは、このカール=ゲルハルドのもとへデモ・テープを送ったのである。
 ただ、最初に送ったテープは全く相手にされなかった。特にアグネッタの歌声が不評だったという。“子供っぽ過ぎる”というのだ。それからしばらくして、ベルントは別のテープを送る。これまた、カール=ゲルハルドに言わせると“可もなく不可もなく”。だがその時、彼はかすかに聞こえてくる別の音に気付いた。
 実は、ベルントの送ったデモ・テープは右側の片チャンネルしか録音されておらず、左側から裏面に録音された音がわずかながら聞こえていたのだ。それは、女の子がピアノの弾き語りで歌っているものだった。どうも気になって裏面を再生してみたカール=ゲルハルドは、その歌声の素晴らしさに強い感銘を受ける。
 そう、その歌声こそアグネッタのものだった。録音されていたのは、後に彼女のセカンド・シングルとなるバラード“Utan Dej, Mitt Liv Går Vidare(私の人生は貴方なしで続く)”。彼女がプライベートで録音した音源が、なぜだかベルントのデモ・テープの裏面に収まっていたのである。
 すぐさま彼女と契約したいと考えたカール=ゲルハルドだったが、ちょっとした問題があった。なぜなら、彼が気に入ったのはアグネッタ一人だけ。バンドの方には興味がなかった。なので、ベルントに彼女の連絡先を聞くのも気まずい。そこで彼は妻に頼んで協力してもらい、アグネッタの名前と電話番号を突き止めた。
 しかし、そうした事情を全く知らないアグネッタは、いきなりかかってきたスカウトの電話に困惑する。というよりも、あのリトル・ゲルハルドが自分に電話をかけてくるなんて信じられなかった。これはバンド仲間のイタズラに違いないと思った彼女は、思わず頭にきて電話を切ってしまったという。
 懲りることなく再びアグネッタに電話をかけたカール・ゲルハルドだったが、やはり彼女は全く信用する様子がない。そこで、彼は証拠のデモ・テープに手紙を添えて彼女のもとへ郵送し、そこでようやくアグネッタはスカウトが本物だと気付いたのだそうだ。
 ちなみに、疑い深いアグネッタがレコード会社に電話をかけ直してリトル・ゲルハルドが出たことから納得した、という説もある。しかも、どちらの説もアグネッタ本人が証言しているもんだからややこしい(笑)。

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 こうして、予期せずレコード会社からスカウトされることになったアグネッタ。自分だけが選ばれたことは仲間に申し訳なかったが、バンド・メンバーもその点は理解してくれた。それに、当時は既にリーダーのベルントがバンドを脱退してしまっており、残されたメンバーは彼ほど野心的ではなかったようだ。
 そして、すぐにレコーディングの日程が立てられた。それだけでも心臓がバクバクするほど緊張するのに、加えてレコーディングは首都ストックホルムで行われる。当然のことといえば当然なのだが、そんな大都会に今まで一度も行ったことのないアグネッタにとってはとてつもない大冒険だ。
 もちろん、当時の彼女はまだ未成年なので、父親イングヴァルが同行することとなった。特急列車に乗ってストックホルムへとやって来た二人は、レコーディングが行われるフィリップス・スタジオへと到着。前日ほとんど睡眠が取れなかったアグネッタは、緊張のあまり両足が震えて前へ進めなかったという。
 すると、スタジオへつながる階段の下からオーケストラの演奏が聞こえてきた。それは、彼女の記念すべき処女作“Jag Var Så Kär”のメロディだった。自分の書いた曲をプロのオーケストラが演奏している。鳥肌が立つほど感動した彼女は、その時点で一気に緊張がほぐれたという。後に彼女は、この時のことを“私の全キャリアで最も幸せな瞬間だった”と振り返っている。
 このレコーディングで、初めてアグネッタの歌を生で聴いたカール=ゲルハルド。“まさに私が期待した通りだった”と後に語っている。“彼女は音階を探したりせず、迷うことなく食らいつくんだ”と。その場でバック・コーラスも彼女自身がハモることになったのだが、いともたやすくやってのけたそうだ。
 とにかく、カール=ゲルハルドのアグネッタに対する入れ込みようは半端ではなかった。なにしろ、この最初のレコーディングでシングル2枚分を製作してしまったのだから。全くの新人歌手で最初からセカンド・シングルまで用意するというのは、当時としては極めて異例のことだった。
 実は、キューポルの社長は若者向けのポップスに対して理解が乏しく、アグネッタとの契約に関してもかなり後ろ向きだったという。作品の出来栄え次第ではボツにするとまで言われていたそうだ。しかし、カール=ゲルハルドは彼女なら絶対に売れると確信していたし、オーケストラのアレンジと指揮を担当したスヴェン=オーロフ・ワールドフもアグネッタの歌唱力を高く評価。“あんなオヤジの言うことなんか無視しろ”と言って、カール・ゲルハルドの背中を押してくれた。そればかりか、二人は最悪の場合、自腹をを切ってでも彼女のレコードを出すつもりだったと語っている。
 結果はもちろんゴー・サイン。完成した作品を聴いた社長は大絶賛だったという。ストックホルムを離れようとしていたアグネッタと父親の二人は急きょキューポルのオフィスへと呼び戻され、すぐさま契約書へサインすることとなった。
 ちなみに、スヴェン=オーロフ・ワールドフは、後にユーロビジョン・ソング・コンテストでアバの『恋のウォータールー』のオーケストラ指揮を担当した人物。あのナポレオンの衣装に身を包んだオジサンだ。

 さて、1967年11月の末に発売されたデビュー曲“Jag Var Så Kär”。しかし、当初はイギリスの女性歌手ジュリー・グラントのヒット曲をカバーした“Följ Med Mig(私について来て)”がA面扱いだった。ところが、ラジオ局のDJたちはB面の“Jag Var Så Kär”を強力にプッシュ。その結果、翌68年の1月に当時スウェーデンで最も影響力の強かったラジオ・チャート、スヴェンスクトッペンで初登場3位を記録し、数週間後には見事ナンバー・ワンに輝いたのだ。
 それでも、デビューからしばらくは故郷のヨンショーピングで暮らしていたアグネッタ。そもそも当時のスウェーデンではプロモーション活動があまり重要視されておらず、なおかつ実績のない新人歌手がラジオやテレビに出演するということもなかったらしい。
 なので、初めてデビュー曲がラジオで放送された時も、アグネッタは母親と一緒に朝食の用意をしている最中だった。自分が本当にレコード・デビューしたんだと実感した彼女は、あまりの嬉しさから母親に抱きついて大騒ぎしたという。
 しかし、スヴェンスクトッペンでのナンバー・ワン獲得をきっかけに、雑誌のインタビュー取材やテレビ出演の仕事が増えていった。だが、自分のキャリアに関してとても慎重だった彼女は、電話交換手の仕事やバンド活動も相変わらず続けていた。だが、やがてそれも限界に達するときが来る。
 ある日、前日の夜から朝方までバンド仲間とライブを行っていた彼女は、ほとんど睡眠を取らないまま仕事へ出かけてしまい、職場で気を失ってしまったのだ。不規則な生活や、15歳の頃から吸っているタバコにも原因があった。実は、彼女は17歳にしてかなりのヘビースモーカーだったのである。
 それから数日間、アグネッタは体調不良で寝込んでしまう。見かねた母親から“会社の仕事か音楽か、どちらかを選びなさい”と迫られた彼女は、迷うことなく音楽の方を選んだ。両親は明らかに落胆したそうだが、彼女の意思は固かった。
 68年2月に電話交換手の仕事を辞めたアグネッタ。セカンド・シングル“Utan Dej, Mitt Liv Går Vidare”もスヴェンスクトッペンでトップ10入りを果たすものの、サード・シングル“En Sommar Med Dej(貴方と一緒の夏)”はチャート・インすらせず。いきなり華々しいデビューを飾ったものの、まだまだ彼女のキャリアは安定していなかった。
 また、この頃西ドイツのレコード会社からアプローチを受けた彼女は、新進気鋭の売れっ子若手プロデューサー、ディーター・ジンマーマンと知り合う。当時、西ドイツではスウェーデン人の女性アイドル歌手が次々と脚光を浴びていたことから、当然のことながら期待の新人アグネッタ・フォルツコッグにもお誘いがかかったというわけだ。
 しかも、ナチュラル・ブロンドに青い瞳でスタイル抜群の彼女は、まさに西ドイツ人が理想とする北欧ギャルそのもの。ディターは一目見てほれ込んでしまった。一方、アグネッタの方でも、背が高くてハンサムで野心家のディーターに夢中となる。出会って1ヵ月後には婚約を発表したディーターとアグネッタ。だが、そのちょうど同じ時期に、彼女は後の人生を大きく変える一人の男性と知り合う。

 当時まだベルント・エングハルド・オーケストラ(リーダーのベルント脱退後もバンド名は同じだった)に在籍していたアグネッタは、その年の5月からスウェーデン各地をライブで回った。そして、5月23日にスモーランド地方のモーリラという小さな町で、当時人気絶頂のフォーク・バンドと同じステージに立つこととなる。そのバンドとはフーテナニー・シンガーズ。そう、後にアバのメンバーとなるビヨルン・ウルヴァースが在籍していたバンドだ。
 だが、この最初の共演における出会いは芳しいものではなかったらしい。当時のビヨルンはアイドルとしても大人気で、若い女の子はみんな彼に夢中。ひねくれ者のアグネッタはヨハンという他のメンバーが好きだと公言していたが、実際は彼女もまたビヨルンに憧れていた。
 一方、最初にテレビの音楽番組でアグネッタを見かけたビヨルンも、ブロンドのキュートな彼女に好感を持っていたという。なので、二人ともモーリラでの初共演を楽しみにしていたらしい。
 ところが、移動バスの故障が原因でベルント・エングハルド・オーケストラの到着が大幅に遅れてしまった。しかも、厳密に言うと共演ではなく、彼らはフーテナニー・シンガーズの前座的扱いだったのだ。それが遅刻してしまったもんだから、急きょフーテナニー・シンガーズのライブが繰り上がることになってしまった。
 当然のことながら、フーテナニー・シンガーズの面々は激怒。しかも、当時ベルント・エングハルド・オーケストラのようなダンス・バンドは、ロック・バンドやフォーク・バンドよりも格下の2流扱いされていたため、アグネッタたちは散々嫌味を言われてしまい、楽屋にすら入れてもらえなかったという。
 それでも、アグネッタに好意を持っていたビヨルンは恐る恐る彼女に声をかけた。アグネッタの方も、憧れのアイドルと話すことができて有頂天になった。とはいえ、周りの雰囲気が険悪だったため、二人にとっては少々苦い思い出となってしまったのである。
 その後、テレビの音楽番組で再び顔を合わせたアグネッタとビヨルン。だが、その直後に彼女とディーターの婚約が芸能ニュースを賑わせ、ビヨルンは縁がなかったものと諦めたのだという。
 かくして、スウェーデンと西ドイツを行き来するようになったアグネッタ。9月末にはベルント・エングハルド・オーケストラを正式に脱退し、4枚目のシングル“Den Jag Väntat På”はセールス・チャートで7位をマーク。さらにテレビでの活躍の幅を広げるため演劇学校にも通うようになった。
 そして、彼女が本格的にストックホルムへ移り住んだのもこの頃。まだ未成年の彼女が一人暮らしすることを両親が心配したため、レコード会社キューポルの製作主任ラース=ヨハン・ルンドクヴィストの自宅に居候することとなった。
 だが、そんな両親の心配とは裏腹に、当時のアグネッタは相当な野心家でタフな少女だったらしい。ベニーが在籍していたヘップ・スターズのリード・シンガーで、後にビヨルンとベニーのプロデュースで男女デュオ“スヴェン&ロッタ”として活躍するスヴェン・ヘドルンドは、ストックホルムへ移ってきたばかりの頃のアグネッタをこう回想している。
 “彼女はまるで男みたいな話し方をしていたよ。あんなに言葉使いの悪い女の子は、当時はかなり珍しかった。こりゃ相当タフで気の強い子だ、って思ったもんさ。当時の彼女はまだかなり若かったし、芸能界で生きていくために必死だったんじゃないかな”と。
 また、アグネッタ自身も大都会で生活することは精神的に相当なプレッシャーだったことを認めているし、なによりも周りから小娘扱いされるのが我慢できなかったという。“小柄でブロンドだからというだけでバカだと思われるのは心外よ。君はまだ若くて新人だから何も知らないんだろう、っていう周りの態度が気に入らなかったわ”と。中でも、作詞・作曲のゴーストライターがいると噂されたことは一番頭にきたらしい。18歳の小娘に楽曲なんぞ書けるわけがないというのだ。
 それでも、彼女の人気は止まるところを知らなかった。12月に発売されたファースト・アルバムはセールス・チャート1位を獲得。当時のスウェーデンのセールス・チャートはアルバムとシングルが混在しており、しかも値段の高いLPアルバムはあまり売れないというのが常識だった。それだけに、このナンバー・ワン記録は数字以上の価値と重みがあったのである。
 さらに、その直後に発売された5枚目のシングル“Snövit Och De Sju Dvärgarna(白雪姫と7人の小人)”も順調に売れた。デビューから1年足らずで、彼女は名実共にスウェーデンを代表する国民的スーパー・アイドルとなったのだ。


 

<楽曲解説>

1,Jag Var Så Kär (貴方を本気で愛していた) ビデオ
 アグネッタの処女作にしてデビュー曲。上でも述べたように本来はB面扱いだったものの、各局のラジオDJが強力にエアプレイしてくれたおかげで、こちらの方がチャート1位を獲得してしまいました。もちろん、シングルのセールス・チャートでも1位を記録。8万枚というシングル売り上げ枚数は、当時のスウェーデンでは立派な数字だったようです。
 作詞・作曲ともにアグネッタ自身。まさにスウェーデン版コニー・フランシスという感じです。“フーズ・ソリー・ナウ”からの影響が濃厚すぎるくらいに濃厚。かなり50年代ポップス寄りの作品と言えるかもしれません。
 また、当時はまだボイス・トレーニングすら受けたことのなかったアグネッタ。確かにまだボーカルに素人臭さは残りますが、乙女らしい瑞々しさがなんとも爽やかでセンチメンタルな印象を残します。アイドル・ポップスとしては申し分のない出来。ナンバー・ワン・ヒットも十分に納得ですね。

2,Jag Har Förlorat Dej (貴方を失った私) ビデオ
 こちらは当時の恋人だった西ドイツのプロデューサー、ディーター・ジンマーマンとアグネッタが共作したバラード。これまたシルヴィー・ヴァルタンを彷彿とさせる、胸のキュンとするような乙女チック・ナンバーです。いや〜、大好き(笑)

3,Utan Dej, Mitt Liv Går Vidare (私の人生は貴方なしで続く) ビデオ
 セカンド・シングルのB面ソングながら、やはりスヴェンスクトッペンで堂々の8位をマークしたヒット曲。もちろん、作詞・作曲はアグネッタ自身です。デビュー・ヒット“Jag Var Så Kär”と同じく、コニー・フランシス・スタイルのセンチメンタルなバラード。どちらも非常によく似ています。
 この連続ヒットによって彼女はスターとしての地位を確立したわけですが、同時に“アグネッタ=古風なバラード”というイメージを定着させることに。もちろん彼女自身はもっと幅広い楽曲にチャレンジしたかったわけですが、そのイメージを払拭させるためしばらく苦しめられることとなります。

4,Allting har förändrat Sig (全てが変わった) ビデオ
 アグネッタにとっては恩師でもあるリトル・ゲルハルドことカール=ゲルハルド・ルンドクヴィストが作詞・作曲を手掛けたナンバー。フォーキッシュなギター・サウンドと牧歌的なメロディの印象的な、なんとも爽やかで可愛らしいポップ・バラードです。もともと4枚目のシングルのB面ソングでしたが、スヴェンスクトッペンでは見事に2位をマークしました。

5,Försonade (和解) ビデオ
 当時から早くも他人のために曲を書き下ろすようになったアグネッタ。この作品も、もともとはグンナー・ウィクランドという男性歌手のために書かれた作品です。ユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表選を狙っていましたが、残念ながらエントリーすらされず。そのため、アグネッタ自身が歌うこととなり、サード・シングルのB面ソングとして使用されました。
 ジャック・ブレルやアズナヴール辺りが歌いそうなシャンソン風バラードで、確かに男性歌手向きといったような印象ではありますが、アグネッタらしいメランコリックな美しいメロディは素敵です。ちなみに、ハリウッド・リメイクも決まって話題沸騰中のスウェーデン産ヴァンパイア映画『ぼくのエリ 200歳の少女』(08)の挿入歌として使われているので、映画をご覧の際は是非ともチェックしてみて下さい。

6,Slutet Gott Allting Gott (終わり良ければ全て良し) ビデオ
 これがセカンド・シングルのA面だった作品。アメリカの美人カントリー歌手ジュディ・リンのカバーらしいのですが、あまり詳しくないので分りません。まあ、典型的なカントリー&ウェスタンといった感じで、アグネッタとしてはアップテンポな楽曲をやりたかったのでしょうけれど、結局はB面の“Utan Dej, Mitt Liv Går Vidare”の方が注目されることとなってしまいました。
 ちなみに、本作のスウェーデン語歌詞を書いているのは、後にアバの敏腕マネージャーとして名を馳せるスティッグ・アンダーソン。もともと彼は学校教師から作詞家に転向して大成功を収めた人。中でもアメリカやイギリスの最新ヒットのスウェーデン語カバーは、文字通り彼の独壇場でした。
 というのも、彼は暇を見つけてはニューヨークやロンドンへと行き、ヒット・チャート上位にランクされている楽曲の権利を片っ端から買いまくっていたそうです。しかも、帰りの飛行機の中でスウェーデン語の歌詞を全て書き上げてしまうという早わざ。生涯で実に4000曲以上もの歌詞を書いたそうですが、これもその中の一つだったわけですね。

7.Tack Sverige (ありがとう、スウェーデン) ビデオ
 これまたアグネッタとディーター・ジンマーマンの共作。なんだかペチュラ・クラークの『恋のダウンダウン』を意識したような、それでいてサンディ・ショー辺りが歌っていてもおかしくなさそうな。要は、いかにも60年代半ばらしいガールズ・ポップというわけです。キュートなナンバーではありますが、あまり印象には残らないかな。可もなく不可もなくといったところです。

8.En Sommar Med Dej (貴方と一緒の夏) ビデオ
 これはなんと、アグネッタの父親イングヴァルが書いた作品。女性アイドルの楽曲としてこれはどうなの・・・?と思わず首をひねってしまうような、あまりにも古臭くて垢抜けない民謡風のワルツ・ナンバーです。
 レコーディングを希望したのはアグネッタ本人。お父さんが書いた曲でいいのがあるの、とレコード会社キューポルの製作主任を説得したのだそうです。しかも、サード・シングルのA面ソングとして発表。ところが、ラジオでもセールスでもことごとく無視され、チャートインすら出来なかったんですね。
 家族想いのアグネッタなだけに、かつて芸能界を目指したこともある父親の夢を叶えてあげたいと思ったのかもしれませんが、これはちょっと頂けなかった。お父さんの若い頃だったらいざ知らず、60年代末の、しかもアイドル系ポップス歌手の作品としては時代錯誤も甚だしいといった感じです。

9.Snövit Och De Sju Dvärgarna (白雪姫と7人の小人) ビデオ
 まるで昔の「お母さんといっしょ」なんかで使われそうなお子様向け風のポップ・ナンバー。子供との掛け合いなんかクサいセンスだな〜といった印象ですが、ワリと楽曲そのものは悪くありません。ノスタルジックでキュートなメロディはなかなか好み。マーチっぽいアレンジも雰囲気あります。
 ただ、恋人ディーターと共に作詞・作曲を手掛けたアグネッタ自身にとっては過去の汚点だそうで、“今聴くと恥ずかしくて隠れたくなる”のだそうです(笑)。ちなみに、5枚目シングルのA面としても使用されました。

10,Min Farbror Jonathan (私のジョナサン叔父さん) ビデオ
 こちらが、その5枚目シングルのB面ソング。同じく恋人ディーターとの共作です。サンディー・ショー辺りが歌いそうなUKガールズ・ポップ風のアップテンポ・ナンバーですが、いまひとつ垢抜けきれていないという感じ。アグネッタに言わせると“韻の踏み方が最悪”とのことですが、ビートのリズムにも問題があるような気が…。軽快さに欠けるというか、どうももたつき気味なんですよね。

11.Följ Med Mig (私について来て) ビデオ
 そして、これがデビュー・シングルのA面に収録されていた作品。イギリスの女性歌手ジュリー・グラントのカバーで、スウェーデン語歌詞はアグネッタが書いています。どうしてこれをA面扱いにしたのか?と不思議になってしまうくらい、地味で平凡なポップ・ナンバー。特筆すべき点は何もありません。

12.Den Jag Väntat På (私が待ち続けた人) ビデオ
 4枚目シングルのA面に収録され、スヴェンスクトッペンで9位にランク・イン。さらに、セールス・チャートでも7位をマークしたヒット曲です。実はこれ、当時アグネッタの憧れだったペチュラ・クラークのアルバム曲“Your Love Is Everywhere”のカバー。作曲はトニー・ハッチとジャッキー・トレントの夫婦で、アグネッタがスウェーデン語歌詞を担当しています。ロマンティックでゴージャスなラブ・バラードといった感じで、ペチュラの原曲にかなり忠実な仕上がりだと思いますね。

※アルバム未収録曲

Sjung Denna Sång (歌を歌おう) ビデオ
 当時世界的に人気のあった男女デュオ、ソニー&シェールのヒット曲“Sing C'est La Vie”のカバーで、アグネッタと同じレコード会社キューポルに所属していた男性歌手ヨールゲン・エドマンとのデュエット・ナンバー。68年の秋にシングルA面として発売されています。キューポルとしてはスウェーデン版のナンシー・シナトラ&リー・ヘイゼルウッドを狙ったのだそうですが、ヒット・チャートでは全くの惨敗でした。

Nägonting Händer Med Mig (何かが私に起きている)
 こちらはそのB面に収録された作品。やはりヨールゲン・エドマンとのデュエットです。これもどうやらカバー作品らしいのですが、残念ながらオリジナル・アーティストが誰なのかは分かりません。これといって特筆すべき作品ではないものの、少なくともA面よりは出来が良いと思います。どことなく牧歌的でノスタルジックなポップ・ソング。スヴェンスクトッペンではこちらが9位にランク・インしました。

Borsta Tandtrollen Bort (歯を磨けば、歯の妖精も近づけない) ビデオ
 スウェーデンの歯科医師会が主宰する子供向けの“歯磨き推進キャンペーン”用として製作されたキャンペーン・ソング。それ以上でもそれ以下でもなしといった感じです。一応、作詞・作曲はアグネッタ。当時は歯科医師会のコンベンション会場のみで配布された非売品です。

 

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